2月某日。都内の一角に用意されたのは、豪華なサウンドシステムでも、仰々しいステージでもなかった。手元のスマートフォンで再生ボタンが押されると、スピーカーから流れ出したのは、フリーが「ようやく時間と空間ができた」と語る、50年近いキャリアで初となる本格的なソロ・プロジェクト『HONORA』の音だ。 そこには、レッド・ホット・チリ・ペッパーズで見せる爆発的なエネルギーとはまた違う、柔らかく、それでいて剥き出しの体温が宿っていた。

「音楽がなければ、今の自分はなかったかもしれない」 ——そんな言葉を、彼は笑いながら口にした。
これまで影響を受けてきたすべての音楽、出会った人々、そして自分自身の血。そのすべてに「愛」があり、等しく「ソウル(魂)」が宿っているのだと彼は言う。世界的なロックスターという鎧を脱ぎ、ひとりの人間として、音楽という「救い」に真っ向から向き合ったフリー。あの親密な空間で、彼が自身の魂のありかを辿るように語った、いくつかの大切な言葉をここに記録する。

フリーが『HONORA』で辿り着いた、ソウルが宿る場所 NZS0013
本人が登場した『HONORA』リスニングパーティーの様子

トランペットと平穏
フリーにとって、世界はもともと「醜く、偽善に満ちた場所」だったという。そんな環境で手にしたトランペットは、彼にとって唯一、心に平和をもたらすものだった。周囲がどれほど混沌としていても、楽器を吹いている間だけは自分が自分らしくいられる。その「平穏」こそが、彼の音楽の原点にある。

長年のキャリアの中で、時には楽器を見たくないほど疲弊し、音楽と距離を置いた時期もあった。現在のパートナーと出会い、心身が落ち着きを取り戻したのは、そんな時期を経た後のことだ。静かな日常の中で、彼は再び「自分とは何か」を問い直すことになる。

「自分は完璧でも特別に善い人間でもない。けれど、悪い人間でもない」

そう語る彼は、マイルス・デイヴィスやクリフォード・ブラウンに少しでも近づけるかと自問しながら、今も一音一音と向き合っている。彼にとって、ジャズというジャンルへの挑戦はテクニックの誇示ではない。50年の旅を経て、もう一度あの頃の「平穏」を取り戻すための、極めて個人的な試みなのだ。

自由と制作
フリーの義父はジャズ・ミュージシャンだった。「ジャズこそが最高で、ロックはくだらない」と言われて育った彼は、その反発からロックの道へ進んだ。正規の音楽教育を受けていないこともあり、ジャズというジャンルに対しては、どこか躊躇や距離を感じていたという。

その意識を変えたのが、近年のロサンゼルスのジャズ・シーンだ。カマシ・ワシントンやジェフ・パーカーといったアーティストたちは、理論に縛られず、ジャンルを横断しながらオープンに表現する。その姿勢に感化されると同時に、彼らの音楽からは現状を突破しようとする闘争心を受け取った。「一時期のジャズにあった、理論ばかりの頭でっかちな感じが好きではなかった。でも今の彼らを見て、見方が変わった」と彼は振り返る。
カマシたちと実際に関わっていく中でわかったのは、彼らがジャズ至上主義ではなく、互いにすべてをさらけ出せる人たちだということ。

今回のアルバムのメンバーについても、言葉はシンプルだ。ウッドベースにアンナ・バターズを起用したのは「彼女の演奏が好きだから」。トム・ヨークとの共作曲については、当初歌を入れる予定はなかったが、デモを聴いたときに自然と彼の顔が浮かんだ。「友人であり、家族でもある」——そう言い切れる関係だから、声をかけた。

彼にとってのジャズは、もはや敬遠していた「理論」ではなく、気心の知れた仲間と鳴らす「自由な対話」へと形を変えている。

家族と日常
アルバムタイトルに冠した『HONORA』は、二世代前の祖母の名に由来する。出演したテレビ番組を通じて知ったという彼女の半生は、アイルランドでの貧困、オーストラリアへの移住、そして闇市で酒を売りながら生き抜くという、壮絶なものだった。フリーは、その凄惨とも言える家族の歴史を、自身のルーツとして淡々と受け入れている。
今の彼の生活は、驚くほどシンプルに整理されている。朝起きて祈り、練習し、食事を摂り、家族と過ごす。読書や映画を楽しみ、時には邪魔になるというスマートフォンを意識的に遠ざける。多感な自分をいかに簡素に保ち、音楽に反映させるか。それだけを意識しているという。
かつては結婚に対して否定的だった価値観も、現在のパートナーとの出会いを経て変化した。「幼い頃の自分が見たら、よくやったと思うだろう」と笑う姿には、力みがない。
彼にとっての「ソウル」とは、特別な瞬間にあるものではない。過酷な先祖の歴史も、朝の祈りも、仲間と鳴らす一音も、すべて地続きだ。その日常の延長線上に、今回のアルバムは置かれている。

フリーが『HONORA』で辿り着いた、ソウルが宿る場所 Flea-by-Gus-Van-Sant-0364

友人の家のリビングでくつろぐような、親密な空気の中で響いた楽曲たちは、めまぐるしく表情を変えながら私たちをいくつもの鮮やかな場所へと連れて行ってくれた。それは、共に走ったり、踊ったり、時に寝転んだりするように、フリーと一緒に音の中で遊んでいるような心地よい体験だった。

そこから溢れ出していたのは、信頼するメンバーたちと音を交わす喜びだ。彼が教えてくれたのは、音楽とは知識や理屈ではなく、「人が楽しく音を鳴らすこと」そのものなのだという、シンプルで力強い真理だった。

『HONORA』を聴くとき、そこにはフリーというひとりの人間の魂がある。理論でも肩書きでもなく、50年かけて辿り着いた、彼自身のソウルのありか。耳を傾ければ、その感覚に触れることができるはずだ。