音楽ライターの二木信が、この困難な時代(Hard Times)をたくましく、しなやかに生きる人物や友人たち(Good Friends)を紹介していく連載「good friends, hard times」。国内のヒップホップに軸足を置きながら執筆活動を展開してきた二木が、主にその世界やその周辺の音楽文化、はたまたそれ以外の世界で活躍、躍動、奔走するプレイヤー(ラッパー/ビートメイカー/DJ)、A&Rやプロデューサーなど様々な人物を通じて音楽のいまと、いまの時代をサヴァイヴするヒントを探ります。第2回目に登場するのはCE$

この連載を始める際に必ず取材したいと考えたひとりが、tofubeatsのマネージャーとして知られる杉生健だ。またの名をCE$(セス)。DJであり、ハードコア・バンド、she luv itのベーシストでもある。この記事では敬意と親しみを込めてCE$と呼びたい。

初対面は2016年6月4日に大阪の心斎橋にあるクラブSTOMPでCE$が主催した、名古屋のヒップホップ・クルー、SLUM RCのアルバム『WHO WANNA RAP』のリリース・パーティと記憶している。そのとき、オープン前のフロアで挨拶して世間話をした。SLUM RCの荒れ狂うライヴの数時間前、オープン直後の彼の、のびのびとしてぬくもりのあるDJをよくおぼえている。彼のDJはその日の長く激しい一夜に臨もうとする人々を温かく包み込んでいた。

それ以前からDJとしてのCE$を知っていた。だが実は、数多くのミックスを発表しているDJとしてのCE$とtofubeatsのマネージャーである彼が同一人物と認識するまでに僕は時間を要した。それは、グライムやギャングスタ・ラップ、ダブステップなどのアンダーグラウンドなダンス・ミュージック等から成るCE$のいわばハードコアなセンスと、tofubeatsの作風や個性がすぐには結びつかなかったためだ。

今回の取材のきっかけのひとつもそこにある。すなわちCE$はどんな音楽人生を送り、tofubeatsと出会ったのか。また、CE$がインターネットの普及に伴う音楽産業の劇的な変化の時代にtofubeatsの才能にいち早く着目し、そしてどのようにしてともに歩むようになったのか。こうした点にとても興味を抱く。さらにもうひとつ、CE$の音楽への真っ直ぐな情熱、探求心を伝えたい。

現在、大阪に居を構えるCE$は、仕事で東京に来ているタイミングで渋谷の喫茶店でインタヴューに応えてくれた。飄々として物腰も柔らかい。眼鏡の奥の目は笑うと愛嬌があるが、主張や意見を述べる時の眼光は鋭く、語り口によどみはなく、論理は明快だ。ARC’TERYXのグレーのダウンジャケットと、ホワイトとワインレッドだろうか、色鮮やかなオーヴァーサイズのチェックのシャツのカラーコーディネートがとても似合っている。やんちゃなキッズの精神を有したやり手のマネージャーという印象を抱く。いや、愛嬌たっぷりの少年のような大人と言った方が正しいか。ハードコア・パンクから教わったこと、CISCO勤務やダブステップのDJ時代、tofubeatsとの出会いと関係など話題は多岐に渡った。話は10代のころから始まる。

CE$は1982年生まれ、出身地は三重県上野市(現・伊賀市)。「地元はあまりに田舎でCD屋さんに売っている洋楽はボン・ジョヴィぐらいしかなかったです」と語るが、そのような環境でも、いや、だからこそか音楽に対しては貪欲だった。

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「最初はボン・ジョヴィのようないわゆるヘアメタル、LAメタルをカッコイイ不良の音楽として聴いていたけど、もっと違う音楽があることを知るようになります。きっかけのひとつは、中1の時に、放送部だった友だちのお兄ちゃんが当時流行っていたメロディック・ハードコアを学校でかけたことですね。〈ファット・レック〉(サンフランシスコを拠点とするレーベル)とか〈エピタフ〉(LAを拠点とするレーベル)から出ているバンドの曲をかけたんです。そこから国内海外問わずいわゆるメロディック・ハードコアのシーンが好きになっていきました。90年代中盤は、Hi-STANDARDが人気になり始めた時代でしたし、僕は超メロコア世代。日本ではメロコアは蔑称として使われがちですけど、僕らの町、世代からしたらやっぱりすごく刺激的な音楽でした。たまに大阪に行って雑誌や店員さんの話を頼りにいろいろ買ったりする中学生でしたね。でも、生まれて初めて行ったライヴはなぜか大阪城ホールのKISSだった。なぜか友だちと『KISS観に行こうぜ』ってなって(笑)。それが中2のときですね」

三重県内の高校進学後は、ミスフィッツやアグノスティック・フロントといったUSハードコアを糸口にさらにハードコア・パンクを独自に探求していく。OUT TA BOMBや、スタート・トゥデイといったハードコア・パンクのカタログ通販を毎月チェック、「7インチを大量に買い込んで1人で聴くような孤独な少年でしたよ(笑)」と自虐ギャグ交じりに語るものの、同時に、ライヴの現場にも足を運ぶようになる。高1のころに、地元の先輩のバンドのライヴに行ったのが、最初の“パンク体験”だった。

「僕らの地元にはライヴ・ハウスがなかったから、楽器屋さんの上のスタジオにビールケースのステージを作ってアンプを持ち込んでライヴしていましたね。そこに集まってくる人たちも当時の自分にとっては強烈だった。メロコア好きの人もいれば、ハードコア・パンクの人たちもいるし、鋲ジャンの怖い先輩もいたり。めっちゃビビってましたよ。そういう場所に出入りするようになってしばらくして、高2ぐらいのころに知人を介して当時21、2歳ぐらいの地元の先輩たちと知り合う。その人らはNYハードコアのバンドを大阪でやっていて見た目もすごかった。和彫がブワァァァッて入っている体でFUBUみたいなでかい服を着ていたから迫力があって。みんな坊主でバンダナを巻いていたりしてて怖かったけど、高校生からしたらそういうのってカッコ良く見えたんですよ。同じTシャツを着るとか同系統の服装でポッセ感を出してたり。その流れでヒップホップの映画を観るようになったりしました。だから僕の場合は、家族、友人、仲間、コミュニティ、地元を大事にする、そういう価値観を、ハードコア・パンク/ヒップホップ経由で学びました」

そうしたある種の不良文化としてのハードコア・パンクに強烈な刺激を受けると同時に、ハードコア・パンクを通じて、「こんな人もいてあんな人もいるんだ」という価値観の多様性に触れたことも大きかったという。

「DIYにこだわりを持つ人、ヴィーガンの人、一口にパンクと言っても思想や価値観、趣味趣向は様々あるじゃないですか。中学生のころはハードコア・パンクはだいたい全部一緒に捉えていたけれど、高校生になってライヴに足を運んだり、先輩から教えてもらったりして世の中にはいろんな考え方の人がいるんだなって知りました。ハードコア・パンクで、そういう知見を広げたと思います」

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ハードコア・パンクにおけるライフスタイルや価値観、思想の多様性を知る上で『アメリカン・ハードコア』(2006年公開)という、80年代初頭に起きたUSハードコアのムーヴメントについてのドキュメンタリー映画はひとつの参考になる。CE$は「あれは、原作本の方が個人的には面白かったですね(映画は、80年代初頭にワシントンでハードコアのショウのプロモーターをしていたスティーヴン・ブラッシュによる、当事者の数々の証言を織り込んだ著作を基にしている)」と言い、さらにこう続ける。

「自分も三重の小さな町の人間だったから、NYとかLA以外のアメリカの地方都市の若い人たちがやることがなくてスケボーとかバンドを始めるのってすごく身近な感覚がしたんですよ。彼らを身近に感じられた。要は、演奏技術はあまりなくても、持て余した情熱や音楽への気持ちだけで始めてもいいんだなって思えたのはでかいですよね」

高校卒業後、大学進学のために大阪に出るタイミングでCE$は高校のころに出会った先輩のひとりが大阪でやっているハードコア・バンドにベースとして加入。さらにそのバンドで、NYでのライヴを経験する。当時憧れだったクイーンズのエブリバディ・ゲッツ・ハート(Everybody Gets Hurt)とブロンクスのアイレイト(IRATE)というバンドと対バンする貴重な体験をするものの、そのことがひとつのきっかけとなりハードコア・パンクから一時離れることになる。

「圧倒的にピュアなハードコアのライヴを目の当たりにして、これ以上のものはいまの自分にできるとは思えないってぐらいの衝撃を受けてしまったんです。ちょうど、ローカルなハードコア・パンク・シーンの縦社会や村社会的なものに疲れている時期でもあったんですよね。先輩が揉めている相手からライヴを妨害されたり、街で絡まれたり、そういう争いとかしがらみがけっこうあって。当然NYのシーンにもしがらみとかもちろんあるんでしょうけど、彼らのライヴがあまりに衝撃的で僕と同じ地元で同世代のドラムとともにそこで1度燃え尽きてしまった。それで日本に帰ってきてから『僕らはもうバンド辞めます』ってなっちゃって。その後、二十歳ぐらいからの数年間、ハードコアのライヴには1回も行かず、あれだけのめり込んでいたはずなのに、CDもレコードも1枚も買わなくなるようになってしまった。それで享楽的な世界を求めてクラブに行き出すようになるわけです。それもまたベタですが」

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大阪の混在する音楽文化のなかで

CE$は大学卒業後にある会社に勤めるものの、いまで言うブラック企業だったことが判明し3ヶ月で退社。その後、タワーレコードやKING KONGといったレコード店の面接を受けたものの不採用が続き、実家に帰ろうかと考えていた矢先にいまは無きCISCOに「拾われた」と言う。「中学の文集をあるとき読んだら、『将来、音楽業界で働きたい』って書いてあったんですよ。だから、昔からそういうつもりだったんでしょうね。CISCOに雇ってもらったときも、『掃除でもなんでもするから働かせてください』って感じでしたから」。勤務先はアメ村にある総合店に決まる。2004年のことだ。

「それまでバンド・カルチャーのなかにいたから、レゲエもヒップホップもテクノもハウスもまったく知らない状態だったけど、総合店のオールジャンルのCD担当で入社したから必然的にすべてのジャンルをある程度把握しなくちゃいけなくて必死で。ターンテーブルも持ってなかったんで慌てて買ってDJもそれをきっかけに始めたんです」

そして、持ち前の旺盛な好奇心と行動力でジャンルを越境する活動を展開していく。

「当時はいまほどネット社会じゃなかったからフライヤー・カルチャーがしっかりあって、様々なジャンルの人がフライヤーをお店に毎日持ってきてくれるんですよ。そこで立ち話して仲良くなると、パーティに遊びに来てくださいよって気軽に誘われる。それで、レゲエでもヒップホップでもテクノでもブレイクコアでも誘われたパーティに片っ端から遊びに行っていたし、DJは誘われたら基本やりますってスタンスでいろんなところでやっていました。いろんなジャンルのパーティが混在していた時代でもありましたし、当時は難波ROCKETS(2016年2月閉店)、その横にはclub SAOMAI(2010年4月閉店)って箱、いまも心斎橋にあるSTOMPもすでにあって毎週イベントもたくさんあったから。音楽についての考え方も友人関係もそこで培った部分が大きいと思います」

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そんなCE$が当時のクラブ・ミュージックのなかで最も熱を上げたのがダブステップだった。理由はシンプルだ。「そのときクラブ・ミュージックの世界で未知数だったのがダブステップだったから、自然とダブステップのレコードを買うようになった」。そしてCE$は梅田のクラブNOONで行われる2つのレギュラー・イベントにDJとして参加するようになる。2006年からスタートした<DEPTH>は三重から大阪に一緒に出てきた地元の友だちと立ち上げた。一方<DUBSTEP RUDE>はその名の通りダブステップ・オンリーをコンセプトとするパーティとして2007年に始まる。CE$はいわばそのオリジナル・メンバーだった。

「<DUBSTEP RUDE>は国内DJ/アーティストをゲストで呼ぶ一方、スクリームやベンガ、シャックルトンといった海外の気鋭のアーティストの大阪公演を受けたりしていたんです。そういった初期ダブステップのクリエイターがNOONでやっていたのはけっこうすごいことだったのかもと思います」

00年代中盤は、ロンドンのクロイドンで産声を上げたダブステップのウイルスが世界中のアンダーグラウンドに伝播していった時代だ。大阪も例外ではなかった。アンダーグラウンド文化が持つ連帯感が、当時すでにダブステップのシーンでは名を馳せていたUKのクリエイターのブッキングを可能にしたと言えるのではないか。クロイドンのプロデューサー、スクリームがダブステップ・クラシックとして知られる“ミッドナイト・リクエスト・ライン”をリリースしたのは2005年8月、さらにその翌年にはファースト・アルバム『Skream!』を世に送り出している。しかし、元々ダブステップをコンセプトに始まった<DUBSTEP RUDE>はUKのダブステップのアーティストをゲストに迎えることによって、むしろグライム色を強くしていったというのが興味深い。

Skream – Midnight Request Line

「僕の地元の仲間はイベントをきっかけにDJや制作を本格的に始めるんです。ダブステップの曲を作るだけじゃなくて、ダブステップのマシンライヴをしたりして。当時のロンドンでもダブステップのライヴ・パフォーマンスする人はあまりいなくて、海外の人からしてもその点は新鮮だったと思う。だけど、やっぱり悔しい思いもしましたね。<DUBSTEP RUDE>に出演するUKのダブステップのアーティストは、10インチのアセテート盤やダブ・プレートでしかDJしなかったんですよ。当時のロンドンでは誰でも手に入れられるヒット曲をかけるとブーイングされたらしくて、スクリームには『日本は、普通にヒット曲をかけて盛り上がるから良いよね』って言われたんですよ。それがちょっと悔しくて。でも、UKダブステップのダブ・プレートなんて僕らは手に入らないじゃないですか。それでMCをつけることにしたんです。僕はDEKISHIと組んで。それから、ダブステップだけではなく、グライムにも意識が行ったのはありますね」

そしてCE$は、2010年に『STEAL DA CITY』というグライムのミックスを発表する。僕がCE$というDJを意識し始めたのもおそらくこのころだったはずだ。当時、グライムのミックスを制作する国内のDJは珍しかった。00年代初頭にグライムが盛り上がりを見せ始めたとき、このUKのヒップホップ/ラップ・ミュージックについて「グライムは現代のパンクである」と評す記事などもあった。まさに『STEAL DA CITY』の選曲は、グライムを彼の原点であるハードコア・パンクの延長線上にある音楽として捉えようとするかのようだ。反抗、凶暴性、否定、破壊。また、風変わりなダンスホールやスクリームのリミックスが収録されているように、ジャンルが混在する当時の大阪のクラブ・カルチャーのなかで培ったであろう独特の感性が光る。さらに、このミックスのリリースと同年、CE$はshe luv itに参加する。ハードコアのバンドを再び組もうと考えたのはなぜなのだろうか。

「she luv itは、atmosphäre(2008年オープン)っていう心斎橋にあるバーに集まっていた人たちで始めたバンドですね。ヴォーカルはそのバーのオーナーのショウヘイくん。ショウヘイくんはテクノのパーティに行くと会うクラスト・パンクの人っていう印象は持っていたんですけど、そのバーに出入りするようになってさらに仲良くなって。で、そのバーでは東京のSEMINISHUKEIの人たちがDJしたり、ショウヘイくんは自分のイベントにSTRUGGLE FOR PRIDEやDREADEYEを呼んでいた。Atmosphäreがオープンする以前、僕がCISCOにいる時代に当時KING KONGで働いていたmichioshka(現・EBBTIDE RECORDS店主)に〈WDsounds〉のMercyくんを紹介されていたという経緯もあるんです。Mercyくんがやっていたハードコア・バンド、W.O.B(ラッパーのERAもメンバーだった。ERAはtofubeatsが2013年にデジタル・シングルとして発表した“夢の中まで”に客演参加、この曲はアルバム『lost decade』に収録される)はもちろん知っていたしCDも持っていたけど、そういう出会いがきっかけで東京のハードコア・パンクやその周りにあるカルチャーをバンッて一気に見せられて。まず感じたのは、『こんなに自由にやっていいんだ』ってことですね。個人的には、それでもう1度ハードコア・バンドをやってみようかなってなったんだと思いますね」

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さらに、〈WDsounds〉のLil Mercyと出会うのとほぼ同時期に、現在のトリプル・ギター/ツイン・ベースという編成の一角を担うOoshima Shigeru(ギター)と出会ったという。現在Ooshima Shigeruは、SEMINISHUKEIの一員でもあるBUSHMINDとSTOMPでのレギュラー・パーティ<2×4>のレジデントDJを務める。このパーティについては、音楽ライターの小野田雄の「Mastered Mix Archives」という連載の2人の対談に詳しい。ちなみに個人的な話をすると、僕は2003年のイラク戦争に反対するサウンドデモ、いわゆるイラク反戦運動のなかでOoshima Shigeruと出会っている。超ナイスガイである。

「ShigeruくんがKihira Naokiさんといっしょにやっていたパーティ<Social Infection>は僕がクラブ・ミュージックのイベントで初めて行ったものだったし、僕のなかでShigeruくんはテクノDJだったんですよ。テクノDJをやる前に、Beirut5(Ooshima Shigeruの結成した3人組のバンド)をやっていることも知らなかった。それがあるとき、僕がチェイン・オブ・ストレングスってハードコア・バンドのパーカーを着てCISCOで働いていたら、『ハードコア好きなん?』っていきなり話しかけられて(笑)。それがきっかけでちょくちょくクラブとかで会って話すようになってその後に仲良くなったっていう感じですね。だから23、4歳ぐらいからの付き合いですね。Shigeruくんは結成メンバーではなくて、のちに加入するんですけど、まさか一緒にバンドやるとは思ってなかったです」

she luv it は、2019年6月14日にファースト・アルバム『s/t』をリリースした(各種サイトにて配信中)。CDヴァージョンはレイドバックしたメロウなサウス・ヒップホップのある曲から幕を開ける。その洒落の効いた展開にいきなり意表を突かれるわけだが、さらに次曲“Candy”は冒頭であの偉大なるコメディアンのあまりにも有名な演説の一節が引用され、そして音の洪水に突入する。そこで僕はこの作品に一気に引き込まれた。まさに、「自由にやっていい」を体現する素晴らしい一枚だ。

tofubeatsとの出会い

話を00年代後半に戻そう。CE$はCISCOで2年半から3年ほど働いたのち、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントの新人開発セクションの職に就く。CE$が勤務していたCISCO大阪店は2007年12月に閉店、さらにCISCOを運営していたシスコインターナショナルは2008年に倒産する。クラブ・ミュージックの代表的なレコード店であったCISCO閉店は当時、クラブ・シーンに大きな衝撃を与えた。インターネットの普及に伴い、ヴァイナル・カルチャーの危機が叫ばれもした。音楽産業の構造がドラスティックに変化し始めていた。そういう時代にCE$はtofubeatsと出会っている。

「まず、僕ら東京以外に在住の人は毎月2回ぐらい、新しいアーティストの情報を持って東京に行ってプレゼンするんです。こんな若手がいますよと。そこで通ると、数ヶ月に1度、レーベルのA&R/ディレクター/マネージャーが集まるプレゼンテーションで紹介します。そこで興味があるスタッフが手を挙げて面談、上手くいけば契約。そこまで行ったら僕らの仕事は終わり。その先はノータッチで。だから、アーティストを紹介して第1歩目を作るところまでが仕事。そして、もちろん最も売れるジャンルはJポップですよね。でも僕はまったくJポップを聴いてこなかったから、若いトラックメイカーを見つけようと考えて、当時インターネットで話題になり始めていたtofuにmixiで『会いましょう!』って連絡するんです。でも最初は『嫌です!』って断られて(笑)。それでも諦めずに、たまたまいた共通の知人にtofuを説得してもらってなんとか会うことができた」

2008年、CE$が25歳、tofubeatsが17歳のころの出会いだ。tofubeatsがビート集『BEATS FOR RAP』をBandcampで発表、ブートレグをまとめたCD-R『HIGH-SCHOOL OF REMIX』を発売した年でもある。tofubeatsの何に惹かれたのか? と質問すると、「当時僕はいろんなアーティストを担当していたから、最初はtofuもそのなかのひとりではあったんですよ」と意外にもドライな返答が返ってくる。だが、彼が寝る間も惜しんで、多くの若く、才能あるアーティストやバンドにアプローチしていたことを考えれば、それが当時のリアリティだったと納得がいく。例えば、今年5月に『フリースタイルダンジョン』の“新ラスボス”の座についたラッパーのR-指定、あるいはラウド・ロックにダンス・ミュージックやラップの要素を取り入れ、海外でも高い人気を誇るバンド、Crossfaithを紹介したのもCE$だった。

「当時、tofuは僕の家によく遊びに来ていたんですけど、『最近このバンド観たんだよね』ってCrossfaithのYouTubeを見せると、『ベースは俺の同級生ですよ!』って言ってきて(笑)。驚きましたね。で、すぐに連絡先を教えてもらって『メジャーに興味はありますか?』って単刀直入に訊いて、それからは他のスタッフに紹介して、いろんな話が進みました」

多くのなかのひとりだったとはいえ、それでもCE$のアンテナにtofubeatsがひっかかり、彼が積極的にアプローチしたのにはもちろん理由があるはずだ。

「僕は基本的に自分の知らないことを知っている人に興味を持つんです。自分よりも年上の先輩の音楽や考え方への興味は昔からありましたし、年齢を重ねて自分より若い人が出てくれば彼らの音楽や考え方も知りたい。それと、ハードコア・パンクにハマった10代のころからハードコアなものとナードなもの、その両極端なものが好きなんでしょうね。だから、tofuに関心を持ったんです。10代という若さでトラックをパソコン1台で作っているのがまずカッコ良く感じたし、ヒップホップもハウスもテクノもJポップも並列に聴く世代らしいセンスも刺激的だった。しかも、サンプリング・ソースとなる音楽をTSUTAYAで借りてきたり、ブックオフとかハードオフで買ったCDをサンプリングして作った曲をインターネットにアップしていた。2008年ぐらいはtofuを“ナードな過激派”だと思っていたんですよ。tofuが最初僕に会いたがらなかったのは、メジャーの音源を勝手にサンプリングして曲を作ってインターネットにアップしているのをメジャー・レコード会社の人間に咎められると思ったかららしいですしね。tofuが同世代とインターネット上で交流しているのも新鮮で、僕はtofuを介して若い世代のいろんなアーティストに会っていく。Maltine Recordsのtomadやimoutoid(imoutoidについてはimdkmが『ナタリー』で執筆した「18歳の若さでこの世を去った天才アーティスト、imoutoidが遺したもの」を参照)もtofuに教えてもらいましたね。いまではよくある話でしょうけど、tofuがそういう人たちと直接会ったことがなかったのがまた驚きだった。だって、会ったこともないのにめちゃめちゃマイメンみたいに熱く語っていたから(笑)」

前述した『アメリカン・ハードコア』の著者、スティーヴン・ブラッシュは同書でこう書いている。「ハードコアとはつまり、極端であるということ――究極の、最もパンクたるパンクであるということだ」。“ナードな過激派”とは言い得て妙である。CE$はtofubeatsにパンクを感じたのかもしれない。

tofubeatsとインターネット、デジタル・ネイティヴの象徴としてのtofubeats――それらこれまで多くが語られてきた議論をここでは反復しない。当時インターネット上でどのようなサーヴィスが普及したかだけ整理しておこう。2005年から動画共有サーヴィス、YouTubeが公式なサーヴィスを開始。2007年には日本語に対応したサーヴィスも始まる。同年、音声ファイル共有サーヴィスSoundCloudが設立され、2008年からはBandcampが音楽のダウンロード販売を開始。ちなみに、フロリダのラッパー、デンゼル・カリーが、サウンドクラウド・ラップのオリジネイターのひとりとして挙げるスペースゴーストパープが活動を開始したのが2008年、またカナダ出身のラッパー、ドレイクがメジャー・レーベルとの契約を掴み一躍スターダムにのし上がるきっかけとなったフリー・ミックステープ『So Far Gone』を発表したのが2009年である。

話を戻そう。2008年8月、横浜アリーナで行われた、石野卓球主催のテクノ・フェスティヴァル<WIRE08>にtofubeatsは出演する。

「<WIRE>にはSUN STAGEという新人が出る枠があったんですけど、そこで、tofuに出演を促したんです。でも最初すごく嫌がりましたね。いまでもそうですけど、彼は人前に出るのがそこまで得意じゃないと思うんです。だけど、高校生のトラックメイカーで、しかも、純然たるテクノではなく、アイドル・ソングやJポップをサンプリングした、いわゆるナード系のカットアップハウスを作っているからこそ、tofuが<WIRE08>に出演する面白さがあると考えたんです。それでtofuを説得して、結果出ることになった。で、そのときに、横浜に住んでいたtomadに事前に連絡して会うんです。tomadとtofuの初対面ですね。で、もちろん僕もその場にいたんですけど、『うわ、なんだこの空気……この二人全然喋らない!』って感じでしたよ(笑)」

最初はCE$にとって多くのなかのひとりだったtofubeatsは彼にとって徐々に特別なひとりとなり、両者は二人三脚で歩んでいくこととなる。

「10代から20代前半の若者の人生を2、3年いじる責任は重いですよ。だから僕は誰にでもメジャー・デビューをすすめることはしなかったんです。『契約できたとしても決して高くない月給制になるかも』とか『2年後に契約を更新できるかはわからない』って現実は伝える。『それでもやりたいですか?』と。レコード会社はちょっとでも売れそうならばもちろんやりたがるけど、契約が切れたあとに彼ら若いアーティストの生活の面倒を見るわけではない。人が作っている音楽、作品にあーだこーだ言った挙句、最後まで面倒は見ない業界の人のネガティヴな面も目の当たりにしていましたから。そういう現実を踏まえた上で、tofuとは、付き合いの途中からいっしょに本気でメジャー・デビューを目指そうって空気になっていたんですよね」

できる限り音楽は肯定したい──CE$、ロング・インタヴュー interview-ces-6

当時tofubeatsにどんな助言をしていたのだろうか。「いまはもうtofuの制作や作品そのものに口出しすることはほぼないですけれど」と前置きした上で語る。

「『今後、トラックメイクだけでなく、作家的なこともできるように歌詞とか書いてみるのはどう?』とアドバイスしたことはあったかもしれません。tofuは元々、TEI TOWAさんのようなプロデューサー志向で、そのスタンスはいまも変わっていないと思うんです。また、中田ヤスタカさんや小西康陽さんにも影響を受けていた。それだったら、歌詞やメロディを書けた方が仕事の幅も広がるだろうと。僕がそういうアドバイスをしたのにはもうひとつ理由があって。当時、tofuのライヴを彼の地元の神戸の小さいライヴ・ハウスで観たんですけど、お客さんにバンドの転換だと思われて外に出られちゃっていたんです。それもあって歌詞を書いて歌ってみたり、ハードの機材でライヴしてみたら、とは伝えましたけど、ここまで歌詞を書いて歌うアーティストになるとは思っていなかったですね」

tofubeats「RIVER」

2010年3月、Onomatope Daijin(オノマトペ大臣)のラップをフィーチャリングし、みずからもラップを披露するtofubeats流のヒップ・ハウスとでも言える“BIG SHOUT IT OUT”を含む『Big Shout It Out – EP』を配信リリースすると、iTunes Storeのダンス・ミュージック・チャートで1位を獲得する。YouTubeにアップされたこの曲のMVには自宅の部屋と思われる場所でmicroKORGを見せつけるように操るtofubeatsの姿が映し出されている。そして同年6月、オノマトペ大臣と共作した、tofubeatsの代表曲であり、10年代の日本のラップのクラシックの1曲であろう“水星”のデモ・ヴァージョンがSoundCloudにアップされる。TEI TOWAがプロデュースしたKOJI1200“ブロウ・ヤ・マインド”を弾き直したこの曲は、2011年にレコード化、翌2012年にはデジタル・リリースされ、iTunes Storeの総合チャートの1位にまで上り詰める。

若手のトラックメイカー/プロデューサーの滑り出しとしては順風満帆と言えるだろう。しかし、これまでtofubeats自身が語ったインタヴューや執筆した記事によって広く知られている事実ではあるが、“ナードな過激派”が当時の日本の音楽業界の既存のシステムのなかでメジャー・デビューを果たすのはそう簡単ではなかった。CE$はそのころのことを振り返る。

「僕は立場上、メジャーのレコード会社と若いアーティストの通訳的な役割も担っていたんです。だからたとえば、レコード会社の40、50代の人たちにYouTube、SoundCloud、Bandcamp、ニコニコ動画とかの説明をするわけです。こういうサーヴィスやメディアがいま若い子から人気を集めているんですよと。その上で、tofuをなんとかメジャー・デビューさせるために数年かけてプレゼンしたり、いろいろ動いた。けれども、いつも同じ理由で蹴られて。要は、『インターネットで無料で聴ける音楽をマネタイズする方法がわからない』ってことなんですよ。当時、ソニーはmora(ソニー・ミュージックエンターテイメントグループのレーベルゲートが運営する音楽配信サーヴィス)があってiTunes Storeを利用できなかったのも大きかった。2012年に解禁するんですけど、まあそういう時代ですね。それで僕は、自分を社員にしてA&Rかディレクターの立場に就かせてもらえないかと交渉した。そうすれば、tofuをデビューさせられると考えたんですけど、僕の契約上、それはできないと断られてしまって……。八方塞がりでしたね。tofuはその時のことをインタヴューでよく語っていますけど、そうしたメジャー・デビューにまつわるストレスで胃潰瘍になって大学を休んでいる間に『lost decade』を作るんです」

その、tofubeatsの実質上のファースト・アルバム『lost decade』(2013年)がワーナーミュージック・ジャパン傘下の音楽レーベル〈unBORDE〉のA&Rの耳に入り、同年11月“Don’t Stop The Music”でのメジャー・デビューに至る。契約に至った最大のポイントは、現在もtofubeatsのスタッフであるワーナーミュージックのチームが、tofubeatsがSoundCloudなどで楽曲を発表する自由を尊重したことだった。iTunes Store総合1位を記録した『lost decade』は当時としては珍しい全曲先行のフルストリーミングをiTunes Storeで行い、現在でもSoundCloudでフル・ヴァージョンを聴くことができる。ちなみに、国内のアーティストでリリース前にiTunes Storeでアルバムの全曲無料試聴を試みたのは、同じくワーナーミュージック所属のBONNIE PINKが初めてだという。tofubeatsは彼女に続く2番目だった。tofubeatsはメジャー・デビュー・アルバム『First Album』収録の“衣替え”という曲でBONNIE PINKを客演に招くこととなる。

tofubeats(トーフビーツ)- 衣替え feat. BONNIE PINK

できる限り音楽は肯定したい

2015年、tofubeatsはそれまでの所属事務所を離れると同時に〈HIHATT〉という自らをマネージメントする音楽プロダクション/アーティスト・マネージメント会社を立ち上げている。ワーナーミュージックは法人格としか契約できないという実際的な理由からの設立だった。いわば独立だ。そして『FANTASY CLUB』(2017年)と『RUN』(2018年)という2枚のアルバムを発表した。

「tofubeatsのアルバムに自分は〈HIHATT〉のマネージャー兼ディレクターとしてクレジットされていますが、いまはtofuの制作にはほとんど口を出しませんし、僕は職人肌/プロデューサー気質のディレクターではないんですよ。その理由として、そうである必要がない。それは、tofubeatsが職人肌のプロデューサーだからです。彼の感性を信じていますから。僕は物事を整理する役回りとしてのディレクターなんです。それで僕は自分のことをマネージャーだと言うようにしています。ただそれだからと言って、いわゆる芸能界的なマネージャーのつもりもないんです。日本でマネージャーと言うと、どうしてもタレントやアーティストのお世話をする付き人的なマネージャーと捉える人が多いじゃないですか。もちろん自分も、tofuのストレスを減らすための、世間一般がイメージするようなマネージャー的な仕事もします。でも、やるべきことはそれだけじゃない。彼がやりたいと思う表現や音楽で作品を完成させるためのサポートをしたり、完成した作品をどう配置して、どう見せるかが重要な仕事なんです」

tofubeats 「Keep on Lovin’ You」-徒然草 第150段の再解釈-

これまで約10年、CE$とtofubeatsは二人三脚でやってきたと言っていいだろう。では、今後のことはどのように考えているのだろうか。

「tofuと出会ったころは彼も子供でしたけど、もう立派な大人ですからね。僕が25歳でtofuに会ったころから『僕が40歳になったら、してやれることはないかもしれない』って言っていたんですけど、最近また言っちゃったりして。『僕がやれることはそんなにないかもなあ』って。そうすると『そんなことないっすよ~! 精神的支柱ですから!』ってtofuは言うんですけど、『それって何もしてないっていうことだね! フォローになってないよ!』って(笑)」

そう冗談めかしてCE$は言い、さらに続ける。

「例えば、Tohjiさんってラッパーがいるじゃないですか。僕は、彼はすごいと思うんです。もし自分が25歳だったら何か手伝いたいって言っているかもしれない。そうやってこの歳でも10代後半から20代前半の若い人の音楽やセンスをカッコイイと感じたり、また理解しようとすれば理解できることも多い。ただ今後まったく意味がわからんぞ、みたいなことが起きてくると思うんです。それでもやっぱり若い人が作った音楽は信じたいんですよ。だから、大人の存在が必要な場面もあるけれど、若い人は基本的に好きにやればいいと思うんです。ヘンに大人の力を借りなくていい。それは昔からずっと思っていますね。できる限り若い人たちは自分たちのやり方でやった方がいいと思うんですよ」

ここには、ハードコア・パンクで音楽に目覚め、大人の思惑が渦巻く一筋縄ではいかない音楽業界に飛び込み、理想主義と現実主義が拮抗する環境でユース・カルチャーすなわち若者文化を見つめ続けてきたCE$の複眼的視点があるように思う。だがCE$は、音楽のユース・カルチャーという側面だけに執着しているわけではない。彼にはDJとしての顔がある。近年の彼のミックスを聴いたり、また2017年10月からJET SETのHPでほぼ毎月更新しているDJチャートなどを見ると、CE$の探求心の行く先の一端をうかがい知ることができ、興味深い。

「DJ、というかレコードや音源収集は大好きな趣味みたいなものです。大阪にはいまも良いレコード屋さんがあるのも大きいですし、tofuのツアーで訪れる各地でも、できる限りレコード屋さんは行きますね。レコードでしか出てないダンス・ミュージックの新譜も買ったりしますし、たとえば60、70年代の音楽でレコードでしか出回っていない曲を聴きたいと思って中古のレコードを買う機会もあります。どの時代の音楽でも自分が聴いたことのない音楽はすべて新しい感覚で聴けると思いますし、若いアーティストのデモ音源を聴かせてもらうのも大好きです。歳を重ねて趣味趣向が変わるというのは当然あるとしても、『ロックはもう聴かない』とか『EDMは嫌い』とか言いたくないですね。できる限り音楽は肯定したいんですよ」

「できる限り音楽は肯定したい」、インタヴューの後半に彼が発したこの一言にCE$の真髄を感じた。これだけの経験をしてきた彼が言うからこそ説得力のある、ふと忘れそうになる音楽へのピュアな気持ちに火を灯してくれるような言葉だ。DJミキサーを早く買い替えなければならないな。

できる限り音楽は肯定したい──CE$、ロング・インタヴュー interview-ces-1

PROFILE

CE$

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取材/文:二木信

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写真:Goro Kosaka

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EVENT INFORMATION

“SUMMER PLACE” -BUSHBASH 10th Anniversary-

2019.08.24(土)@小岩 BUSHBASH
OPEN 18:00
ADV ¥2,000 / DOOR ¥2,500(+1D)

LIVE:
STRUGGLE FOR PRIDE
she luv it
PAYBACK BOYS
MOONSCAPE
ELMO

DJ:
BUSHMIND
Phonehead

FLYER:
373

詳細はこちら:https://bushbash.org/schedule

できる限り音楽は肯定したい──CE$、ロング・インタヴュー music-ces-2

Fareast Death Cult 2019 vol.2

2019.08.24(土)@新代田FEVER
OPEN 15:30 / START 16:00
ADV ¥2,500 / DOOR ¥3,000

assembrage
Funeral Moth
heaven in her arms
killie
NEPENTHES
NOT Ⅱ BELIKESOMEONE
Rocky & The Sweden
SECOND TO NONE
she luv it

詳細はこちら:http://www.fever-popo.com/schedule/2019/08/2415.html

できる限り音楽は肯定したい──CE$、ロング・インタヴュー music-ces-3

SUMMER BASH FEST 2019 〜Karmy-Joe 追悼〜

2019.09.15(土)@心斎橋 SUNHALL
OPEN 13:00 / START 13:30
ADV ¥4,500(+1D) / ADM ¥5,500(+1D)

今年はUSハードコア勢MERAUDER(NYC)、jesus piece(PA)の2組を迎えた狂乱の全17バンド2ステージ、2DJ!

<BAND>
MERAUDER(NYC)
Jesus Piece(PA)
SAND
STRUGGLE FOR PRIDE
BLACK GANION
PALM
AT ONE STROKE
Edge Of Spirit
she luv it
DIEDRO LOS DIABLOS
STARTER
NODAYSOFF
KRUELTY
PRESS ON AHEAD
ilska
NUMBERNINE
GATES OF HOPELESS

<DJ>
COTTON DOPE(PAYBACK BOYS)
SHIGA-CHANG(DIY PUNK MASTER)

詳細はこちら:http://sandjapan.com/schedule.html

できる限り音楽は肯定したい──CE$、ロング・インタヴュー music-ces-1