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<title>Qetic - 時代に口髭を生やすニュースメディア”けてぃっく”</title>
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<description>ニュースメディア Qetic（けてぃっく）では、音楽、映画、芸能、アート、ファッション、グルメ、アプリ、コラム、アニメなど、最新トレンドから今ネットで話題のゴシップまであらゆるエンタメ・カルチャー情報をお届けします。</description>
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		<title>ユニクロ、ダメージジーンズCMの気になるあの曲！名曲“Baby”が辿った数奇な運命とは？</title>
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		<pubDate>Sun, 09 Apr 2017 03:00:21 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>過去にPerfumeやファレル・ウィリアムスなど、売れっ子ミュージシャンの楽曲が起用されてきたユニクロのダメージジーンズCMに起用されたドニー＆ジョー・エマーソン（Donnie &#038; Joe Emerson）の“Baby”。田舎町のティーンエイジャー兄弟によって作られた、決して有名とは言えない楽曲が辿った数奇な運命とは。アリエル・ピンク（Ariel Pink）もカバーした名曲に迫る。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="700" height="433" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01-700x433.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01-700x433.jpg 700w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01.jpg 1140w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01-760x470.jpg 760w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01-320x198.jpg 320w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01-260x161.jpg 260w" sizes="(max-width: 700px) 100vw, 700px" /></figure>店員さえ眠る退屈な田舎町のガソリンスタンドで、ジーンズを履いた若い女性が前髪をなびかせて踊っている。

ユニクロのダメージジーンズCMを見て驚いた。

夢幻的な空間を助長するように流れる楽曲が、ドニー＆ジョー・エマーソンの“Baby”であったからだ。

ユニクロのCMと言えば、過去にPerfumeや、海外からはファレル・ウィリアムスなど、売れっ子ミュージシャンの楽曲が起用されてきたが、“Baby”は今から38年前に田舎町のティーンエイジャー兄弟によって作られた、決して有名とは言えない楽曲。少なくともリリースから何年も、いや何十年もホコリの中に埋もれた楽曲だったのだ。

<h4>UNIQLO JEANS 17SS Japanese</h4>
<div class="movie_wrap"><iframe width="700" height="394" src="https://www.youtube.com/embed/4SVNsDLmr6E" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>

<h2>農場で音楽に目覚めた兄弟</h2>
1960年代、ワシントン州フルートランドでエマーソン兄弟（兄ジョニー・弟ドニー）は、5人兄弟の長男次男として父親が経営する広大な農場で育った。一番近くの小さな町から車で1時間半のホームタウンは、見渡すかぎり自然が広がり、どこまでも一本道が続く田舎町の象徴としてガソリンスタンドが点在するだけの町。レコードストアも、ナイトクラブも映画館さえ存在しない“何も無い町”だった。

周囲から孤立した環境で暮らす彼らは、人手の足りない父親の為に、学校から帰宅すると、トラクターにまたがり農場に出て仕事を手伝う。仕事が終われば、テレビを見て何もない退屈な一日を埋め合わせる毎日を送っていた。

そんな兄弟が音楽に出会ったのは、父親が購入したラジオ付の新しいトラクターが切っ掛けだった。

1977年、教会で演奏される賛美歌以外にライブミュージックを聴く機会もなく、レコードさえ持っていなかった彼らは、ラジオから流れてくる音楽に心を奪われた。そこにはテレビで見るポップミュージックにはない、新しい世界があったのだ。以降、彼らは一日に8時間以上もトラクターの上でラジオを聴き続け、ついには楽器の練習を始めるまでになっていった。

<figure><a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post12/240629/attachment/usa_02/" rel="attachment wp-att-241184"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa_02-700x671.jpeg" alt="" width="700" height="671" class="aligncenter size-medium wp-image-241184" /></a><figcaption>初めてのギターで練習するドニー　courtesy of the Emerson family</figcaption>
</figure>


<h2>スターを目指した兄弟はコテージで夢を見る</h2>
楽器を手にした兄弟は、夢中で練習を始めると、より音楽の世界への憧れを抱くようになる。さらに、弟ドニーは楽曲制作において、天才的な才能を持っていた。演奏に没頭するドニーに、兄ジョーは朝から晩まで付き合い続け、兄弟は毎日の様に曲を作り始めた。

あまりに熱中する息子達の姿を見た父親は、彼らの才能にいち早く気がついた。もともと厳しい農業の仕事を彼らに継がせるべきか迷っていた父親は、息子の才能を信じ、敷地内に練習場としてコテージを建てたのだ。

この練習場は兄弟の創作意欲をより駆り立てる事となった。2人は深夜までコテージで楽曲への試行錯誤を続けると、地元のパーティーで演奏をする事も始めた。だが、兄弟にとってコテージで過ごす時間は特別なものだった。パーティー会場で演奏するよりも、立派なスタジオで練習するよりも、一番自由な空間であったからだ。

<figure><a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post12/240629/attachment/usa_03/" rel="attachment wp-att-241186"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa_03-700x524.jpeg" alt="" width="700" height="524" class="aligncenter size-medium wp-image-241186" /></a><figcaption>父親が建てたコテージ　Photo by David Black</figcaption>
</figure>


翌年、小さなコテージで本気でスターを目指す息子を見ていた父親は、彼らのレコードをリリースするアイデアを思いつく。そして父親は、彼らの為に借金を組んで$100,000の大金を投資。コテージをレコーディング・スタジオへと変えたのだ。

ドニーは何も考えず、マイクに向かって歌い続けた。ジョーはドラムを叩き続け、1年半の間に70曲を制作。その中から8曲を選びアルバムを完成させた。
ドニー17歳、ジョー19歳の事だった。

<strong>Donnie & Joe Emerson - Baby</strong>
<div class="movie_wrap"><iframe width="700" height="394" src="https://www.youtube.com/embed/ONIJXHvoynw" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>

1979年、ドニー＆ジョー・エマーソン名義でアルバム『Dreamin' Wild』は、2000枚のプレスでリリースされた。とは言っても、音楽業界の流通事情などまったく知らずにリリースされたレコードは母親がセールスマンとして地元住民に売りさばくのが関の山だった。ポップスターへの夢だけが先行して、父親も兄弟も現実的な戦略など何も考えていなかったのだ。幸い地元のラジオ局が彼らを「ロックンロール農夫」として売り出してくれたが、レコードはヒットする事もなく、残ったのは多額の借金だった。

そして、いつしか兄弟はスターへの夢を忘れ、ドニーはスタジオミュージシャンで生計を立て、ジョーは父親の農場を継ぎ、父親は土地を売って借金返済に当てる事となった。
まるで時間が止まったように静かな町でスターを目指した兄弟の夢は、その町の静寂と共に散っていった。

29年後に起きる奇跡の発掘までは…。

<h2>名曲“Baby”が辿り着いた未来</h2>
2008年、レコードコレクターのジャック・フレッシャーはワシントン州スポケーンのアンティークショップを訪れていた。フレッシャーはそこで風変わりなレコードを発見した。ジャケットにはエルビス・プレスリーを模範したかのような衣装を着ている2人組みがプリントされていた。そのレコードこそが、ドニー＆ジョー・エマーソンの『Dreamin' Wild』だったのだ。フレッシャーは5ドルでレコードを購入し、針を落とすと衝撃を受けた。

静かなイントロから甘い声で愛を歌う楽曲は哀愁に満ちた夢幻的なバラードだった。彼はすぐに収録曲の“Baby”の虜になったのだ。フレッシャーは“Baby”を自身のブログで紹介すると、瞬く間に拡散。すると2012年、USインディ界の奇才として名高いアリエル・ピンクは“Baby”をカバーし、広く音楽ファンに愛される楽曲となったのだ。

<strong>Ariel Pink's Haunted Graffiti - Baby (Donnie & Joe Emerson) (Live in Sydney) | Moshcam</strong>
<div class="movie_wrap"><iframe width="700" height="394" src="https://www.youtube.com/embed/WuPIiWR-_3Y" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>

さらに、彼らのコテージでレコーディングされた『Dreamin' Wild』は、ワシントン州のレーベル〈Light In The Attic Records〉が33年ぶりに再リリース。今年に入り、ユニクロのCM曲にも起用され、ドニーとジョーの“Baby”は世界中で流る事となったのだ。

現在、兄弟はレコード・ジャケットにプリントされている若き日から時を経て、還暦を目前に控えている。そして、ドニーは2人の子供に恵まれ、ジョーはあのコテージの近くで独身生活を続けている。

スターになる事を夢見た兄弟は、自分たちを取り巻く環境の変化を田舎町から喜んでいる。

<figure><a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post12/240629/attachment/usa_04/" rel="attachment wp-att-241185"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa_04-700x513.jpeg" alt="" width="700" height="513" class="aligncenter size-medium wp-image-241185" /></a><figcaption>2014年 両親とドニー（左）、ジョー（右）Photo by David Black</figcaption>
</figure>

<strong><a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post12/240629/attachment/usa12_01/" rel="attachment wp-att-241182"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/04/usa12_01-700x433.jpg" alt="" width="700" height="433" class="aligncenter size-medium wp-image-241182" /></a> - "Baby" - Live at Light In The Attic's 10 Year Anniversary Concert</strong>
<div class="movie_wrap"><iframe width="700" height="394" src="https://www.youtube.com/embed/HLdWNugp9ao" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>
（再リリースを記念してライブを行った兄弟）

<a href="http://lightintheattic.net/"  class="btn" target="_blank"><i class="fa fa-angle-right"></i>Light In The Attic Records</a><p>© Qetic Inc.</p>
</article>]]>
</description>
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		<title>オアシスがデビューした年に「奇跡のカセットテープ」をリリース、謎の男アタ・カクの現在</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post11/236838/</link>
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		<pubDate>Thu, 02 Mar 2017 10:00:10 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>イギリスでオアシス（Oasis）が『Definitely Maybe』、アメリカではグリーン・デイ（Green Day）が『ドゥーキー（Dookie）』をリリースすした1994年にアタ・カク（Ata Kak）の『オバ・シマ（Obba Sima）』のカセットテープがわずか50本リリースされた。“奇跡のカセットテープ”が世に出たきっかけ、現在のアタ・カクとは。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="700" height="433" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_01-700x433.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_01-700x433.jpg 700w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_01.jpg 1140w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_01-760x470.jpg 760w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_01-320x198.jpg 320w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_01-260x161.jpg 260w" sizes="(max-width: 700px) 100vw, 700px" /></figure>1994年、音楽業界は新しい才能に溢れていた。

イギリスからはオアシス（Oasis）がデビューし、アメリカでは、グリーン・デイ（Green Day）がメジャーデビューを果たし、ナズ（Nas）などの新しいラッパーが登場したのもこの年だった。

新世代のスターたちが名を挙げる中で、ガーナ出身の<strong>アタ・カク（Ata Kak）</strong>も同じ年にデビューした1人。だが、当時彼の事を知る者は誰もいなかった。それもそのはず、CD全盛期の時代に彼がリリースしたのは、手売りのカセットテープ、わずか50本だった。

<a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post11/236838/attachment/1703_usa-post_02-ata-kak/" rel="attachment wp-att-236992"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_02-ata-kak-700x980.jpg" alt="Ata Kak" width="700" height="980" class="aligncenter size-medium wp-image-236992" /></a>

<h3>奇跡のミュージシャン アタ・カク</h3>

1960年9月29日、ガーナの首都アクラに次ぐ大都市クマシで双子の弟としてアタ・カクは生まれた。幼少時代のアタ・カクは、ガーナの多くの子供達がそうだったように、道端に落ちている木の枝などでドラムの真似事をして遊ぶ、音楽少年だった。

やがて、高校を卒業し、地元のバーで働き始めた彼は、当時ガーナのミュージシャン達が挙って演奏をしていたハイライフやジャズなどの音楽に出会う。

私生活では、妻メアリーとの間に子供が生まれたため、働き詰めの毎日を送る中で、毎晩のように演奏をするバンドに心を奪われていった。

だが1985年、経済的な混乱を迎えていたガーナでは、外国へ移住をする人々が後を絶たなかった。アタ・カクも妻と子供を連れてドイツへと生活の場を移す事となるが、新天地での生活は苦労の連続だった。

雑用仕事をこなしながら家族を養い続けたアタ・カクに転機が訪れたのは、彼に２人目の子供ができた頃。友人から地元のレゲエバンドのサポートドラムを依頼されたのだ。まともな音楽経験はなかったが、アタ・カクはこの話を引き受けた。

そして、この日から自宅のダイニングテーブルでドラムの猛特訓を開始。手さぐりながらバンドのメンバーとして活動を始めると、5週間程でドラムをマスター。バンド内でもその存在感を示し始め、ボーカルまで任せられる様になった。

<a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post11/236838/attachment/1703_usa-post_03-ata-kak/" rel="attachment wp-att-236993"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2017/03/1703_usa-post_03-ata-kak-700x500.jpg" alt="Ata Kak" width="700" height="500" class="aligncenter size-medium wp-image-236993" /></a>

1989年、より良い生活環境を求めたアタ・カクは、家族を連れてカナダ・トロントへと移住を決意。清掃員や運送業、工場員など職を転々としながら、家族を養う為に働き続けた彼は、ここでも地元のバンドに参加してドラムを叩き続けた。しかしこの頃、彼が夢中になっていたのはディスコやR&B、ヒップホップなどの新しい音楽であったが、ガーナ出身の彼に求められたのはハイライフの演奏だけだった。

カバー曲ばかりを演奏するバンド活動の中で、次第に理想の音楽制作へと思いを馳せる様になった彼は、オリジナルソングの制作を提案したが、彼の意見に賛同するメンバーはいなかった。

アタ・カクに3人目の子供ジェフリーが生まれた頃だった。

<a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post11/236838/2/" onclick="ga('send', 'event', 'Single_Page_Link', 'content_click', this.href, 1, );" class="next"><span><i class="fa fa-arrow-circle-right" aria-hidden="true"></i>次ページ</span>奇跡的に発見された『オバ・シマ』経緯とは？</a><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>宅録女子からの卒業！新作を発表したローレル・ヘイローに迫る！</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post10/167532/</link>
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		<pubDate>Tue, 01 Dec 2015 03:00:25 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>今回のコラムでは宅録女子として騒がれてわずか数年でトップアーティストの仲間入りを果たしたローレル・ヘイローの魅力に迫る。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="313" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/12/column151201_usa_2-470x313.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/12/column151201_usa_2-470x313.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/12/column151201_usa_2.jpg 780w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure>深夜のハルシー・ストリート駅周辺は、ガソリンスタンドとダンキンドーナッツのネオンだけが目立つ閑静な住宅街だ。クイーンズ区とブルックリン区のボーダーライン沿いに位置するリッジウッドと呼ばれるこの町は、一昔前は治安も悪かったそうだが、ブルックリンの家賃高騰化によって最近では若者達が多く移り住んでいると言う。地図上はぎりぎりクイーンズ区でありながら、ブルックリン的な若者が多く生活するこの町の事を『ニューヨーク・タイムズ』紙は皮肉交じりに「クークリン」と称した事もあった。そんなリッジウッドに若者達が集まる理由の一つにライブハウス「<strong>トランス・ペコス</strong>」の存在は大きいと言えるだろう。

そして、今や世界的な活躍を見せる<strong>ローレル・ヘイロー</strong>（29）がライブをするとなれば、ニューヨーク中から多くの若者達が集まる。この日、彼女が久しぶりにニューヨークで行なったコンサートはソールドアウト。彼女のプレイを一目見ようと集まった人々で閑静な住宅街にあるライブハウスは熱気に包まれた。いったい彼女の頭の中はどうなっているのだろう？そんな疑問さえ湧いてくる独特の世界観にオーディエンスは酔いしれた。今回のコラムでは宅録女子として騒がれてわずか数年でトップアーティストの仲間入りを果たしたローレル・ヘイローの魅力に迫る。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/12/column151201_usa_2.jpg" alt="ローレル・ヘイロー" width="780" height="520" class="alignnone size-full wp-image-167543" />

<h3>芸術と共に育った幼少期</h3>

1986年、ミシガン州アナーバーでローレル・ヘイローはアイナ・キューブの名で生を受けた。デトロイトから車で50分程離れた郊外に位置するこの町は、GMやフォードなどの自動車産業に関連する雇用者が多く住んでおり、ヘイローの両親もまた自動車産業で働く労働者だった。しかし、ヘイローにとって幸運だったのは、彼女の家系が芸術への理解が深かったという事だ。祖母はオペラ歌手で、第二次世界大戦時には兵士達の前で歌い、親戚にはギタリストやシンガーもいた。そしてヘイローの父親もまた、フルタイムで働く傍ら、画家としての活動を勢力的にこなすアーティストだった。こうした環境の中でヘイローは幼い頃からアートへの興味を自然と持ち始め、ピアノ、ヴァイオリン、ギターを習い、ミュージックスクールでクラシックを学び、オーケストラにも所属する少女時代を過ごした

<h3>テクノとの出会い</h3>

しかし、幼い頃からクラシック音楽に触れてきたヘイローだったが、本当の意味で音楽の楽しさを知ったのは大学時代に学生同士で行っていたラジオでDJを務めた時だと言う。リスナーの為にあらゆるジャンルの音楽を選曲する中、ヘイローもまた様々なジャンルの音楽を聴くようになり、その世界観が広がっていったのだ。そして地元のライブハウスに通うようになると、多種多様なジャンルのアーティストが同じライブハウスで演奏をする“地元の小さなシーン”に触れ、ヘイローもまたバンド活動に没頭するようになり、19歳の頃から作曲活動を開始した。そしてヘイローはこの頃、後の人生を大きく変えるある出会いをした。それは、地元ミシガン州で開催された＜<strong>デトロイト・エレクトロニック・ミュージック・フェスティバル</strong>＞に友人達と訪れた時の事だった。これまでエレクトロニック・ミュージックに触れて来なかったというヘイローはこのフェスに参加した際に、その魅力に強く惹かれたという。以来、ヘイローはデトロイト・テクノに夢中になり、地元ミシガン州の音楽を深く追求し始めたという。

<h3>ローレル・ヘイロー誕生</h3>
 
2009年、地元でのバンド活動で理想の音楽を制作することに限界を感じていたヘイローはニューヨーク・ブルックリンに活動の場を移した。ヘイローは少しずつ機材を揃えながら自宅での音楽制作を開始。また、この頃から現在のアーティスト名であるローレル・ヘイローを名乗り始めた。名前の由来は、ビデオゲームのタイトルからだという。自身は滅多にビデオゲームをするわけではないそうだが、ゲームに使用される音楽が好きだったという理由からだ。

ブルックリンに活動の拠点を移したヘイローは自宅に籠もり、楽曲制作に没頭した。すると、ヘイローはこれまでの作曲活動では感じる事のなかった、“自分自身が納得の行く作品”を初めて作る事ができたという。そしてヘイローは楽曲をまとめたEPを『<strong>King Felix</strong>』と名付け、ネット上にアップした。するとたちまちヘイローの楽曲は話題となり、3カ月間で3000ダウンロード記録するまでになった。そしてヘイローは、この時初めて自分の進むべき道が見えたのだという。

<h3>宅録女子と騒がれて</h3>

2012年、満を持して発表されたローレル・ヘイローのファーストアルバム『<strong>クァランティン</strong>』はいきなり、英「WIRE」誌のアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得。実験的な要素を含み、複雑だが美しく、ドラマティックな楽曲の数々は１０年代のエレクトロニク・ミュージックを語る上では避けることのできない傑作となった。また、アルバムのアートワークには日本の現代美術家、会田誠の『切腹女子高生』を使用したことでも話題となった。そして「クァランティン」発表後、世界的な評価を受けたヘイローは活動の拠点をブルックリンからベルリンへと変えた。ヨーロッパを中心としたツアーで大忙しのヘイローは、生活のリズムが安定する地としてベルリンを選んだのだという。そしてヘイローはベルリンの音楽シーンの中で新たな活動を開始したのだ。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/12/column151201_usa_31.jpg" alt="ローレル・ヘイロー" width="780" height="780" class="alignnone size-full wp-image-167540" />
<p class="photocredit">『クァランティン』</p>

<strong>Laurel Halo Expands Light and Space</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/-VoGPL9WxWk?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

翌年、ヘイローは休む間もなくセカンドアルバム『<strong>チャンス・オブ・レイン</strong>』を発表。ヘイロー自身が「アンビエント／アブストラクト・テクノ・レコード」と 呼ぶように、前作で見せた自身のヴォーカルを排除し、スタジオで一から制作した前作とは対照的に、ライブ用に作ったシークエンスから、トラックを構築し楽曲を制作していったのだという。しかし、楽曲へのアプローチの仕方は違えど、ヘイローにしか出せない独特の世界観は引き継がれており、さらなる進化を遂げた傑作となった。そして、本作のアートワークは長らくスタジオに飾ってあったという画家である父親からもらった絵を使用している。1969年、父親が17歳の時に描いたというこの絵をヘイローは数年前に譲り受けたのだという。ヘイローはカラフルな楽曲と対照的にモノクロで殺伐とした印象を与えるアートワークのコントラストが気に入っているのだという。

<strong>Laurel Halo - Chance Of Rain</strong>
<iframe width="780" height="585" src="https://www.youtube.com/embed/V6dN1WB8Az0?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


<strong>次ページ：宅録女子からの卒業</strong><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>ホラー映画に生きる！究極のハロウィン野郎の物語</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post9/164863/</link>
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		<pubDate>Wed, 28 Oct 2015 03:00:00 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>いよいよ今週末に迫るハロウィン。みなさんコスチュームの用意は万端でしょうか？　今回のコラムではこの季節にちなんで、ハロウィンはハロウィンでも映画『ハロウィン』に人生をかけたある男の物語をご紹介したいと思います。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="353" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/10/column151028_usa_2-470x353.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/10/column151028_usa_2-470x353.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/10/column151028_usa_2.jpg 780w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure>いよいよ今週末に迫るハロウィン。みなさんコスチュームの用意は万端でしょうか？　今回のコラムではこの季節にちなんで、ハロウィンはハロウィンでも映画『<strong>ハロウィン</strong>』に人生をかけたある男の物語をご紹介したいと思います。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/10/column151028_usa_2.jpg" alt="ハロウィン" width="780" height="585" class="aligncenter size-full wp-image-164867" />
<p class="photocredit">photo by Kenny Caperton</p>

ノースカロライナ州に住むケニー・ケイパートン（34）にとって10月は一年で最も忙しい季節だ。なぜなら、大のホラー映画ファンであるケイパートンは大好きな映画『<strong>ハロウィン</strong>』の中でマイケル・マイヤーズによるおぞましい殺戮が繰り広げられた“<strong>マイヤーズ・ハウス</strong>”をそっくりそのまま作り上げ、ホラーファン達に公開しているからだ。毎年、噂を聞きつけたホラー映画ファン達が数百人と訪れるこの隠れた名所は、ケイパートンが妻と暮らすマイホームでもある。「ハロウィン」好きが高じて家まで建ててしまった男として騒がれるケイパートン。彼とホラー映画との出会いは、少年時代さかのぼる。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/10/column151028_usa_3.jpg" alt="ハロウィン" width="780" height="585" class="aligncenter size-full wp-image-164866" />
<p class="photocredit">ケニー・ケイパートン（photo by Kenny Caperton）</p>

ケイパートンがホラー映画に出会ったのは深夜のケーブルテレビがきっかけだった。幼少の頃にケーブルテレビで放送されていたホラー映画を観て以来、ケイパートンはその世界に魅了され、少年時代からすでに超ハードコアなホラー映画ファンとなっていった。そして、毎日深夜までホラー映画を観てはベッドに潜り込むという生活を送っていた少年時代のケイパートンは、運命の映画に出会った。それは1978年に公開された映画『<strong>ハロウィン</strong>』だった。生涯のベスト映画と豪語する『ハロウィン』に心酔したケイパートンは何度も何度も繰り返し鑑賞し、その視聴回数は軽く100回を超えるまでになった。まさに『ハロウィン』と共に成長してきたケイパートンは、大人になり就職もしたが、心の中にはいつも『ハロウィン』があった。子供の頃に経験したホラー映画への興奮が忘れられなくて自らもホラー映画を撮るようにもなった。そしてガールフレンドのエミリーとの会話もホラー映画の話ばかりだった。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/10/column151028_usa_4.jpg" alt="ハロウィン" width="780" height="783" class="aligncenter size-full wp-image-164870" />
<p class="photocredit">エミリーとケイパートン（photo by Kenny Caperton）</p>


<strong>次ページ：「この家こそが理想の家だ」</strong><p>© Qetic Inc.</p>
</article>]]>
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		<title>祝来日！NY異次元ヒップホップ集団RATKINGに迫る</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post8/160877/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post8/160877/#respond</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Sep 2015 23:00:34 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>RATKINGは、WIKI（ウィキ）、HAK（ハク）、Sporting Life（スポーティング・ライフ）からなるラッパー／プロデューサーで結成されたニューヨーク・ハーレムを拠点に活動をするヒップホップグループ。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="313" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/09/column150911_usa_2-470x313.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/09/column150911_usa_2-470x313.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/09/column150911_usa_2.jpg 780w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure>2014年2月14日、前日に降った雪の影響で路面は凍結し人通りも少なくなり始めた午後8時、ロウアーイーストサイドのストリート系ファッションショッ プ、THE GOOD COMPANYのシャッターは半分だけ開いていた。薄暗い店内からはストリートまで漏れる程の爆音の音楽。シャッターをくぐって行き来する若者達に紛れて店内に潜り込むと、そこには、ウィードとタバコの煙が充満する中、近くのデリで買ってきたビールを片手に騒ぐ若者達の姿があった。この日筆者が訪れたのはニュー ヨークの新世代ラップグループ<strong>RATKING（ラットキング）</strong>のデビューアルバム『<strong>So It Goes</strong>』のリスニングパーティーだった。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/09/column150911_usa_2.jpg" alt="RATKING" width="780" height="520" class="aligncenter size-full wp-image-160891" />

<strong>RATKING</strong>は、<strong>WIKI（ウィキ）</strong>、<strong>HAK（ハク）</strong>、<strong>Sporting Life（スポーティング・ライフ）</strong>からなるラッパー／プロデューサーで結成されたニューヨーク・ハーレムを拠点に活動をするヒップホップグループ。膨大な知識と経験から成る時に冷笑的でストレートなリリックは核心を突き、その唯一無二のスタイルが注目されている。

<strong>RATKING - PIECE OF SHIT（A FILM BY ARI MARCOPOULOS）</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/9U9Yu9ZAuHU?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

2012年3月に公開されたマスターピース“<strong>Peace of Shit</strong>”のPVは伝説的な写真家アリ・マルコポロスによって撮影されたもので、壁全体が無数のタグに覆われた彼らのスタジオでのセッションは強烈なインパクトを残している。実は筆者もこのPVに衝撃を受けた内の一人だ。このPVを観て以来、彼らがNYで行うショーには毎回足を運んでいるのだが、その度に彼らのスタイルは進化し、いつもオーディエンスに新しい刺激を与えているように思う。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/09/column150911_usa_3.jpg" alt="RATKING" width="780" height="520" class="aligncenter size-full wp-image-160887" />

フロントマンを勤めるWIKIはマンハッタンのアッパーウエストサイド出身。街中にヒップホップが流れる黄金の90年代に幼少時代を過ごしたWIKIがラップを始めたきっかけは、この街に暮らす多くの子供たちと同様、友人との悪ふざけの延長だったという。それはWIKIがまだ中学生の頃、学校行事で出向いたスキー旅行の最中、友人達との会話の中から冗談でラップグループを結成したのだ。そしてこのグループでの活動を続けるうちにラップの楽しさを知ったというWIKIは最終的にグループの誰よりもラップが上手くなっていたという。そしてこの時、WIKIはその後の人生を左右する ある出会いをしていた。それは通っていた小学校の教師だった。WIKIのラップを目にした数学の教師とスペイン語の教師はWIKIの才能をいち早く見いだし、ヒップホップの根底、文化そのものを深く教えた。以降、WIKIはブロンクス出身のこの2人の教師と共に学校でサイファーを始め、ラッパーとしての頭角を現し始めた。そして同級生でもあり、後のパートナーとなるHAKとはこの頃に出会っている。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/09/column150911_usa_4.jpg" alt="RATKING" width="780" height="520" class="aligncenter size-full wp-image-160888" />


<strong>次ページ：HAKはラッパーであり、正真正銘のアーティストなのだ。</strong><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>USインディーポップ界大注目のWaxahatcheeに迫る！</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post7/154022/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post7/154022/#respond</comments>
		<pubDate>Tue, 14 Jul 2015 03:21:44 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>憧れのアーティストの姿に少しでも近づこうとする少女たちの思いは万国共通だ。4月9日、ウィリアムズバーグのコンサートホールではアンティークのワンピースを着た前髪ぱっつん少女たちがステージ上を見つめていた。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="313" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/07/column150714_usa_2-470x313.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/07/column150714_usa_2-470x313.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/07/column150714_usa_2.jpg 780w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure>憧れのアーティストの姿に少しでも近づこうとする少女たちの思いは万国共通だ。4月9日、ウィリアムズバーグのコンサートホールではアンティークのワンピースを着た前髪ぱっつん少女たちがステージ上を見つめていた。少女達が熱い視線を送る先、それはUSインディーポップ界で今大注目のシンガーソングライター<strong>Waxahatchee</strong>（ワクサハッチー）こと、<strong>ケイティ・クラッチフィールド</strong>（26）だ。この日、彼女の3枚目のアルバム『<strong>Ivy Tripp</strong>』を引っさげたライブはソールドアウト。等身大の自分を歌い続ける事で揺るぎない支持を獲得してきたケイティ。しかし、その快進撃の影には彼女の双子の<strong>姉アリソン</strong>の存在がある事を忘れてはならない。今回のコラムではUSインディーポップ界で活躍する双子の姉妹の物語をお伝えしたいと思う。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/07/column150714_usa_2.jpg" alt="Waxahatchee" width="780" height="520" class="aligncenter size-full wp-image-154031" />
<p class="photocredit">（左）アリソン （右）ケイティ</p>

1989年1月4日、ケイティ・クラッチフィールド（以下ケイティ）は双子の姉アリソンと共にアラバマ州バーミングハムで生まれた。地元で保険会社を営む父と、専業主婦の母の間で育った2人は、幼少の頃よりタップダンスを習うためにダンススクールに通い、学校では聖歌隊に参加するなど音楽と共に幼少時代を過ごした。2人の父親はカントリーミュージックを愛聴し、娘たちには“<strong>大学を卒業し、25歳で結婚</strong>”そんな古臭い理想を押し付ける南部の男だった。しかし、ケイティとアリソンが思春期を迎える頃、父親の理想は打ち砕かれた。2人はパンクに出会ったのだ。髪を染めてパンクに夢中になる娘たちの姿に父親は激怒したが、2人は本気だった。ケイティとアリソンは学校が終わると寄り道をせずに帰宅すると自宅の地下室へと籠り、楽曲制作に明け暮れる毎日を送った。そして15歳の時に地元の友人たちと共にバンドを結成。ケイティがヴォーカルを務め、アリソンがキーボードを担当したバンド<strong>The Ackleys</strong>は地元のDIY系ライブハウスで初舞台を踏み、アルバムとEPを1枚ずつリリースしワープド・ツアーにも参加した。しかし、バンドは短い思春期の終わりと共に約3年間の活動を経て解散に至った。

<strong>▼The Ackleys（17歳の頃のケイティとアリソン）</strong>
<iframe width="780" height="585" src="https://www.youtube.com/embed/5sGGVW5o3BU?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

地元の大学へと進学したケイティとアリソンはすぐに新たなバンド<strong>P.S. Eliot</strong>を結成した。授業へ顔を出さずにバンド活動に専念する2人に父親は再び激怒したが、ツアーに出て自分たちの音楽を演奏することが楽しくて仕方なかった。ケイティは憧れのバンドの影響を受けてタトゥーを入れ、ウィードも試した。結局2人が大学を卒業することはなかった。バーミングハムのDIYシーンに置いて一躍その名を知らしめたP.S. Eliot。しかし、周囲の期待とはうらはらに２人はバンドを取り巻く環境にうんざりしていたという。ツアー先で出会うミュージシャン達の洗練されたライフスタイルに刺激を受けていたケイティとアリソンは地元での生活に閉塞感を抱き始めていたのだ。２人は当時のバーミングハムのシーンに蔓延していた男性優位社会に失望し、そこで生きていく事に限界を感じていたのだ。そうした空気の中、次第にバンドの勢いは失われていった。そして、姉のアリソンはある大きな決断をした。それは地元を離れて1人、ニューヨーク・ブルックリンへと活動の拠点を移す事だった。アリソンの決断を聞いたケイティは複雑な心境だった。なぜなら、それは生まれてからずっと行動を共にしてきたアリソンと初めて離れて生活をする事を意味していたからだ。

<strong>P.S. Eliot - Tennessee ＠ Third St. Co-Op</strong>
<iframe width="780" height="585" src="https://www.youtube.com/embed/b2tP5dd5QjY?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

2011年冬、ケイティはどん底だった。バンドの解散、不安定な人間関係、将来、不器用な自分、そしてアリソンとの別れ、生活の全てに疲れていた。そして、感情の整理がつかないまま迎えた22歳の誕生日前日、ケイティは車にアコースティック・ギターを積み、自宅を離れた。向かった先は、地元の湖の畔に建つ父親が所有する小さなコテージだった。この時、ケイティはやり場のない思いと爆発しそうな感情を歌にしようと誰もいない場所を求めていたのだ。インターネットも携帯電話も繋がらない孤立した環境。さらに窓の外はアラバマ州を襲った歴史的な吹雪。そうした中、ケイティは7日間で11曲の楽曲を制作・録音。完成したアルバムを『<strong>American Weekend</strong>』と名付けた。そしてケイティは自身のソロ・プロジェクト名をコテージの近くを流れる川の名前から<strong>Waxahatchee</strong>と名付けた。

<strong>Waxahatchee - 8athtub（live at VLHS, 3/5/2012）</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/hkcgr-bK-_4?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

2012年1月にリリースされたWaxahatcheeことケイティの1stアルバム『American Weekend』は同世代を中心に共感の嵐を呼んだ。さらに荒々しささえの残る完全DIYなアルバムながら、その年のニューヨーク・タイムズ紙が選ぶ「アルバムトップ10」に選ばれ、テレビドラマ『ウォーキング・デッド』の劇中では女優のエミリー・キニーがアルバムに収録されている楽曲“Be Good”を口ずさんだ。

<strong>The Walking Dead 4x13 Beth Singing To Daryl</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/5EMxAI018Ks?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


<strong>次ページ：ケイティが今回のアルバムで歌おうとしたのは“自分達の世代の価値観”だった</strong><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>US激震！韓国人ラッパーKeith Apeの衝撃ライブに潜入</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post6/146838/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post6/146838/#respond</comments>
		<pubDate>Fri, 15 May 2015 03:00:26 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>アジアのヒップホップがUSを揺らす！　韓国人ラッパーKeith Apeの衝撃ライブに潜入</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="313" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/05/column150514_usa_2-470x313.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/05/column150514_usa_2-470x313.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/05/column150514_usa_2.jpg 780w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure>満員のオーディエンスで身動きが取れないほど混雑したステージ前は汗とウィードの臭いで充満していた。4月7日、ニューヨークの老舗ライブスペースSOB’sで行われたパーティーは2組のライブを終え、その盛り上がりは頂点に達していた。すると突然、入り口から数十人に及ぶ集団が満員のフロアに勢い良くなだれ込んできた。混雑する客と煙をかき分けて次々とステージになだれ込む集団に会場は一時騒然となる。そして物々しい雰囲気の中、集団と共に一人の男がステージに立つと満員のオーディエンスは狂喜乱舞した。金髪に染めた髪をなびかせ、顔をマスクで覆うミステリアスな男。アジアのヒップホップをネクストステージに上げた韓国出身のラッパー<strong>Keith Ape</strong>の登場だ。まずはフロア中にどよめきが走った衝撃のライブ映像を見て頂きたい。

<strong>“It G Ma” In NYC</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/Sd1FcxvUd0s?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

今、アジアのヒップホップシーンに留まらずUSのヒップホップシーンにもその名を轟かすラッパーKeith Ape。映像を見ての通り、ステージ上もフロアに負けないくらいの人口密度（これでも危険と判断した店側の要請で少なくなった方）で酸欠寸前の大盛り上がりとなった。そしてこのライブで特筆すべきは会場中のオーディエンスが合唱している言語が韓国語であるところだ。いまだかつて英語以外の言語を使った異国のラッパーがアメリカでここまでの熱狂の渦を巻き起こした事はあっただろうか。今回のコラムでは、今大注目のラッパーKeith Apeに迫る！

<a href="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/05/column150514_usa_2.jpg"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/05/column150514_usa_2.jpg" alt="USAショックス" width="780" height="520" class="aligncenter size-full wp-image-146848" /></a>

元々、Kid Ashの名でソウルを拠点に活動をしていたKeith Ape（21）は、韓国アンダーグラウンドシーンで絶大な支持を集めているクルー“The Cohort”のメンバーであるOkasianによって見いだされ、同クルーに加入。加入当初からクルーの最年少でありながらメンバーからは”天才”と称されるほどの実力と存在感を放っていた。そして昨年9月に韓国のレーベルHI-LITE RECORDSと契約した頃に現在の名前に改名。幼少の頃からキース・ヘリングに夢中だった事からキースという名に洗練されたイメージを持ち続けたKeith Apeはその名を拝借。そしてその“洗練”されたイメージの反対の意味を持つ言葉として猿人類（APE）を選び現在のKeith Apeの名は完成したという。レーベルに加入した事で金銭面を気にせず楽曲制作に打ち込むことがでできるようになったというKeith Apeは、より精力的に活動を開始。また、ラップだけではなくMVなどのアートディレクションでもその才能を発揮。昨年YouTubeに投稿された楽曲“Hot Ninja（Hot Nigga Remix）”のMVでは、その卓越センスを披露した。

<strong>KEITH APE - Hot Ninja（Hot Nigga Remix）</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/yCzrwavXHUU?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

韓国のアンダーグラウンドシーンでその存在感を示し始めたKeith Ape。その運命を大きく動かしたのは一本のMVだった。今年元旦に自らの楽曲“<strong>It G Ma</strong>”（イッジマは韓国語で“忘れるな”の意味）のMVをYouTubeに投稿。同楽曲にはThe Cohortのメンバーである韓国のラッパーJayAlldayと Okasian、そして日本からは Loota、 Kohhも参加しており、それぞれが素晴らしいラップを披露。この日韓共演の楽曲が制作された経緯は、日本での活動経験を持つJayAlldayによる人脈の上で実現したという。

<strong>Keith Ape - （It G Ma）ft. JayAllday, loota, Okasian, Kohh</strong>
<iframe width="780" height="439" src="https://www.youtube.com/embed/DPC9erC5WqU?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<strong><a href="https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post6/146838/2">Keith Apeのラップはアメリカのヒップホップシーンを確実に揺らした</a></strong><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>『アメリカン・スナイパー』を殺害した男の壮絶な半生に迫る</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post5/128003/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post5/128003/#respond</comments>
		<pubDate>Fri, 20 Mar 2015 03:20:10 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

		<guid isPermaLink="false">https://qetic.jp/?p=128003</guid>
<![CDATA[<summary><p>［USAショックス］クリント・イーストウッド監督最新作『アメリカン・スナイパー』はイラク戦争に4度にわたって遠征、アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー、クリス・カイルの半生を元に、残酷な戦場と幸せな家庭の狭間で精神が崩壊していく男の葛藤を描いた作品だ。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="264" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_2-470x264.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_2-470x264.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_2.jpg 640w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure><span style="font-size:xx-large; line-height:30px;">ク</span>リント・イーストウッド監督最新作『<strong><a href="https://qetic.jp/search/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%BC/">アメリカン・スナイパー</a></strong>』はイラク戦争に4度にわたって遠征、アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー、クリス・カイルの半生を元に、残酷な戦場と幸せな家庭の狭間で精神が崩壊していく男の葛藤を描いた作品だ。現在日本でも大ヒット上映中の本作だが、本稿では映画では触れられなかったクリス・カイルを殺害した元海軍兵の<strong>エディー・レイ・ルース</strong>（以下ルース）の半生について書きたいと思う。決して多くは語られない伝説のスナイパー殺人事件の背景、そこにはアメリカが抱えるもう一つの闇があった。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_2.jpg" alt="USAショックス" width="640" height="360" class="aligncenter size-full wp-image-128007" />
<p class="txtcredit">エディー・レイ・ルース（27）</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

1987年、テキサス州で生まれたルースはダラス郊外の小さな町で3歳年上の姉と共に教育熱心な両親の下で育った。母親が小学校の教員助手だった事もあり、整った環境の中で教育を受けていたルースは、この地で幼少期を過ごす多くの少年達と同様、父親から猟銃の使い方を教わり、週末には家族でハンティングやキャンプを楽しむ”テキサスの少年”だった。また、ルースは大人顔負けのユーモアで度々周囲の大人たちを驚かせる少年だったという。

2001年9月11日、13歳のルースはテレビが映し出すある映像に衝撃を受けた。それはアメリカを襲った同時多発テロによって崩壊するツインタワーの映像だった。戦慄の光景を目にしたその日、ルースは父親に「<strong>将来は軍隊に入りたい</strong>」という決意を告げていたという。そして翌年、ルースは地元の高校に進学した。ルースが進学した高校は後に自らが殺害するクリス・カイルが10年前に卒業した高校だった。

<a href="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_3.jpg"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_3.jpg" alt="USAショックス" width="634" height="447" class="aligncenter size-full wp-image-128012" /></a>

<a href="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_4.jpg"><img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150320_usa_4.jpg" alt="USAショックス" width="634" height="426" class="aligncenter size-full wp-image-128005" /></a>
<p class="txtcredit">少年時代のルース</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

「<strong>短気で問題児</strong>」高校時代の同級生はルースについて一様にこう証言している。事実、学校でのルースの成績は悪く、高校生ながら飲酒やドラッグを頻繁にするようになっていた。そして高校2年生になった頃、教育熱心だった両親に窮屈さを感じていたというルースは、姉と共に両親の下を離れ、近所に住む伯父の家で新たな生活を開始する。しかし、共に暮らし始めた伯父はドラッグに依存していた。頻繁に家を訪れていたという伯父の友人は「不法占拠された家のようだった」と証言するほど環境は悪かった。そして事態は最悪の結末を迎えた。ルースの伯父がオーバードーズで死亡したのだ。この事件をきっかけにルースの姉は両親の元へと戻る決心をした。しかし、ルースは亡くなった伯父の家に叔母と共に残った。そして軍隊に入る為に、高校卒業までの残りの1年間を過ごした。そして2006年、ルースは高校を卒業と同時に海軍に入隊。新兵訓練プログラムを経たルースの凜とした表情を見た母親は一人前の男になった息子に誇りを持ったという。
<p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>【USAショックス】激動のブルックリン、それでもパーティーは続く</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post4/126983/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post4/126983/#respond</comments>
		<pubDate>Mon, 02 Mar 2015 03:57:13 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>［USAショックス］昨年、インターネット上に掲載された1枚の写真がニューヨークのミュージック・ギーク達の間で大変な話題となった。それは、現在のニューヨーク・インディーロックシーンを考察する上で、象徴的な出来事となったので少し古くなってしまったがお伝えしたい。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="313" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150302_usa_1-470x313.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150302_usa_1-470x313.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150302_usa_1.jpg 480w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure><span style="font-size:xx-large; line-height:30px;">昨</span>年、インターネット上に掲載された1枚の写真がニューヨークのミュージック・ギーク達の間で大変な話題となった。それは、現在のニューヨーク・インディーロックシーンを考察する上で、象徴的な出来事となったので少し古くなってしまったがお伝えしたい。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150302_usa_1.jpg" alt="USAショックス" width="480" height="320" class="aligncenter size-full wp-image-126986" />
<p class="txtcredit">クレイグスリストより</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

<strong>「月8,000ドルで倉庫貸します」</strong>

昨年1月30日、コミュニティーサイト“クレイグスリスト”に、ある不動産情報とキレイにリノベートされた倉庫の写真が掲載された。壁一面に白いペンキが塗られ清潔感さえ漂うこの倉庫の写真は、ローカルメディアによってすぐに報じられ、ソーシャル・ネットワーク・サービスを介して大変な話題を呼んだ。しかし、一見どこにでもある倉庫の写真が何故大きな話題となったのか。実はこの写真が掲載されるわずか2週間前まで、ここは煙草とウィードの煙の中、若者たちが汗まみれになって踊り狂う、ブルックリン定番のライブスペース<strong>285Kent</strong>であったからだ。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150302_usa_2.jpg" alt="USAショックス" width="640" height="427" class="aligncenter size-full wp-image-126987" />
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

今では伝説とさえ呼ばれるライブスペース<strong>285Kent</strong>の歴史をひも解くには、今から9年前に溯る必要がある。2006年、ブルックリン区ウィリアムズバーグの川沿いの倉庫街でひっそりとオープンしたあるクリエイティブ・スペースがあった。伝説のミュージシャン、ルーリードのアシスタントによって始められたこのスペースは<strong>ParisLondonNewYorkWestNile</strong>と名付けられ、多種多様な芸術家達が作品の展示・パフォーマンスを行う事で独自のコミュニティを築き、アヴァンギャルドなスペースとしてその名を馳せていた。

<span class="txtcolor-grey">ParisLondonNewYorkWestNile Trailer</span>
<iframe width="640" height="360" src="https://www.youtube.com/embed/60AtPVHomCQ?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
<p class="txtcredit">（ParisLondonNewYorkWestNileの当時の様子を収めたドキュメンタリー）</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

しかし、00年代後半に一時代を築いた<strong>ParisLondonNewYorkWestNile</strong>は約4年間という短い期間でその活動を終える事となる。そして2011年に、このスペースを引き継いだのがプロモーターのトッド・パトリック氏だった。元々ライブのブッキングをしていたパトリック氏によって引き継がれたこのスペースは、ミュージシャンによるライブを中心とした新たなスペースとしてその姿を変えた。そして通りの名前と番地をそのまま名前にした<strong>285Kent</strong>が誕生したのだ。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/03/column150302_usa_3.jpg" alt="USAショックス" width="640" height="427" class="aligncenter size-full wp-image-126989" />
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

<p class="kaigyo" style="margin-bottom:55px"></p>
<a href="https://qetic.jp/column/usa-post4/126983/2"><strong>次ページ：「ウィリアムズバーグはもう若くない…」</strong></a><p>© Qetic Inc.</p>
</article>]]>
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		<title>追悼 A$AP Yams 10年代USヒップホップシーン最重要人物の死</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post3/125790/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post3/125790/#respond</comments>
		<pubDate>Mon, 09 Feb 2015 11:30:46 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>［USAショックス］1月18日、エイサップ・モブの創設メンバー、エイサップ・ヤムズ（26）死亡のニュースが世界中に伝えられた。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="313" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/02/column150209_usa_2-470x313.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/02/column150209_usa_2-470x313.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/02/column150209_usa_2.jpg 600w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure><span style="font-size:xx-large; line-height:30px;">1</span>月18日、エイサップ・モブの創設メンバー、<strong>エイサップ・ヤムズ</strong>（26）死亡のニュースが世界中に伝えられた。

<strong>「自殺？　他殺？」</strong>

<strong>「オーバー・ドーズに違いない」</strong>

<strong>「いや、睡眠中に無呼吸状態になった事が原因だ、奴は＜コーチェラ＞でも寝ている間に汚物が喉に詰まって死にかけたからな」</strong>

あまりに早すぎる死に、インターネット上では様々な憶測が飛び交った。メンバーはそうした憶測を否定しているが、死因について未だ警察からの公式発表はない。そして死亡から一週間後、ヤムズの告別式は行われた。それはこの街のラップスターであり、同じく若くして命を失ったノトーリアス・B.I.Gと同じ葬儀場で行われた。


<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/02/column150209_usa_2.jpg" alt="USAショックス" width="600" height="400" class="aligncenter size-full wp-image-125792" />
<p class="txtcredit">エイサップ・ヤムズ</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

1988年11月18日、ドミニカンの母と、プエルトリカンの父の間に生まれたエイサップ・ヤムズことスティーブン・ロドリゲスは、ニューヨーク・ハーレムで育ち、幼少の頃からヒップホップに夢中な少年だった。中学に上がる頃には、すでにラッパーへの憧れだけではなく、楽曲を掘り下げる楽しみを覚えていたというヤムズは、時間が許す限りラジオを聴き、インターネットでリサーチをしては、チャットルームでヒップホップ談義に華を咲かせるという少年時代を過ごしていた。一度好きになったラッパーは、そのすべてのアルバムを聴かなければ気が済まなかったという当時のヤムズが夢中になっていたのは、キャムロンやDMX、BIG PUN、Nas、ウータン・クランだったという。

そしてこの頃、同級生との間に生じる貧富の差に疎外感を感じていたヤムズは、Nasのリリックの世界観に感銘を受け、自らを“Sensei the Golden Child"と名乗りラップを開始。次第に音楽業界でのビジネスへ興味が芽生え始めていたという。そしてヤムズは16歳になる頃、進学した高校をドロップアウトすると、知人の紹介を経て地元ハーレムのラッパー、ジム・ジョーンズとキャムロンが設立したレコード・レーベル、〈Diplomat Records〉でインターンシップを開始した。しかし、レーベルでのインターンシップは無給だった為、生活費を稼ぐ為にミックステープを売り始め、さらにカフェで掛け持ちのアルバイトもした。それでもお金が欲しければ、アルバイト先のレジから盗みも働いた。あきれた母親から家を追い出された夜には公園で野宿もした。そうした環境ながらヤムズはレーベル内で行われるビジネスを間近で見る事で、音楽業界の仕組みを理解していったという。

<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/02/column150209_usa_3.jpg" alt="USAショックス" width="588" height="400" class="aligncenter size-full wp-image-125791" />
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

そして2007年にヤムズは、地元の仲間達とヒップホップ集団<strong>A$AP MOB</strong>を結成。ラッパーやDJ、プロデューサーに限らず、映像作家やファッションデザイナーなど同世代のクリエイター達が集まるこの集団は次第に拡大していった。そして翌年、ヤムズは友人の繋がりからある人物と運命的な出会いをする。その人物こそが、後に世界的なヒップホップ・スターとなるエイサップ・ロッキーだった。当時のロッキーは、ロングヘアーを束ねたポニーテイルスタイルで、お洒落に気を使い、すでに独特のラップスタイルを持っていたという。


<img src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2015/02/column150209_usa_4.jpg" alt="USAショックス" width="640" height="361" class="aligncenter size-full wp-image-125797" />
<p class="txtcredit">エイサップ・ロッキー</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>


<p class="kaigyo" style="margin-bottom:55px"></p>
<a href="https://qetic.jp/column/usa-post3/125790/2"><strong>次ページ：「ロッキーがルーク・スカイウォーカーで、俺がヨーダさ」</strong></a><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>映画『デビルズ・ノット』では描かれなかった釈放までの愛の物語</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post2/122387/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post2/122387/#respond</comments>
		<pubDate>Wed, 10 Dec 2014 08:00:37 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>［USAショックス］アメリカ史上最悪の冤罪事件とも言われる猟奇的殺人事件 映画『デビルズ・ノット』では描かれなかった釈放までの愛の物語</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="294" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_2-470x294.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_2-470x294.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_2.jpg 720w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure><strong><span style="font-size:xx-large; line-height:30px;">「あ</span>の時、みんな正気じゃなかったんだよ。僕だけが冷静だった…」</strong>

身に覚えのないの罪で死刑囚となり、18年間刑務所に服役していたダミアン・エコールズはブルックリンのバーで行われたトークショーでそう呟いた。

全米を震撼させた事件は1993年5月にアーカンソー州ウエスト・メンフィスで起こった。前日から行方不明だった3人の8歳男児が町外れの森で惨殺死体となって発見されたのだ。被害者はみな全裸で手足を靴紐で縛られている状態で、殴られた痕があり、性器を切り落とされていた男児もいた。司法解剖の結果、1人は失血死、2人は溺死だったとされている。


<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_2.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_2.jpg" alt="USAショックス" width="720" height="450" class="aligncenter size-full wp-image-122389" /></a>
<p class="txtcredit">（左）ジェイソン・ボールドウィン（中央）ダミアン・エコールズ（右）ジェシー・ミスケリーJr.</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

事件からおよそ1ヶ月後、警察は3人の少年を逮捕した。ジェシー・ミスケリーJr.（当時17歳）、ジェイソン・ボールドウィン（当時16歳）、そしてダミアン・エコールズ（当時18歳）だった。逮捕のきっかけは知的障害を煩っているジェシーを警察が12時間にも渡って尋問した末の自白という乱暴なもの。そして、ダミアンとその友人のジェイソンはキリスト教福音派が多数を占める小さな町でへヴィメタルを愛聴し、オカルトの本を読む問題児だったという理由だった。3人の存在に恐怖に駆られた地元住民達は3人を激しく糾弾。そして、警察は悪魔教の儀式の為に男児達を殺害したと発表。ダミアンを含む3人は有罪となり、2011年に釈放されるまでの18年間を獄中で過ごす事となったのだ。映画『<strong>デビルズ・ノット</strong>』はアウトサイダーを排除しようとする小さな町で行われたずさんな裁判を見せ、裁判に不信感を持った私立探偵の独自調査によってダミアンを含む3人の疑いが晴れるまでを描いている。

しかし、映画の中では描かれなかったダミアンを含む3人の釈放の影には、ダミアンと獄中結婚したロリ・デイヴィスの存在があった事を忘れてはならない。


<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_3.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_3.jpg" alt="USAショックス" width="600" height="399" class="aligncenter size-full wp-image-122390" /></a>


<p class="txtcredit">ロリ・デイヴィス（Photo：Grove Pashley）</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

ウエストメンフィスの事件が世間を騒がせていた頃、ロリはニューヨークの建築事務所で働いていた。輝かしいキャリアに恵まれ、まさに人生を謳歌していた当時のロリであったが、その人生を変える日は突然訪れた。ダミアンの有罪判決から2年後の1996年、この裁判を追ったドキュメンタリー映画 『<strong>パラダイス・ロスト</strong>』がニューヨーク近代美術館で公開されたのだ。友人に誘われ気乗りしないまま映画を鑑賞したというロリだったが、映画の中で描かれた、アウトサイダーを排除する為のずさんな裁判を目の当たりにし、衝撃を受けることとなった。ロリもまた、キリスト教福音派が多数を占めるウエスト・バージニア州の小さな町で育っていた為に、アウトサイダーに対する排除の精神を痛いほど理解できたのだ。映画を観た後、ダミアンが置かれた状況を人ごととは思えなかったというロリは、誰にも告げずに獄中のダミアンに向けて一通の手紙を書いた。それはダミアンの状況を気遣い、言葉を掛けたいという思いからだったと言う。すると1週間後、ロリの元に一通の手紙が届いた。便せん用紙にびっしりと書かれていたのはロリが送った手紙への感謝の気持ちが綴られたダミアンからの手紙だった。そしてこの日からおよそ15年に渡り、数千通に及ぶ2人の手紙のやり取りが行われることとなったのだ。

<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_4.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_4.jpg" alt="USAショックス" width="572" height="720" class="aligncenter size-full wp-image-122391" /></a>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_5.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/column141210_usa_5.jpg" alt="USAショックス" width="565" height="720" class="aligncenter size-full wp-image-122392" /></a>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>


<p class="kaigyo" style="margin-bottom:55px"></p>
<a href="https://qetic.jp/column/usa-post2/122387/2"><strong>次ページ：ロリの大きな決断</strong></a><p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>地下鉄の夢 貧困・悪環境から抜け出す為に踊り続けた少年</title>
		<link>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post1/120606/</link>
		<comments>https://qetic.jp/column/tomota-ikawa/usa-post1/120606/#respond</comments>
		<pubDate>Wed, 05 Nov 2014 05:05:24 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>［USAショックス］数年前からニューヨークの地下鉄車内でよく見かける光景と言えば、スピーカーを片手に車内を縦横無尽に動きまわるティーンエイジャーたちの姿がある。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure><img width="470" height="314" src="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_2-470x314.jpg" class="attachment-medium size-medium wp-post-image" alt="" decoding="async" srcset="https://qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_2-470x314.jpg 470w, https://qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_2.jpg 640w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></figure><span style="font-size:xx-large; line-height:30px;">数</span>年前からニューヨークの地下鉄車内でよく見かける光景と言えば、スピーカーを片手に車内を縦横無尽に動きまわるティーンエイジャーたちの姿がある。

数人のグループで行動する彼らは、電車の扉が閉まると大きな声で「さぁショータイムだ！」と叫び、大音量のビートに合わせて、飛び跳ねるようなステップで踊りだす。そんな彼らのダンスの最大の特徴は、車内の手すりを利用したアクロバティックな動きだ。手すりを使って宙返りをしたり、逆さまになったまま乗客にグータッチを求める。筆者もこのグータッチを度々求められた経験があるが、彼らの人懐っこい笑顔に断る理由は見つからない。

<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_2.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_2.jpg" alt="" title="USAショックス" width="640" height="427" class="aligncenter size-full wp-image-120608" /></a>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

ティーンエイジャー達によるこのムーブメントはニューヨークの地下鉄の新しい光景として定着しつつあった。しかし、非合法で踊り続け、乗客からチップを貰う姿に不快感を示す者も少なくない。NY市警はこうした行為が増え続けることによる治安悪化を懸念し、地下鉄ダンサーたちの取り締まりを強化。今年に入り現在までに270人以上のダンサーたちが逮捕されている。

ブルックリン区・ブッシュウィック出身のエインズリー・ブランデイジ（19）も過去に14回、こうした行為によって逮捕されているティーンエイジャーの1人だ。


<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_3.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_3.jpg" alt="" title="USAショックス" width="640" height="462" class="aligncenter size-full wp-image-120609" /></a>
<p class="txtcredit">エインズリー・ブランデイジ</p>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

貧しい家庭で育ったエインズリーは、法律事務所の事務員として働く母親の影響もあり、幼少のころから法律関係の本を読み漁る議論好きで早熟な少年だった。どんな些細なことでも議論となれば母親を論破していたと言うエインズリーは成績も優秀で、その秀才ぶりは学年を飛び級する程のものだった。

しかし、中学校に進学するもエインズリーの悩みは家庭の貧困にあった。満足な食事を取ることもできない環境にもかかわらず、若すぎるエインズリーには合法的にアルバイトを探すことは許されていなかった。そんな時、エインズリーは偶然にもYoutubeを通して地下鉄ダンサー達の姿を目にしたのだ。そこには同年代の少年達が自らのダンスで乗客達からチップを貰う姿が映し出されていた。そして、この光景に可能性を感じたエインズリーは家族のために地下鉄に飛び乗った。

<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_4.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_4.jpg" alt="" title="USAショックス" width="640" height="427" class="aligncenter size-full wp-image-120610" /></a>
<p style="margin-bottom:21px;"></p>

以来、学校が終わると毎日早朝まで地下鉄の中で踊り続けたというエインズリーの最初の逮捕は14歳の冬だった。極寒のニューヨークで警察に逮捕された際、一時的に監房に収監されたエインズリーは着ていたジャケット、そしてフーディーを没収され、窓の開いた監房の中で持病のぜん息に苦しんだという。

しかし、こうした逆境を経験しながらも家族の為にエインズリーは踊り続けた。

高校に進学すると新しい友人も増え、多くの誘惑を受けることとなった。

ドラッグの売人として生計を立てる同年代の友人には、一緒に売人をやろうと誘われた。1週間で30万円以上を稼ぐというその友人は、高級ブランドに身を包み、美人のガールフレンドを連れて歩いていたが、エインズリーはダンスを選んだ。エインズリーにとって地下鉄でのダンスは、ギャングやドラッグ等に浸った周囲の環境から抜け出すための一筋の光でもあったのだ。

そしてこの時、エインズリーにとって人生を左右するある出来事が立て続けに起きた。地元の公園で開かれたバーベキューパーティーに参加したエインズリーの目の前で発砲事件が発生したのだ。目の前で被弾した男性を背に必死に走って逃げ続けたエインズリーはこの日の出来事がトラウマのように今も脳裏に焼きついているという。さらに後日、友人と共にナイトクラブで遊んでいた際にギャング同士の抗争に巻き込まれてしまったのだ。こうしたトラブルを経験したエインズリーは悪環境から抜け出すためにある事を決意したという。それは負の連鎖を断ち切る為に通っている高校を退学し、地元から遠く離れた大学に通うことだった。

<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_5.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_5.jpg" alt="" title="USAショックス" width="640" height="640" class="aligncenter size-full wp-image-120611" /></a>
<p class="txtcredit">エインズリー・ブランデイジ</p>
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しかし、大学の学費は最初の1年間でおよそ40万円。さらにキャンパンス内の寮にかかる費用はおよそ30万円。エインズリーは最低でもおよそ70万円を短期間で稼がなければならなかった。さらにそうした中で、高校を中退したエインズリーが大学に行くためにはGED（一般教育修了検定）をパスする必要があったのだ。見かねた友人はドラッグの売人になる事を強く薦めたが、エインズリーは地下鉄で踊り続けた。1日7時間、目標額に達しないときは深夜までお踊り続けた。さらに少しでもお金を節約するために1日1食を徹底し、時には2日間何も食べない日もあったという。そんな状況下でありながらも、エインズリーは休憩時間に立ち寄る図書館で勉強を続けた。エインズリーを心配した両親は、地元の大学に通うことを薦めた。しかしエインズリーは悪環境から抜け出すために新天地での大学生活を送る必要があった。

そして去年11月、大学に行くために必要な検定を受けたエインズリーは合格基準から300ポイントも高い驚くべきハイスコアを叩き出したのだ。

こうしたエインズリーの情熱に親戚からの援助も加わり、今年9月より晴れて念願の大学生となったのだ。


<a href="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_6.jpg"><img src="https://cdn.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/11/column141105_usa_6.jpg" alt="" title="USAショックス" width="640" height="360" class="aligncenter size-full wp-image-120612" /></a>
<p class="txtcredit">エインズリー・ブランデイジ</p>
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現在、新天地で新しい友人たちとの学生生活を開始したエインズリー。

筆者はFacebookを通して新しい環境について幾つか質問を投げかけてみた。すると、すぐに返事が返ってきた。そこにはこう書かれていた。

<strong>「今は勉強している時が何よりも楽しいんです。将来は弁護士になりたいんです」</strong>

自らの手で新しい人生を切り開いたエインズリーのサクセスストーリーは、地元メディアによってヒップホップ・ホープとして伝えられた。

<p>© Qetic Inc.</p>
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		<title>バンクシー「Better Out Than In」現地レポ！ アンチ＆警察との攻防などで盛り上がるNYCを追った</title>
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		<pubDate>Fri, 25 Oct 2013 10:33:46 +0900</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井川智太]]></dc:creator>
		<category>6</category>

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<![CDATA[<summary><p>［Banksy：Better Out Than In］閑静な住宅街に人々が詰め寄せた。世代も人種もバラバラの群集が持つ共通の目的、それは街角に描かれたある“落書き”を観る事だった。住宅しかないこのエリアに世界的なアーティスト、バンクシーが現れたのだ。</p>
</summary>]]>
<description><![CDATA[<article><figure></figure><span style="font-size:xx-large; line-height:30px;">2</span>013年10月14日午後9時、ニューヨーク州・クイーンズ地区の閑静な住宅街に人々が詰め寄せた。
世代も人種もバラバラの群集が持つ共通の目的、それは街角に描かれたある“落書き”を観る事だった。住宅しかないこのエリアに世界的なアーティスト、<strong>バンクシー</strong>が現れたのだ。

英国出身の覆面アーティストであるバンクシーは現在、ニューヨークのストリートを巨大なキャンバスに見立てて、1ヶ月間を通して1日1作品を発表していく「<strong>Better Out Than In</strong>」というプロジェクトを展開している。基本的にストリートにゲリラ的に出没し、夜のうちにビルの壁などに絵を描いては自身の<span class="removed_link" title="http://www.banksyny.com/">ホームページ</span>で作品を発表している。ニューヨークのファン達はその写真を頼りに、まるで宝探しを楽しむように町中を探し回っているのだ。




そしてこの夜、筆者が目の当たりにしたのは、ようやく見つけた宝の前で記念撮影を楽しむ人々の姿だった。陽気な中年男性はその落書きの前でポーズをとりながら順番待ちをする人々に語りかけていた。

<strong>「慌てなくても大丈夫だよ、まだここに本物があるから」</strong>

中年男性の言葉に周囲の人々からは笑いが起きた。しかしその直後に起きた出来事によって筆者は笑えない冗談だと言う事を実感した。<p>© Qetic Inc.</p>
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