音楽ライターの二木信が、この困難な時代(Hard Times)をたくましく、しなやかに生きる人物や友人たち(Good Friends)を紹介していく連載「good friends, hard times」。国内のヒップホップに軸足を置きながら執筆活動を展開してきた二木が、主にその世界やその周辺の音楽文化、はたまたそれ以外の世界で活躍、躍動、奔走するプレイヤー(ラッパー/ビートメイカー/DJ)、A&Rやプロデューサーなど様々な人物を通じて音楽のいまと、いまの時代をサヴァイヴするヒントを探ります。第1回目に登場するのは原島“ど真ん中”宙芳。
So I’m Your Friend――そんなロゴの入ったスウェットやTシャツが静かに局地的に広まっている。そして目の前にその服を常に着ている男がいる。直訳すれば、「そう、おれは君の友だち」。このパンチラインの発案者こそが今回の主役・原島“ど真ん中”宙芳である。原島は、地元の友だち・PUNPEE、そして仙人掌、GAMEBOYS(CHAPAH & KAICHOO)といったラッパーたちのライヴDJを務め、PUNPEEのファースト『MODERN TIMES』収録の“夢のつづき”でラップを披露していることで知られる。さらにChaos On Paradeという自身のグループで活動するラッパー/ビートメイカーとしての顔を持ち、都内のクラブやバーを中心にDJとしての現場を持つ。現在、活動の一つの主軸はDJにあると言っていいだろう。
原島のtwitterアカウントのプロフィール欄には「お茶目で陰湿、ノリ重視」と記されているが、この男の陽性と陰性の拮抗の具合、そのバランスには不思議なものがある。乱暴だが繊細で、仲間とゲラゲラ笑っていたかと思えば、クラブの隅でポツンと無表情で立っていたりする。世間の常識に背を向けているようで、やたらに道徳的だったりもする。そんな原島の“友だち哲学”が面白い。そして僕はこれが重要だと思う。会社、学校、サークルなどの組織の“みんな”よりも個人同士の付き合い=友だち付き合いを優先し友だちと過ごす時間を大切にすることで独自のネットワークを着実に拡げていっている原島の友だち哲学とその実践は、ヒップホップ的にとらえればフッド愛=地元愛の応用だが、社会的にとらえればオルタナティヴの模索である。つまり誰もがハードなストレスを抱えるこの国の資本主義社会の中で“楽しく生きること”の大胆な追求だ。こんな風に書くと、「大げさ過ぎる」と本人は否定するだろうが、しかし今年38歳になる大の男(1981年生)がSo I’m Your Friendを旗印に掲げ、酒で失態しても少ししか気にせず日夜友だちとの遊びに奔走する生き方を他にどう説明できようか。
今年の1月末、Jazzy Sport主催の<APPI JAZZY SPORT 2019>にPUNPEEとのユニット、板橋兄弟として出演、会場の盛岡の安比高原から東京に帰ってきたばかりの原島と、彼がパーソナリティを務める<ど真ん中ラジオ>を毎週公開収録している原宿のIKI-BAで合流。ヒップホップとの出会い、PUNPEEと仙人掌という2人のラッパーのライヴDJ、DOMMUNEでのD.L追悼番組の際のDJ、そして友だち哲学などについておおいに語ってくれた。「(安比で)2日連続で焼肉を食べた」という景気の良い彼にまずは板橋兄弟について話してもらおう。
「場所が安比だから、“APPI”と“アッピインヒア(Up In Here)”をかけて、DMX の“Party Up (Up In Here)”をかけようと思ってiTunesで買ったんだけど、スベりそうだからやめといた。でもまあ板橋兄弟ではそういう洒落を楽しんでいるかな。板橋兄弟がどうやってできたか? 最初、(恵比寿の)BATICAの1階のラウンジでDJしている時にPUNPEEにノリでサイドMCをやってもらったりしていて、その流れでB2B(バック・トゥ・バック)をやるようになって。それだったらユニットにしようってことで、ユニット名はPUNPEEからの提案で板橋兄弟に決まった。PUNPEEと5lackは高田兄弟だし、板橋兄弟だとまぎらわしい名前だからどうかなって俺は思ったんだけど、まあPUNPEEからの提案だったし、『それでいきましょう』って納得して。俺の記憶が正しければ、2014年のBATICAのアニヴァーサリー・イベントが初披露だと思う」
板橋兄弟はどんな選曲をしているのか。2017年12月26日に予約85人限定で<Still Dreamin’>というワンマン・イベントをBATICAで開催している。その時のセットリストを見ると、キャニバス“How We Roll”からCHAGE and ASKA “LOVE SONG”そしてクリプス“Grindin’”へ、あるいはPerfume“マカロニ”からプロディジー(モブ・ディープ)“Keep It Thoro”につなぎPSGのオリジナル曲へ、というようなミックスが披露されている。和モノ、ヒップホップ/R&B、Jポップのオール・ミックス。原島とPUNPEEの音と言葉の連想ゲーム的センスでいろんなタイプの楽曲をヒップホップ的に調理するというのがコンセプトだろうか。
「それは少し大げさかも。俺個人も板橋兄弟もBATICAのオール・ミックスのイベントにブッキングされる機会が多いから、そういう現場から出てきたスタイルなんじゃないかな。アイドルとヒップホップのラッパーとダンス・ミュージック系のプロデューサーのライヴの中でやることがあっていろんな人が遊び来ているからそこは意識しているかもしれないけど。だからと言ってポップスばかりかけてそっちに寄り過ぎるのも違うな、と。事前に選曲の相談もするけど、そのあたりをPUNPEEがどう考えているか俺はわからない。そこまで狙っているつもりはないけれど、でもたしかにヒップホップへの入口を作る意図で、他のジャンルの音楽とヒップホップを同じように並べてかけているのはあるかもしれない」
Canibus How we roll
クラブでのDJプレイの一方で、PUNPEEと仙人掌のライヴDJという重要任務をこなしているわけだが、どのようにして彼らと組むことになったのか。
「PUNPEEは<AVALANCHE>(〈Summit〉が2011年から年に一度開催しているイベント。2018年は開催されていない)の2回目(2012年8月26日)ぐらいからだと思う。その時、PUNPEEから『ソロ・ライヴをやるからバックDJをやってください』って頼まれて。ただ、BATICAで飲んでお互い酔っていたから最初は半信半疑だったけど、後日正式に連絡がきてやることになっていまに至る。仙人掌のライヴDJをやるようになったのは家が近かったから。それが一番の理由だと思う。その頃仙人掌も東武東上線沿いに住んでいてその沿線の街でライヴをやる時に声をかけられたんだよね。『ライヴDJやってくれないですか?』って。2016年ぐらいだと思う。2人で遊んだこともなかったし、こっちとしては知り合う前から仙人掌というラッパーを知っていて、しかもリスペクトがあるわけじゃん。だからオファーの電話がかかってきた時はびっくりしたよ。『うわっ!?』と思って一度電話を置いて『もしもし』って言う練習したもん(笑)。そんな感じでライヴDJをするようになったけど、いつの間にか東京近郊以外でのライヴや各地を回るツアーも一緒に行くようになっているね。やっぱさ、俺らぐらいの歳になると時間やヒマがあるヤツってなかなかいないじゃん。それで俺が頼まれているんだと思うよ」
仙人掌にライヴDJを依頼された理由を「家が近かったから」と説明するあたりがいかにも原島らしい。そこには謙遜もあるだろう。実際のところ、ヒップホップDJとしての技量と体力と度胸がなければ、PUNPEEと仙人掌といったタイプの異なるラッパーのライヴDJをこなすのは容易ではない。
「PUNPEEと仙人掌ではライヴDJの役割はけっこう違う。仙人掌とやる時の方が“バックDJ”っていう意識を強く持っているかな。PUNPEEのライヴはちょっと笑いの要素が含まれても良いじゃん。むしろそこも大事。だから、俺もマイクでPUNPEEにツッコミ入れたりするんだけど、仙人掌のライヴでそういうことはあまりしない。バックに徹する。もちろん仙人掌の人柄はすごくユニークで曲間のMCでも面白いこと言ったりするけど、いざラップを始めるとストイックだから。そこに笑いとかはいらないと俺は思っていて。その点がPUNPEEと仙人掌のライヴDJをやる時の一番大きな違いかな。あと俺もラップするから、トラック、ビートとラップの音量のバランスとか、ビートをどこで抜くとカッコイイかとか、どのタイミングでドンと頭出しするとノリが良いかとか、そういう部分で2人と共通の認識を持てているのかもしれない」
ちなみに素朴な疑問がある。2017年は彼にとっても転機の年だったに違いない。PUNPEEと共に<FUJI ROCK FESTIVAL ’17>に出演、仙人掌の初のオフィシャル・ソロ作『VOICE』のリリース・パーティをLIQUIDROOMで経験している。そのような大舞台に立つ心境はどうだったのか。
PUNPEE – FUJI ROCK FESTIVAL’17 “夜を使いはたして〜Renaissance” 【Official】
LIVE FILE:REFUGEE MARKET / WISDOM – 仙人掌
「緊張はしないかな。舞台が大きければ大きいほどオーディエンスの期待や熱を感じるし、『ミスしたらどうしよう』とか考えて緊張しようとすればいくらでも緊張できるけど、俺ができることは限られているわけだからさ。ミスしないでできるか、できないかはどういう規模でも同じ。ステージ上の立ち振る舞いで意識していることも特になくて。そういうことよりも、こうやって普段飲んでいる時の自分の振る舞いとかの方を注意しているかな。ドリンクのグラスを持つ角度とか乾杯の一口目にどれぐらい飲むかとか、そういう所作は大事だと思う」
鋼の魂とでも言えようか。しかし、<フジロック>やLIQUIDROOMのステージでの振る舞いと酒のグラスの持ち方や飲み方という所作は果たして比較の対照になり得るのだろうか……。
「いや、もちろん印象に残っているシーンはいろいろあるよ。仙人掌のリリパで、SEEDA、BES、仙人掌の“FACT”を真後ろから観たのとかやっぱり感動したし。観た、というか、その後ろでライヴDJをしていたからさ。あと、PUNPEEのSTUDIO COASTでのライヴ(2018年5月26日開催/PUNPEE Presents. “Seasons Greetings’18”)は舞台の装置も編成もすごかった。バンドセットで、PUNPEE、ZAIちゃん、illicit Tsuboiさん、さらにドラマーのなかじまはじめさん。そして俺。俺がDJで出した音になかじまはじめさんがドラムを叩いて被せるのはクリック音がないから厳しくて。結果、はじめさんが音を出してドラムを叩いていたんだけど、そういういろんな試行錯誤も面白かったし、新しい体験だった。この前のORIGINAL LOVEの<LOVE JAM VOL.4>(2019年1月13日)っていうイベントもその編成だった」
LIVE FILE : PUNPEE – Seasons Greetings’18 Live Digest
原島の音楽遍歴についても訊いてみよう。AWAのインタヴューによれば、小学はチャゲアス、中学でTHE BLUE HEARTS、高校生になってからインディー・ロック、テクノ、ヒップホップなどの洋楽を聴くようになり、オアシス、レディオヘッド、プロディジーなどのレコードも買っていたという。ちなみに原島は新宿区生まれで小学生の頃の住まいは新宿区水通町だった。その後、板橋区に引っ越してきた。だから、板橋兄弟と名乗ってはいるものの、板橋は「たまたまいまいる場所」という感覚なのだという。
「音楽は元々それなりには好きで高校に入って軽音楽部に体験入部もしたんだけど、頭の良い高校じゃなかったし悪そうなヤツがいっぱいいて。もうその時点で入りたくないって思っちゃって。それでもロックは好きでカウンター・カルチャーに対する憧れみたいなのは持ち続けていて。雑な言い方だけど、“権力やオトナへの反抗”というやつだろうね。THE BLUE HEARTS、すごい好きだし」
そこからどうやってヒップホップに出会ったのだろうか。
「当時『rockin’on』と『CROSSBEAT』を読んでいて、友だちが教えてくれる盤と『rockin’on』のレヴュー・コーナーで大々的に取り上げられている盤を月に何枚か買っていた。で、ある時そのレヴュー・コーナーでウータン・クランのセカンド『Wu-Tang Forever』(1997年)が紹介されていたんだよね。それが初めて買ったヒップホップのCD。ただ、渋過ぎて最初は良さがわからなかった。2枚組で超長いし単調に感じられたし、ひとまずこの盤はちょっと置いておこうって。しばらくしてそのアルバムに付いていたCD-ROMの動画を観たんだよね。あの時代はそういうエンハンスドCDがあったでしょ。YOU THE ROCK★の『THE★GRAFFITI ROCK ’98』のディスク2にもBEATMANIAみたいなゲームが付いていたりして。ウータンのCD-ROMのウー・マンション(ウータン・クランのマンション)を探索できる機能も面白かったけど、何よりも衝撃的だったのは、“Protect Ya Neck”(ファースト『Enter The Wu-Tang(36 Chambers)』収録曲)のMV。“ボコ! バキ!”とか殴る音が入っていたり、オール・ダーティ・バスタードのヴァースとか異様に効果音だらけで。だからあの曲がヒップホップのカッコ良さを知る入り口になったというのはある」
Wu Tang Clan – Protect ya neck video
90年代後半にティーンネイジャーだったロック・リスナーがヒップホップに出会った時の戸惑いが率直に語られているのがリアルで興味深い。ヒップホップという音楽文化がロックを呑み込んでからもう随分と時が経った。2017年上半期にある調査会社が発表したアメリカにおける音楽の売上データによれば、ヒップホップとR&Bがロックの売上を、調査開始以来はじめてこえたという。言うまでもなく原島の語る戸惑いはXXXテンタシオンやリル・ピープ登場以前の時代の話である。今年創刊50周年をむかえた音楽専門誌『ミュージック・マガジン』が2019年2月号で組んだ「ラップ/ヒップホップ・オールタイム・アルバム・ベスト100」でトップを飾ったNYはクイーンズを代表するベテラン・ラッパーのクラシック=名盤についてもこう語る。
「ナズの『Illmatic』とかも最初マジ退屈で仕方なかったもんなー。“N.Y. State of Mind”なんて超ゆったりしているし、『なんだよ、これ!?』って感じだった。でも、“N.Y. State of Mind”みたいな“ドープ”な曲の良さを理解することがヒップホップのヤバさを実感することなんだと思う。俺もそこからどんどんハマっていったし。さらにサンプリングの仕組みを調べて、ループ・ミュージックのトラックの構造を理解したのも大きいのかも。トライブ(・コールド・クエスト)の“Scenario”なんてダークなベース・ラインと2拍のドラム・ループだけでほぼ楽曲が構成されているじゃん。たったそれだけでよくあんなに大騒ぎできる曲を作ろうと思うなって。そこが面白かった。90年代はいまと違って、ロックやポップスを聴いていた音楽好きがヒップホップやラップの良さを理解するためにクリアしなければならないハードルは高かったのかもしれないけど」
では、日本のヒップホップはどうだろうか。
「日本のラップは高校1年の頃に聴いたRHYMESTERの“B-BOYイズム”が入りだった。あの曲では自分たちは少数派だけど、多数派に媚びずに己の美学を貫くという内容が歌われているじゃん。ああいうカウンター・カルチャーの姿勢に惹かれたのはある。RHYMESTERの曲で言えば、“マイクの刺客”の『長い物には巻かれますか大人しく/それじゃ背広着た家畜/中指立ててろ不良らしく/ただしいつでも礼儀正しく』っていう宇多丸のリリックとかにも感化された。『FRONT』(ヒップホップ/R&B専門誌。のちに『blast』と誌名を改める。2007年休刊)で宇多丸が連載していた『B-BOYイズム』とか、DEV LARGEの、すげえ小さい字と絵がブワーってページを埋め尽くしていた『THE WORLD OF BUDDHA BRAND』っていう連載とか読んでいまの自分が形成された部分はあるし、俺は『FRONT』の模範生ですよ。リリックも書いたりしていたけど、DJで最初に人前に立ったのはそのぐらいのとき。池袋駅から15分くらい歩くところにD’ORっていうクラブがあって、高校3年生ぐらいの時に初めて自分たちでイベントをやったりもして」
日本のヒップホップ、日本語ラップに関して、個人的に原島から聞いたエピソードの中で最も鮮烈なもののひとつが、THA BLUE HERBの『STILLING,STILL DREAMING』(1999年)のLPを大量に買い込んだ話である。
「誤解されないように最初に言っておくけど転売して儲けたとかそういう話ではないからね。『STILLING,STILL DREAMING』の2LPは値段が高騰して一時期なんて4万8000円ぐらいする時もあった。それぐらい高騰する前に、とにかく内容が素晴らしいから友だちに聴いてほしくて15枚ちょっと買って欲しい人に定価で売っていた。ただ、1店舗で買いすぎると気まずいからCISCOの新宿と渋谷を渡り歩いて買い込んだりした。やっぱりDEV LARGEの影響でヤバいレコードは何枚所有していても良いという偏向教育を受けていたのもあったから。“レコード救出”とか言って同じレコードを何枚も買っていたし。レコードを1枚しか持っていないのは普通のリスナーと変わらない、と。いまや年に2回ぐらいしかアナログでDJしないのに、ミーゴスの『Culture II』の3LPも2枚買いしちゃったり」
2枚使いするわけでもなく、あのミーゴスの『Culture II』の3LPを2枚買いするようなDJを僕は他に知らない。ヴァイナル・ジャンキーの鑑と言える……のかもしれない。そんな原島は、DEV LARGEの急死後、2015年6月24日にDOMMUNEで放送された追悼番組<病める無限のD.Lの世界~Rest In Peace D.L>にDJとして出演している。DOMMUEからブッキングと司会を依頼された自分が、原島のDEV LARGEへの造詣と愛情の深さを知っていたゆえにオファーしたものだった。DEV LARGEに影響を受けた後続の世代によるパフォーマンスで構成された第2部の<D.Lの遺伝子を引き継ぐ者たち>(PRIMAL、MEGA-G、DJ MUTA、BLYY、Down North Camp等が出演)というタイトルも原島のアイディアに拠るところが大きかった。そこで原島はDEV LARGEが立ち上げたレーベル〈EL DORADO〉に焦点を絞った個性的なプレイをやってのけたのだった。
「そもそも、二木はオファーしたつもりになっているけど訂正したい。俺がかけた電話で前日にオファーというかDJが一人足りないって泣きついてきただけだよ。一旦保留で電話切って何ができるかなとは考えた。DEV LARGEが亡くなったあと、都内のクラブに遊びに行くと、“人間発電所”はかかりまくっているし、BUDDHA BRANDのネタ縛りみたいなDJセットをやっている人もいっぱいいた。そういう中で俺ができるDJは何なのかって。俺は2000年の<フジロック>に〈EL DORADO〉(BUDDHA BRAND & EL DORADO ALL STARSで出演)目当てで行くぐらい大好きだったし、あのレーベルから出るレコードを3枚ずつぐらい買っていた。それだったら、〈EL DORADO〉を軸にセットを組もうって。ゴーストフェイス・キラーの曲の流れで同じネタ使いのDEV LARGE関連の曲をかけたり、レーベルに在籍していたフュージョン・コアの曲と同じネタを使っているO.C.の“Time’s Up”をかけたりするミックスをやって。自分で言うのもなんだけど、あのDJは良くも悪くも少し反響があった。外国の人からも『トラックリストやおすすめ教えて欲しいです!』ってメールで直接連絡がくるぐらい」
さらに、先達から受け継いだカウンター・カルチャーとしてのヒップホップというコンセプトについての考えをこう続ける。
「最近若い人たちと現場が一緒になって話したり、そういう人たちの音楽を聴いていても、いまは、90年代後半のような“長い物に巻かれるな!”という抵抗よりもそいつにとって正しいか正しくないかの方が重要になってきているとは思う。昔だったら、テレビとかメインストリームや多数派を“敵”と見做してそういう支配に抵抗して状況をひっくり返す、という主張に説得力もあったけど、いまやラッパーもテレビなんてガンガン出ているわけだしさ。そういう環境でも正しいことはできるわけで。だから自分にとって正しいことができている時点で、本来の意味とは違うかもしれないけれど、カウンター的な意味合いを持つと思う。何も政治批判しなくても、世の中で間違ったことがしゃあしゃあと行われていて自分らの生活状況が酷いとか、カッコイイことやっているヤツよりも、ダサいヤツの方が目立っているとか、そういう状況を変えようとするマインドはヒップホップの根底にあるわけじゃん」
2018年4月から、原島と、飲食店やギャラリーなどが集まる表参道のスペースcommune 2ndによるラジオ・プラグラム<ど真ん中ラジオ>の放送が開始された。原島に加え、バンドNINJASのヴォーカルで、千代田区にあるギャラリー、ANAGRAの主宰、AI.Uがパーソナリティを務める。いまの原島の活動のひとつの主軸と言っていいが、そもそもどのような経緯で始まったのだろうか。
「最初はIKI-BAで<エナロックフェス>(原島の学生時代からの友だちである通称・ブラックエナリを盛り上げるために発生したSNS内のハッシュタグ=#エナロックフェスをきっかけに現実化したパーティ。ちなみに『エナロックフェス』という言葉の起源は、原島以上にフジロックを満喫していたブラックエナリを見かけたDJのCE$が発した『エナロックフェスティバル、お疲れ様です』にあるという)をやろうと思っていたんだよね」
閑話休題。<ど真ん中ラジオ>がスタートするきっかけは何だったのか。
「以前からcommune 2ndの国崎泰司にDJで呼んでもらったりはしていて。何がテーマかは忘れたんだけど、とあるイベントのトーク・セッションがIKI-BAであった時、勝手にまぎれ込んでしゃべらせてもらったりして。トークのサブテーマのひとつは“安定とは何か?”というような内容だったと思う。自分で事業や会社をやっているような社会的にも活躍されている人たちがスピーカーをやっているところに、俺みたいなフラフラした場違いなヤツがまぎれ込んだ。そこで俺なりの視点から、要は経済的に生活に余裕のない立場からの意見を率直に話した。『明日の飯の心配じゃなくて、明後日の飯の心配がなくなれば安定じゃないですかね』って。明日の飯がないだとまだちょっと不安定じゃん。でも明後日の飯の心配がなかったらずっとやっていける気がしますよねって。そんな話をノリでしたらちょっとウケて。それで元々DJで呼んでくれたりして接点はあったcommune 2ndやIKI-BAの人たちとより親密になって、その流れで毎週水曜日に<ど真ん中ラジオ>をやることになったんだよね」
<ど真ん中ラジオ>にはさまざまな分野のゲストが出演している。DJやラッパーやミュージシャンはもちろんのこと、レーベルのA&Rやオーナー、クラブのブッキング担当者、あるいはプロレス団体の営業の人間など多岐にわたる。
「いろんな職種やジャンルの人たちと出会ったり、一緒に遊ぶきっかけ作りとしてやっている側面もあると思う。この前は美容師の人に髪を切ってもらいながらやって。ラジオだから絵が伝わらないんだけど、『希望する髪型の写真を持っていったらその通りになるんですか?』とか『どう注文すれば良いんですか?』っていう質問に答えてもらったり。あと俺の親父の友だちの、“演歌ペラ”っていうヴォイス・パーカッション入れつつアカペラで演歌をやるパフォーマンスをやっている人たちを呼んで、『どうすればいくつになっても青春みたいな過ごし方ができるのか?』みたいな話をしてもらったり。音楽に特化するわけではなくて、もう少し幅のある文化的活動というか、面白い人が集ったり出会える場を作るのもラジオをやる目的かな。だから毎回公開収録だし、みんなで酒を飲んで遊んでいる。この前ROCKASENのTONANくんにゲスト出演してもらったんだけど、『何言ったかおぼえてないからアップする前に聞かせてもらっていいですか?』って言われて。酔っぱらってくると砕けて面白くはなるよな。毎回打ち上げもあるから毎週忘年会やっているみたいな感じだよ(番組はMixcloudに随時アップされる)」
こういう横断的かつアクロバティックな人間関係、いや、友だち関係をなんなく作っていけるのも、原島の“So I’m Your Friend”という友だち哲学ゆえであろう。取材準備をしている際に、実はこのキャッチフレーズの元ネタが、原島がフェイヴァリットに挙げていた重松清の小説『きみの友だち』であることを知った。
「それ調べたのか、恥ずかしいな……。『きみの友だち』は内容も良いんだけど、まずそのタイトルが良いと思った。“おれの友だち”じゃなくて、“きみの友だち”という風に一歩引いて友だちの関係性が客観視されているというか、相手に委ねられている感じが好きで。小説は、ギスギスしてしまった友だち同士の関係の原因や理由を紐解いていくような物語。この人やあの人には、こんな良い面があったり、あんな悪い面があったりってことをいろんな角度から描いていくというか。要は“友だちって何?”ってお話だね。章によって主人公が変わってクラスで目立たないタイプの男子や女子が主役になったりするのも良くて」
“So I’m Your Friend”という言葉が出てくる前に、Chaos On Paradeとして制作した楽曲が先にあったという。
「まず、Chaos On Paradeって俺がやっているグループの“GOOD FELLOWS”っていう曲が先にあった。BLYYの元メンバーのCHAKLIKIがビートを作って送ってくれたんだけど、そのデータにすでに“GOOD FELLOWS”ってファイル名が付いていて。それでそのテーマでそれぞれのラッパーが自分のヴァースを書いたんだけど、しっくりくるフックがなかなか思いつかなくて。で、ライヴのリハの時に俺が“そう! 俺はきみの友だち”ってくり返すフックを提案した。曲の内容と合っているしシンプルで良いってことで採用された。ちょうど東日本大震災があった2011年だったからせめて友だち同士では手を繋ごう、みたいな意味も込めて。だからまずは曲から始まっていて、Tシャツを作る時に“So I’m Your Friend”って英訳したわけ。Tシャツのあとにスウェットも作って、PUNPEEのライヴ会場でエナリに売り子やってもらったりして、ありがたいことに俺らにしてはまあまあ売れたなあ」
「俺は友だちとしか基本付き合わないから」と言う原島だが、自身を客観的に見ると、どんな“友だち”なのだろうか。
「う~ん……、一緒に飲んだり遊んだりしている相手からすると、その時は最高に楽しいけど、家に着いて一人になった時とか翌朝、すげえカネを使っちゃった上に酷い二日酔いだったりして、予定なんて飛ばした日には一体自分は何をしているんだろうって落ち込んでバッドに入っちゃうじゃん。でも、また欲しくなっちゃうというか一緒に遊びたくなっちゃう、世の中にそういう悪いものってありますよね?(意味深)これは自己分析というか周りに言われたりもして納得したやつなんだけど。悪いことというか、中毒性があるって意味でね。この歳になって時間もヒマもあるヤツって珍しいし、一緒に酒飲んでいて楽しいっていうのはあるんじゃない? そうじゃなきゃライヴDJとかも頼まれないと思うし」
横にも縦にも柔軟に関係を持ち、特に東京のインディ・ミュージック、あるいはヒップホップの、ある局地的な世界に深く食い込みながら、全国各地の点と点を線で結んでいっているように見える原島の活動だが、彼はどのレーベルにもクルーにも所属していない。そこがまた彼のユニークなところでもあろう。
「俺は〈Down North Camp〉にも〈Summit〉にも〈ブルテン(VLUTENT RECORDS)〉にも所属していないけど、全員じゃないがそれぞれのクルーやレーベルの人たち、あとMETEORとかとも仲が良いしそれで十分なんじゃないかなって思う。俺は自然と一緒にいられる関係が好きだし、形式めいたものや枠組みがあまり得意じゃないから。もちろんそういうクルーやレーベルのあり方が良くないとかそういう意味ではなくて、俺が性格的にルールとかが苦手だし協調性もないから。あと、俺は礼儀を重んじたいとは思うのだけど、関係によっては年上にタメ口きいちゃったりする時もあるし、クルーとかレーベルに属したら他の人に迷惑かけてしまうかもだし。ただ、Bボーイもパンクスも人に媚びないっていうのは共通しているのかなと思う。虚勢を張るとか人に頭を下げないとかではなく、年齢の上下かかわらずお互いに敬意を持てる人と一緒に時間を過ごしたい。仲良くなった年上にタメ口きくのと年下に敬語を使うのは、態度としては違うけれど俺のロジックではあまり変わらなくて。つまり相手と同じ言葉でしゃべるってことで。短い人生どうせ一緒に過ごすならば、友だちと仲良くやりたいよね。ホントただそれだけ」
そう言い置いて、原島“ど真ん中”宙芳は缶ビール片手に友だちと町に遊びにくり出すのであった。