しかし出会った当初2人はケンカ別れをしており、その後、ロッキーは一時的にアラバマ州へと身を移していた事もあり、長い間直接的に会う事はなかったという。しかし半年後、ヤムズの携帯電話にロッキーからの着信があった。ロッキーはこの頃、ラッパーとして楽曲こそ制作していたものの、外の世界に自分をアピールする術を身につけておらず、自分の方向性を示してくれる人物を捜していたのだ。そして、ロッキーはヤムズの卓越したセンスとプロデュース能力を信頼し、遠く離れたアラバマ州から相談を持ち掛けたのだ。そして、再びニューヨークへと戻ってきたロッキーはヤムズと共に、毎日のようにスタジオに籠った。ロッキーが“ヒップホップ百科事典”と称するヤムズとの作業は、様々なタイプのヒップホップの楽曲を聴く所から始まった。どんなライムとフロウがロッキーに合うのか徹底的に研究を続け、さらにヤムズが考える理想のラッパー像をロッキーに示し続けた結果、現在のロッキーのスタイルが確立されていった。後にヤムズはこの頃の2人の関係について映画「スター・ウォーズ」の登場人物に準えて次のように例えている「ロッキーがルーク・スカイウォーカーで、俺がヨーダさ」

追悼 A$AP Yams 10年代USヒップホップシーン最重要人物の死 column150209_usa_5

ロッキーとヤムズ

2011年、エイサップ・ロッキーの楽曲が立て続けにインターネット上にドロップされた。この時に公開され、ロッキーの代表曲ともなった“Peso”のミュージックビデオは、ロッキーとヤムズが育ったハーレムの英雄、キャムロンの“My Hood”から影響を受けた作りになっているという。ロッキー指揮の下制作された同曲のビデオは、当時ヤムズがTumblr上で行っていた人気ヒップホップブログを中心に瞬く間に世界中のヒップホップファンに拡散されていった。長らく低迷を続けていたニューヨークのヒップホップシーンから突如現れたロッキーの存在は、この街に再び黄金時代を取り戻したのだ。ヤムズはこの頃、仲間達と共に車でニューヨークの夜を走っている際、突然ラジオから流れ始めたロッキーの楽曲を耳にし、涙を滲ませたという。

A$AP Rocky – “Peso” (Explicit)

インターネットでの楽曲発表と共に瞬く間にスターダムへとのし上がったエイサップ・ロッキーはレコード・レーベルによる争奪戦の末、〈Polo Grounds Music/RCA Records〉と300万ドルという破格のメジャー契約を結んだ。そして、2013年1月に満を持して発表されたロッキーのファーストアルバム『Long.Live.Asap』はその勢いのまま全米チャート初登場1位に輝いた。そしてロッキーを筆頭にA$AP MOBの快進撃は現在に至るまで続いている。そんな矢先、今回の悲劇が起きてしまったのだ。

1月18日、ヤムズは自宅で意識を失った状態でルームメイトによって発見された。緊急通報によりすぐに病院に搬送されたヤムズだったが、そのまま息を引き取った。享年26歳だった。

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10年代USヒップホップシーンの重要人物であったヤムズの死は、ファンのみならず音楽業界にも大変な衝撃を与えた。だがしかし、ヤムズ死亡後、メディアのインタビューに答えたロッキーから発表されたのは、自身のニューアルバムに共同エグゼクティブ・プロデューサーとしてヤムズの名がクレジットされるという事だった。新しいヒッピホップ時代の幕開けを世界中に予感させたロッキーとヤムズのヒップホップドリームはまだ終わっていないのだ。

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A$AP Rocky – “Goldie”

ASAP Rocky Long Live ASAP Wild For The Night Live On David Letterman