1858年、伊ボローニャのユダヤ人街で暮らす6歳のエドガルド・モルターラ(Edgardo Mortara)は、突然、ローマ教皇庁によって家族から無理矢理引き離された。当時、ボローニャはカトリック教会のローマ教皇が君主の役割を担う教皇領に属し、教皇ピウス9世がそこに住む人々の生活を支配する力を持っていた。カトリックの掟が厳格に適用され、キリスト教徒の子どもはユダヤ人の中で暮らすことはできなかった時代である。エドガルドは赤子の頃、病に臥(ふ)す中でカトリック教徒の家政婦から秘密裏に緊急洗礼を受けていたため、キリスト教徒と見なされ、教会のもとへいきなり連れて行かれたのだ。
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』は、スティーヴン・スピルバーグも映画化を望んだ(結局、その企画は断念された)ことでも知られる衝撃的な誘拐事件とその余波を描いたものである。イタリアの政治と犯罪の歴史に着目し続ける名匠マルコ・ベロッキオ(Marco Bellocchio)が手がけ、ロマン派やバロック派を彷彿とさせる明暗が強調された絵画的な撮影、そしてメロドラマ調の大仰な音楽とともに、激動の歴史の転換期、組織の権力に翻弄される無力な個人と家族の物語をオペラのような壮大さで描いた。本作品は第76回カンヌ国際映画祭コンペティションに選出され、イタリア最古の映画賞であるナストロ・ダルジェント賞では作品賞をはじめ7部門を受賞した。
この作品の中で、1939年生まれのベロッキオは、誘拐された後に家族のもとへ戻るのではなく、教皇を生涯崇拝して神父になったエドガルド・モルターラの複雑で謎めいた人生を不条理な政治的寓話として語る。ユダヤ人として生まれてキリスト教徒になった少年が、十字架に架けられたイエス・キリストを釘から解放する場面をファンタジックに示すように、彼が直面する苦難に同情を寄せながら、現代に通じる宗教的原理主義や偽善、反ユダヤ主義への批判、そして権力の乱用と暴力性を問うものである。今回のインタビューでは過去のマルコ・ベロッキオ作品に通底するテーマを探りつつ、ドラマチックな歴史を巨大なスケールの中で描いたその意図に迫った。
INTERVIEW
Marco Bellocchio
──1978年に起こったアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件を扱った『夜よ、こんにちは』(2003年)と『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』(2022年)に続いて、誘拐という暴力を描いています。なぜ誘拐というテーマに繰り返し惹かれるのでしょうか。
興味深い質問をありがとうございます。でも、何か目的があって意識的にその主題を選択しているわけではありません。考えてみれば、誘拐された人や牢獄に入れられた人は、ある意味閉鎖的な空間で自由を奪われて監禁された状況下で、自然と様々な感情が生成されます。そこからもたらされるイメージは、私にとって非常に魅力的なものです。幸いなことに、私自身に刑務所の経験はありませんが、そのような内なる牢獄の状態に興味があるのです。
『夜よ、こんにちは』と『夜の外側』では両方ともアルド・モーロを描いていますが、誘拐にあって閉鎖的な空間に閉じ込められたことで偉大な政治家の性格や思想に変化が生み出されます。彼の世界への把握や感受性、政治に対する見方や政党に対する見方、自身を誘拐したテロリストに対する見方が根本的に変容したのです。それまでとは考え方が転覆するぐらいの大きな変化を遂げるのであり、しかもそのような状況に置かれたことで、彼は以前には自分自身でも知らなかった、意識していなかった人間性を自らの内に発見していきます。
『エドガルド・モルターラ』では、突如、降って湧いたような災難でひとりの子どもが誘拐を受けてしまいます。彼は全く準備ができていない中で、両親のもとへ帰ることを許されない状況に適応しなければなりませんが、彼もまたそこで発露して生成されていく感情と向き合っていかなくてはいけない。『シチリアーノ 裏切りの美学』(2020年)では、マフィアの親玉ブシェッタは捕まって牢獄に収監されたとき、初めて司法取引をしようという心境に至ります。閉じ込められた空間での人々の思考や感情の動きに非常に興味があるのです。理性的に求めているわけではありませんが、なぜかいつも惹かれてしまいます。だから私は繰り返しそういった話を語り、書き、想像するのです。
──エドガルド・モルターラはストックホルム症候群の影響なのか、生き延びるために宗教を受け入れたのか謎めいています。ここで思い出されるのは、『マルクスは待ってくれる』(2022)であなた自身が「“生き延びる”は、この物語の重要なテーマのひとつだ」と語っていたことです。あなたの映画における「生き延びる」というテーマについて教えてください。
“生き延びる”という主題が、二つの映画の中に共通してあることに気づかれたのも、よく見てくださったと思います。なぜキリスト教徒になっても、そのままそうであり続けたのか。これはエドガルド・モルターラの謎です。当然、彼の家族やユダヤ人コミュニティからすれば、この改宗は強制改宗であるため、価値がなく、成立していないという論理が成り立ちます。しかしカトリック教徒の中の一部ではそうではない。リソルジメント(イタリア統一運動)でローマが解放され、そこで彼は一旦教会から家に戻る自由が与えられたにもかかわらず、カトリック教会の中に留まった。もともとはこの改宗は暴力によって強制されたものであったけれども、彼はその時点で教会の中で生きていこうという決意が芽生えたのかもしれない。そういった、人間の一筋縄ではいかない複雑な感情の相剋を描きたかったのです。
また、これは歴史的事実なのですが、エドガルド・モルターラはそのまま神父になった後も、家族や親族、兄弟とも良好な関係を生涯保ち続けました。家族と決別することはなかったのです。そこに“生き延びる”という生存の原則があると思います。これは『マルクスは待ってくる』の中でも描かれているのですが、例えば大家族の中で困窮していたり、物質的に何か欠乏していたりする中で生き延びていくということは、第一義として人間の中に生まれてくるものだと思いますが、私たちは家族内に存在する冷たさや愛の欠如を生き延びなければならなかった。『マルクスは待ってくる』の中では、私の双子の弟カミッロのことを語っていますが、より傷つきやすかった彼にとっては、生き延びるだけでは十分でなく、もっと別の何かを望み、より深い形で感情に関わること、愛を求めたが故に亡くなったのだと思います。
家族の個人的な経験から、私はこの生存の概念を受け入れました。エドガルド・モルターラもまた生き延びるためだけではなかったのかもしれない。人間には生き延びるために何が必要なのかというのは、この二つの映画に当てはまることだと思います。
──『夜の外側』ではローマ教皇が十字架の重みを耐えられず、持ち上げることができない場面がありました。本作でも教皇がユダヤ人から割礼を受ける幻覚を見ます。そのような象徴的なイメージとして、教皇権力の衰退を表現することに関心がありますか。
実は、その二つとも歴史的事実に即しています。教皇の権力は、私が子どもの頃のカトリック教会の権力と比べて、やはり現在に至るまで大きく弱体化してきていると思います。
今週(取材日3/27)の金曜日に聖金曜日(復活したキリストが十字架を背負って処刑場であるゴルゴタの丘に登って行ったとされる祝祭日)がちょうどありますが、『夜の外側』ではその儀式のときに、「病を患っていた教皇は体力がなく、十字架を支えきれずに力尽きてしまった」という史実に触れています。それは、象徴的に教皇庁やカトリック教会全体の弱体化を映像として表現しているのです。
本作でピウス9世が割礼される悪夢も、ある意味実際のニュースに即しています。アメリカでユダヤ人が主催しているある劇団がエドガルド・モルターラ誘拐事件を題材に、パロディとして喜劇を上演しました。それは誘拐後、ユダヤ人系のグループが教皇の寝室に押し入って、彼に割礼を施すという内容で、そのエピソードを聞いたことで、それが教皇の強迫観念となり、夢で見るようになっていったのです。そのこと自体が映画の中では、彼自身の権力を失うことに対する恐怖から来る弱さや脆さとして象徴的に描きました。その当時のピウス9世はカトリック教会全体の長であるとともに、教皇領の国家元首であり、国王でした。そのようにして、カトリック教会の力、そして大きな国王としての権力の衰退と退廃を象徴的に表現することが私は好きなのです。
──本作では宗教的原理主義やイデオロギー的狂信が描かれています。現在もまさに世界で宗教的不寛容が問題を引き起こしていますが、なぜいまこの事件を取り上げましたか。過去の出来事が現在へ何か教訓を与えることを期待されていた部分もありますでしょうか。
いえ、そのような目的があったわけではありません。しかし、たとえ過去のことであっても、物語自体がある種の深遠な真実を有していれば、現在何が起こっているか熟考を促し私たちの心をも動かすことができると、私は確かに信じています。
『エドガルド・モルターラ』は原理主義や宗教的紛争を描くことを意図したものではありませんでしたが、いま思い出すのは、イスラエルとパレスチナの戦争のことです。この映画の完成後に、いま起こっている恐ろしい戦争が始まりました。イタリアに暮らしていると、日本と同様に、現状、戦争自体は我が国で起こっているわけではありませんが、パレスチナの問題だけではなく、ウクライナの戦争も地理的に近いため身近に感じられます。
今日、宗教的不寛容の問題は、多くの人に深く関係しています。特にイスラム教では、宗教的原則の名の下に、非常に暴力的な行為さえも行われていると思います。そのような暴力的な発露はユダヤ教原理主義にもやはり見られますが、それが多数派なのか少数派なのかはわかりませんが、ひどく不寛容に思えます。一方で、そういうことを考えたときに、日本で宗教について尋ねると、日本では宗教や宗教心は存在しないと答えられますよね。宗教が人々の生活を大きく支配ないしは左右する国家が多くある中で、日本のような国は私にとっては非常に神秘的で、興味深く感じられます。
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』予告編
INFORMATION
エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命
4月26日(金)YEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町、T・ジョイPRINCE品川ほか公開
監督:マルコ・ベロッキオ 脚本:マルコ・ベロッキオ、スザンナ・ニッキャレッリ
製作:ベッペ・カスケット『シチリアーノ 裏切りの美学』、パオロ・デル・ブロッコ『ドッグマン』
出演:パオロ・ピエロボン、ファウスト・ルッソ・アレジ『シチリアーノ 裏切りの美学』、バルバラ・ロンキ『甘き人生』、エネア・サラ、レオナルド・マルテーゼ『蟻の王』
2023/イタリア、フランス、ドイツ/カラー/イタリア語/136分 配給:ファインフィルムズ
原題:Rapito 映倫:G
©IBC MOVIE / KAVAC FILM / AD VITAM PRODUCTION / MATCH FACTORY PRODUCTIONS(2023)