ストリートに根ざした骨太な作風と、精緻な筆致で知られる画家オオシロムネユミ。長らく欧米を拠点に活動してきたが、2020年からは日本の〈LD&K Agency〉の所属となり、東京を拠点に精力的に作品を発表している。これまでメディアの取材等をほとんど受けてこなかったため、その生い立ちや人となりは謎に包まれていた。
今回、彼の作品が常設中の渋谷の道玄坂カフェでインタビューを実施。あのパンキッシュな作風がどのように確立されていったのか。納得のエピソードの数々が飛び出した。
INTERVIEW:オオシロムネユミ
「怒り」「反乱」「混沌」のエネルギーに満ちた少年時代
──これまでメディア露出をほとんどしてこなかった理由を教えていただけますか?
なんとなく、顔出ししてないほうがかっこいいかなって思っていたんですよね(笑)。あとは、社会的なメッセージが強い作品を鑑賞してもらう上で、作者のパーソナリティは邪魔になるんじゃないかと思っていたんです。僕の顔や人柄が見えていることが、作品そのものに集中してもらうことを妨げるノイズになってしまうんじゃないかと。
でも、今はどうでもいいかなって。僕は海外での活動が長くて、日本ではどこかに所属したことが今までなく、〈LD&K Agency〉が初めてです。所属してから社長やマネージャーに「顔出していけよ」って言われて、まあいいかと。
──なるほど。では、まずはオオシロさんの生い立ちからお聞きしていいですか。
生まれは沖縄ですが、その後すぐ東京にきて、中学までは神田あたりにいました。中学校に入った後からはずっと海外で。10代20代は海外で過ごして30歳を過ぎてから日本に帰ってきたんです。
──海外には1人で渡ったんですか?
そうです。中学を卒業するかしないかくらいのタイミングで一般社会的には行き場所を失い、色々な環境から高校進学を逃し、施設を出たところで、行く場所を失っていたんですね。そしたら、両親がいきなりオーストラリア行きのチケットを渡してきて、数週間後には現地にいました。まったく右も左もわからないし英語も話せない状態で行ったんですけど、すぐに強制送還されました。
──それはなぜ……?
違法なものを栽培してしまったんですね。たくさん育ってしまって、売っていたのでアウトでした。未成年なんで逮捕はされないけど、強制送還はされましたね。
──たくさん育てていたのはそれが食い扶持になっていたから?
うーん、というよりは自分ではどうしようもできないくらい売るほどたくさんあったからですね。特に販売目的でやったわけではなく。そうなってしまった……。アボリジナルの人たちに譲ってもらったのがきっかけで、興味本意で育て始めただけでした。
──なるほど。いきなりアウトローなエピソードですが(笑)。今振り返ってみて、少年時代の自分はどんなことを考えていたのだと思いますか。
不良だったつもりはなくて、勉強もスポーツも好きだった。でも、とにかく先生にはずっと盾を突いていました。今思うと、不満を感じるような環境にいたわけじゃないんですが、きっと目立ちたかったんでしょうね。中学に入っても先生への反抗心は強くあって、そうしてるうちに、悪い環境にもなっていって。
特に理由はないのに、怒りだけが漠然とありましたね。なにか気に食わないことをする先生がいると、それに対する不満や疑念が「大人」という全体に向く。そうして「大人ってダメだ」という怒りになる。かっこつけたかったのかな。でも、そういう怒りからくるエネルギーが作品作りの原点になっているのは、間違いなく昔も今も同じだと思います。
アメリカのアートスクールでの挫折
オリジナリティの重要性
──オオシロさんの作風をかたちづくる上で影響を受けてきたものは何ですか?
音楽から影響を受けることが多いかな。中学生くらいからパンクが好きで、セックス・ピストルズ(Sex Pistols)やクラッシュ(The Clash)、ダムド(The Damned)とかはずっと聴いてきたんですけど、1番影響を受けた作品というとレディオヘッド(Radiohead)の『OK Computer』。自分にとっては聴いたことのないサウンドで、とにかく新鮮だった。それまでテクノとかも聴いていたけれど、そういうものとも違う、どこかオーケストラみたいな印象を持って聴いていた気がする。
──アートよりも音楽から受けた影響のほうが大きいですか?
アートからの影響はほとんどないんですよ。もちろんかっこいいと思うアーティストはいるし、美術館もたまに行きます。でも、今生きているアーティストの作品に興味がなくて。同じ時代に生きている人の作品って刺激が強いから、避けてるのかもしれない。刺激を受けるより与えたいと思うから。
──現存のアーティストでチェックしている人は全くいないですか?
うーん、バンクシーは売れる前から尊敬していました。
──バンクシーのどこに惹かれたんでしょうか?
社会的なメッセージの部分ですね。技術とかではなく、社会に対する姿勢だったり、メッセージを伝えるためのアイデアの部分。
──なるほど。先程のオーストラリアからの強制送還の話の続きを聞いてもいいですか。
成田空港に到着して、父親に「なにやっとんじゃ」ってボコボコに殴られました。それで、これからどうしようかなって考えたときに、たまたまお金を持っていたんですね。その金でアメリカ行くことにして、数週間後に渡米しました。アメリカでは高校に入って、卒業したらそのままアートスクールに入りました。
絵には自信があったので、楽勝だろうと思っていたんですけど入ってすぐ挫折しました。天才ばっかりで、もう完璧な挫折。周りとの実力差があまりに悔しくて、誰にも話しかけられたくないし話しかけたくない。そう思って、誰かが「お前の絵いいね」って話しかけてくるまで誰とも話さないぞって決めたら、本当に2年半誰とも話さないままで(笑)。3年生になってやっと話しかけてもらって、自信がついてきた感じでしたね。
──入学して感じたその差というのは、技術的なものだったんですか。それともセンスですか。
両方なんですけど、技術やセンスに加えて、何か自分の武器を持たないといけないことを痛感したんですね。技術だけだったら日本のレベルってそれなりに高いし、負けてない。だけど、オリジナリティを持つこと、つまり自分の持っている技術をどこまで壊すことができるかってことは、日本人が苦手とすることですよね。アートスクールの教授やクラスメートからもそこはすごく言われた。技術も大事だけど、とにかくオリジナリティを持つことが大事だと。
それで、自分のオリジナリティってなんだ、ということを突き詰めていって辿り着いたのが自分の感情だったんですね。技術的なオリジナリティではなく、自分のなかに渦巻いている感情だった。
──感情を表現する手段として、絵が最適だった?
いや、本当の夢はミュージシャンでしたから、音楽でもよかったはず。だけど、絵を描くのが面白くて止まらなかったから。本当はバンドを組みたいのに、1人でやることが向いてたんだと思います。気がついたらそれで食ってたって感じですね。
──アメリカで表現を磨いていくなかで、自分のなかにある日本人的な感性に気づくことはありましたか。
そうですね。僕は絵の中にギミック的にメッセージを入れるんですが、そういったメッセージをストレートにではなく、あえて隠して表現するという手段をとるのは日本人的だと思います。すべてをさらけ出さないわかりにくさっていうのは、日本人らしい美学。ストレートにさらけ出すアメリカ的な美学は、自分にとっては美しくない。
──なるほど。そのメッセージが社会的なものを含むとき、それを受け止めることに日本人はまだ不慣れなところがある気がしています。近年、アーティストの間でも社会的な意識が高まって、そういった表現や発信に積極的になる人が増えたと思うのですが、慣れていないゆえに発信側も受け取る側もそのメッセージに対して過剰に反応してしまう場面は見受けられますよね。その点、オオシロさんは社会に対して良い塩梅の距離感でメッセージを投げかけているように見えます。
過剰反応の話はよくわかります。僕の作品は、表面はアカデミックなものにして、土台の部分にメッセージを仕込む。読み解いてみるとわかるようにしていることがほとんどなので、説明をしないと伝わらないこともある。誤解されることもあるけど、それはそれで面白いと思える。批判されるのも嬉しいと思ってやってますね。
──メッセージを隠している、という反面で、オオシロさんの作品に抱く印象としてやはり反体制的な雰囲気を感じとる人は多いです。
そこはあまり意識していないつもりです。ロックな印象を持ってもらえるように、とかは全く考えてない。むしろ、絵の題材や表現しようとしている感情が過激であればあるほど、かわいいモチーフを選んだりすることのほうが多いかな。そういう裏腹なことをする気質も日本人的だなと思いますよ。
憧れのロンドンでギャラリーと対立
そして日本での活動へ
──アートスクールを卒業してからはロンドンに拠点を移したとか。
在学中に所属するギャラリーが決まって、それがロンドンだったんです。憧れていた街で個展ができるのは嬉しかったですね。面白かったのが、アメリカで売れた作品はアメリカ国内にそのまま留まるんですけど、ロンドンで売れた絵は世界中に散らばっていった。ロシアだったりアフリカだったり。それは不思議な感覚でした。
──アメリカでの修行時代はオリジナリティを磨く期間だったわけですが、ロンドンの時代はどうだったのでしょうか。
アーティストとして社会で生きるジレンマを感じた時期だったと思います。最初の数年は自分の描きたい絵を描いて出して売れて、というサイクルだったんですが、定着してくると顧客から「こんな絵を描いて」と言われてそれに従って描く必要が出てくる。
ある程度従ってやっていたわけですが、これってアートじゃなくてデザインではないか? と思うようになって。そのあり方はどうしても受け入れられなくて、結局ギャラリーと対立して日本に帰ってきちゃった。売れるものだったらなんでもいいのだろうか。そういう、需要に応えるみたいなやり方は、描く方も買う方も、絵に対して失礼なことをしているんじゃないかと思うんですね。
──なるほど。しかし、アートに対する人々の理解という点では、ロンドンより日本の方が乏しいのではないでしょうか。
そうですね。でも、だからこそ日本でやりたいのかもしれないです。とにかく常に反乱していたいから(笑)。反骨とかじゃなくて、ただただ反乱していたいんですよ(笑)。
もちろん今も企業からの案件をやることは多いわけですが、最近はそういった案件で作るものにも、満足いくかたちで感情をしっかり込められるようになった。だから楽しいですよ。むしろ、そういうものに過激なものを忍ばせる面白さってあると思ってます。
──オオシロさんが日本で行ったプロジェクトだと、渋谷の街中に作品を展示した『路上』がありますね。
自分は路上で生きてきた人間だと思っているので、なにかストリートを使ったものにしたかったんですね。僕の絵を半年間、渋谷の街中に置いたら、落書きされたり破られたりして面白くなるんじゃないかと。
ひとつの絵が生まれて、1回死んで再び再生するというその様子をプロジェクトとして見せたかったんですが、結局誰も落書きもいたずらもせず、綺麗なままで(笑)。だから自ら壊しました。作品の経過を世の中に見せた結果、何も起こらず、結局自分で壊すというそれ自体が自分っぽいなとは思います。
──世間に投げかけたことに対して反応がなく、それによって怒りが生まれる、ということでしょうか。
そういうことですね。結果として、1番自分らしい作品になったのかもしれない。
──オオシロさんの作品は、いろいろな時代、国籍の著名人がモチーフのものが多いですが、どういった基準で選ばれているのでしょうか。
僕は多分、人がすごく好きで、同時に嫌いなんです。『路上』のように、人に期待しすぎるからがっかりして、嫌いになる。だから人の絵ばかり描いているんだと思います。モチーフを選ぶ基準は、憧れている人で、かつ人として一般社会的にダメと言われるような人ですね。本当は人としての欲望とか、怒りとか汚いとされてる部分が自然と出てきてしまっている人です。
──今はアーティストにも品行方正さが求められるというか、社会規範を守った振る舞いが求められる風潮が強まっていますが、それについて何か思うことはありますか。
どちらでもいいと思ってます。アートって時代とすごく密接なものなので、いつの時代も時代に合った作品が出てくる。それが後世に残るものなのかは誰もわからない。そういう風潮と折り合いがつけられて。自分が納得してできているなら問題ないと思います。
僕の場合は、そもそもそういうことをほとんど考えない。破天荒であれとも思わないし。自然体でいたい。でもそういうジレンマで悩むことはすごく大切だと思う。悩んだ結果自分がどちらに振れるのかは自分もオーディエンスも目を凝らす必要があるし、そしてそこからどこに進んでいくのかが重要。そういう期待ありきでいたい。人に対しては期待しかしていないんですよ。否定的な表現ばかりしているのは、期待の裏返しなんだと思います。
──その期待はどこから来るものなんでしょうか?
幼少期や海外生活での経験からですね。例えば、自分が受けた人種差別に対しても解決できた成功体験がある。
──それはどうやって解決してきたんですか?
基本はとにかく叛骨、叛乱することです。ロンドンの飲み屋で僕のことを差別してきた人には、個展のDMを大量に送り続けました。そしたら、個展に来てくれて。「お前、画家だったのか」って、酒奢ってくれて。「俺が画家だからって態度変えるなよ。アジア人を差別すんなよ」って言ったら「わかったよ」って。
──なるほど(笑)。ありがとうございます。今後はどのような活動をしていく予定ですか。
最近は映像もやっていて、ミュージックビデオを何本か作っています。映像作品は継続していくつもりで、画家視点のものを撮っていきたいですね。新しいやりがいも感じていますが、基本的には絵を描き続ける事は変わらず、日常生活として、続けたいというよりも、続いていくのだと思っています。
Text:Kunihiro Miki
Photo:Maho Korogi