眉を八の字に寄せ、目を薄く閉じたまま、口を一文字に結んで鍵盤に指を置く。リズムに合わせて体を揺らすたび、額にかかった白い前髪がかすかに揺れる──目の前に現れるのは、ピアノを弾く坂本龍一の、あの懐かしい表情。こんなに近くで見つめていてもいいのだろうか。鑑賞中、僕は何度もそう感じていた。

大阪・VS.(ヴイエス)で開催中の<RYUICHI SAKAMOTO & TIN DRUM KAGAMI+>は、坂本のピアノ演奏を立体映像と音響で体験する《KAGAMI》を中心とした展覧会。生前に収録された演奏を、現実の空間に映像を重ねるMR(複合現実)によって三次元で再現する。
演出家トッド・エッカート率いる制作集団Tin Drumが坂本と共同で制作した《KAGAMI》は、2023年にニューヨークのThe Shedで世界初演された。その後、ロンドンやマンチェスター、台北、メルボルンなど世界各地を巡り、日本では大阪に上陸。高谷史郎とのインスタレーション作品、自動演奏ピアノ、オープンリールによるリスニング展示も加わり、坂本の音楽にさまざまな角度から触れる構成となっている。
トッドが坂本に《KAGAMI》の企画を持ちかけたのは2019年。坂本が参加を決めるきっかけとなったのは、まだこの世に生まれていない未来の人々と、坂本との関係をつくるという構想だった。
収録に際し、制作側は当初、キーボードでの演奏を想定した。グランドピアノでは、本体がカメラの視界を遮り、坂本の表情や動きを捉えにくくなるためだ。しかし坂本は、あくまでもグランドピアノにこだわった。未来に残す作品だからこそ、自身にとって「あらゆる創作の原点」である楽器で演奏したいと伝えたという。

©2026 Tin Drum / KAB Inc. / commmons / VS. / WOWOW
撮影:浅野豪
会場で《KAGAMI》を体験する際、私たちは専用のデバイスを装着する。眼鏡をかけている人には、レンズのフィッティングも行われていた。円柱状の装置を首から下げ、眼鏡型のスコープをかける。よくあるVRスコープと違い、耳はふさがれず、周囲の空間も視界にぼんやりと残ったままだ。
白く広い空間を囲むように並べられた椅子に座っていると、やがて場内が暗くなり、中央にグランドピアノと、それに向かう坂本の姿が浮かび上がる。正直なところ、最初その姿が少し小さく見えたり、動きがわずかにぎこちなく感じられたりもした。だが、表情や体の揺れを目で追いながら聴くうちに、そうした違和感は薄れ、本当にその場で坂本が演奏しているように思えてくる。
三次元の映像の中で、ただ一人、グランドピアノに向かい、「Energy Flow」や「Merry Christmas, Mr. Lawrence」「The Last Emperor」「美貌の青空」などの聴き慣れた旋律を奏でる坂本の姿は、2022年12月11日に配信された<Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022>を彷彿とさせる。あのとき画面越しに見ていた演奏を、今度はすぐそばで聴いているようだった。

《KAGAMI》の収録が行われたのは、その2年前の2020年12月。坂本は著書『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』で、撮影直前のピアノ生配信を「前哨戦」と振り返っている。人に見られる形で弾かなければ演奏の精度が上がらないという持論から、先に決まっていたMR撮影に向けて配信公演を組んだという。
「MRは未来永劫残るものなので、生半可な演奏はできません。」
病状について厳しい告知を受けた直後、12月14日から16日にかけての撮影に臨んだ坂本は、そう記している。
その演奏に、私たち鑑賞者は自ら位置を変えながら向き合うことができる。席を立って背後へ回れば、坂本の背中越しに鍵盤を弾く指の動きを追える。正面から表情を見つめ、横に回ってその姿を眺める。通常のコンサートでは得がたい距離と角度から、演奏の細部に触れられるのだ。

この実在感を支える音響を手がけたのは、エンジニアのZAK。会場上部のスピーカーから届いているはずの音が、聴いているうちに、目の前のピアノそのものから響いているように感じられる。収録時のマイキングから会場の音響設計までを担当したZAKは、映像と音が補い合うことで、ピアノから音が聞こえるような音響を目指したという。
光と映像も、演奏にさまざまな表情を添える。木漏れ日や月明かりを思わせる光、コンサートホールのスポットライトのような照明。桜が舞い、無数の雨粒が時間を止めたかのように宙に浮かび、光の筋が幾何学模様を描く。随所に視覚的な楽しさがあり、音楽のアトラクションにも通じる親しみやすさも感じた。

会場にはMR以外の作品も展示されている。《Playing the Piano 2026 – D》では、坂本が愛用したグランドピアノが、本人の演奏データによって音楽を奏でる。誰も座っていない椅子の前で鍵盤が動くのを見ていると、先ほどまで見つめていた坂本が、そこに腰掛けているような気がしてくる。
一方、《Musics – open reel listening room》では、オープンリールのアナログテープでアルバム『音楽図鑑』や『CHASM』『エスペラント』などの収録曲が再生される。温かく、太く、それでいて立体的な響き。ライブとはまた違う、録音された音の重なりや質感を感じられる。


左:Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2026 – D
右:Ryuichi Sakamoto: Musics – open reel listening room
©2026 Tin Drum / KAB Inc. / commmons / VS. / WOWOW
撮影:浅野豪
そして、高谷史郎との《TIME, TIME》は、2021年初演のシアターピース『TIME』を基に、2024年に制作されたインスタレーション。水と三面の映像による空間に、夏目漱石『夢十夜』の言葉を含む田中泯の朗読や、宮田まゆみの笙の演奏が響く。

坂本龍一 + 高谷史郎《TIME, TIME》2024年
©2026 Tin Drum / KAB Inc. / commmons / VS. / WOWOW
撮影:浅野豪
演奏する身体、実際に鳴るピアノ、録音された音楽、映像とともに広がる音。そのなかでも鮮明に記憶に残ったのは、やはりMR空間に刻まれた坂本の姿、表情だった。
「現実の中にヴァーチャルな僕がいる。
ヴァーチャルな僕は歳をとらずに、何年、何十年、何百年とピアノを弾き続ける。
その時人類はいるだろうか?」
(坂本龍一本人によるコメントから抜粋)
生前の坂本を知らない世代も、いつかこの空間で、鍵盤に向かう姿を間近に見つめるのだろう。2020年に収録された演奏が、その人にとっては坂本との初めての出会いになる。あの表情も、体の揺れも、鍵盤を弾く指の動きも、懐かしさとは違う感情で受け止められる。その出会いの距離を、まだ生まれていない誰かと、すでに共有しているのかもしれない。
Text by 黒田隆憲
EVENT INFORMATION

RYUICHI SAKAMOTO & TIN DRUM KAGAMI+
| 会期 | 2026年6月27日(土)~10月12日(月・祝) |
|---|---|
| 開館時間 | 10:00~20:00(日時指定制) |
| 休館日 | 月曜日(祝日、連休の場合は祝日明け平日) |
| 会場 | VS.(ヴイエス) 〒530-0011 大阪府大阪市北区大深町6-86 グラングリーン大阪 うめきた公園 ノースパーク VS. |
| 料金 |
RED TICKET(日時指定券・来場者限定特典付き)
価格:15,000円 「KAGAMI(MRコンテンツ)」(約60分):座席あり(全席自由) ※待機・準備時間が含まれます。 ※来場者限定特典7インチ・アナログレコード付き BLUE TICKET(日時指定券)
一般 4,500円/学生 2,500円 「KAGAMI(MRコンテンツ)」体験版(約30分):オールスタンディング ※待機・準備時間が含まれます。 |
| 主催 | Tin Drum / KAB Inc. / commmons / VS. / WOWOW |
| 特別協賛 | 株式会社デジタルガレージ、食べログ |
| 協賛 | 株式会社ニューバランス ジャパン、京都芸術大学、株式会社ホットスタッフ・プロモーション 、株式会社ジーベックス、ソニー株式会社、SUNTORY WHISKY 碧Ao、109シネマズプレミアム新宿 プレミアムピュアサウンドシステム「SAION」、株式会社りそな銀行、積水ハウス株式会社、サンライズプロモーション、ANA DUTY FREE SHOP(全日空商事デューティーフリー株式会社)、ANA FESTA(ANA FESTA株式会社)、ANAショッピング A-style(全日空商事株式会社)、mPOS(ANA Digital Gate 株式会社) |
| 協力 | ウシオライティング株式会社、d&b audiotechnik、株式会社タケナカ、株式会社プロマックス、株式会社ヤマハミュージックジャパン、一般社団法人ナレッジキャピタル、ADAM ET ROPÉ、東海旅客鉄道株式会社、関西エアポート株式会社、PRG JAPAN、MBSテレビ、ABCテレビ、関西テレビ放送、読売テレビ |
| 後援 | FM COCOLO |
| 制作協力 | ダムタイプオフィス、アルサフィクス、株式会社イースタンサウンドファクトリー、株式会社ヤマハ、KAB America inc.、電音エンジニアリング株式会社、株式会社 流、株式会社クリエイティブ ユニバース |
| 会場施工 | 871 DESIGN INC.、株式会社ゴードー |
| 広報協力 | 保持壮太郎(つづく)、伊藤総研株式会社、合同会社itskn |
| 広報 | commmons、VS.共同事業体、2nd Effort Produce inc.、サンライズプロモーション |
| ビジュアルデザイン・アートディレクション | GOO CHOKI PAR |