TBWA\HAKUHODOが主催する、社外の実践者(Disruptor)とのオープンな対話の場<Disruption Lounge>。第6回「最短と最探」と同日に開催された第7回のセッション「BeケアFULL!〜すべての人がケアしあう社会へ。」では、ケアを専門家だけのものから、誰もが担い合うものへとひらいていくためのトークが繰り広げられた。

職場、家庭、SNS。相手や場面に応じて”顔”を切り替えることは、いまや誰もが自然にこなす日常の作法だ。場面が細かく分かれ続けたいま、その顔は、場をやり過ごすための薄い仮面へと変わり始めている。

使い分けるほど多くの関係を持たなかった時代、人は良くも悪くも丸ごとの自分を見せ合い、そこには名前のつかない「ケア」が溶け込んでいた。そのケアもいまや専門家が担うサービスとなり、関係は「提供する側」と「受け取る側」に整理された。顔の数は増えても、ありのままの自分を引き出してくれる場所は減っている。本来、誰もが対等に、ケアし、ケアされる存在だったはずなのに。

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REPORT:<Disruption Lounge>
「BeケアFULL!〜すべての人がケアしあう社会へ。」

本セッションには、老舗スナックを承継し、東京・国立で「スナック水中」を営む株式会社水中 代表取締役の坂根千里氏、グループ・ダイナミックスを専門に、京都で地域のケアをめぐるアクションリサーチを続ける関西医科大学 看護学部・看護学研究科 教授の鮫島輝美氏、介護現場の課題をテクノロジーで解決する「GENBA SMILE Lab」の所長を務める株式会社ニチイ学館 人財開発事業本部長の松本裕美子氏が登壇。本テーマを発案したTBWA\HAKUHODO Senior Creative Directorの鈴木賢史郎氏がモデレーターを務めた。それぞれの現場の実践から、ありのままの自分でいられ、互いにケアし合える場所のつくり方を探った。

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左から:鈴木賢史郎氏、坂根千里氏、松本裕美子氏、鮫島輝美氏

ケアしに行ったはずが、ケアされていた

今回のセッションのテーマは、あるラジオから生まれた。会場の壇上に置かれた一台の古めかしいラジオ。モデレーターの鈴木氏がつまみを回すと、スピーカーから流れてきたのは、1951年の「今日」のニュースだった。中日ドラゴンズが、名古屋ドラゴンズに改称したという。

TBWA\HAKUHODOが開発した「RADIO TIME MACHINE」は、現在から過去へとさかのぼれる新しいラジオだ。1950〜60年代のラジオを思わせる筐体には、周波数の代わりに西暦が刻まれたダイヤルがついており、そのダイヤルを1950年から2025年までの好きな年に合わせると、その年の「今日」のニュースが、当時のヒット曲とともに流れてくる。ニュースはAIによって毎日自動生成される仕組みだ。2026年3月からは、ニチイ学館の介護施設で試験導入が始まっている。

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RADIO TIME MACHINEの実証のため、施設へ通っていた鈴木氏は、その日々のなかで得たひとつの気づきについて語った。

見知らぬ人がいきなり得体の知れない機械を使うよう勧めても、入居者は身構えてしまう。そう考えた彼は、まず打ち解けることから始めようと、自分にできることはないかとスタッフに尋ねると、返ってきたのは「話を聞いてあげてください」という答えだったという。以来、特技の似顔絵を描きながら入居者の話に耳を傾けるようになった。それは、あくまで入居者のための時間のつもりだった。

「でも、仕事でいろいろ言われて、へこんだまま施設に行った日があったんです。1時間ほど話を聞いて帰るころには、言われたことも忘れて、上を向いて歩いていました。ケアをしに行っていたはずが、逆にケアをしてもらっていたんですよね」

そう語る彼の言葉に、身に覚えのある人も多いはずだ。誰かの相談に乗っていたはずが、話し終えるころには自分の気持ちのほうが軽くなっていた。私たちはケアを、する側からされる側へと一方向に流れるものだと捉えがちだ。けれど彼の体験が示しているのは、ケアが本来、双方向に行き交うものだということだ。「支える側」と「支えられる側」という役割を離れ、ただ話し、聞き合う者同士として向き合ったとき、ケアはどちらか一方のものではなくなる。

それは、ケアを専門職だけに委ねてはいられない社会の現実とも重なる。総務省の推計によれば、日本の総人口に占める65歳以上の割合は、2025年9月時点で29.4%と過去最高を更新した。ケアを必要とする人が増え続ける一方で、介護の現場は慢性的な人手不足を抱えている。ケアを「提供されるサービス」としてのみ捉えるかぎり、担い手はいつまでも足りないままだ。誰もが自分なりのかたちでケアし合う社会を、どうつくるか。鈴木氏の小さな体験から生まれたその問いを、3人の登壇者がそれぞれの現場から掘り下げていった。

「介護される人」以外の顔を取り戻す

そもそも、なぜラジオだったのか。RADIO TIME MACHINEを介護の現場に持ち込んだ松本氏は、その背景に、現場が抱える切実な事情があると話す。

彼女が所長を務める「GENBA SMILE Lab」は、人手不足に悩む介護の現場をテクノロジーで支え、スタッフも利用者も、その家族も笑顔にすることを目指すニチイ学館の研究組織だ。日々の業務に追われる施設では、スタッフが入居者とゆっくり言葉を交わす時間はなかなか取れない。とりわけ若いスタッフにとっては、世代の違う入居者と共通の話題を見つけること自体が難しいのだという。

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実証の場のひとつとなったのは、認知症のある人が共同で暮らすグループホームだった。普段は入居者同士の会話が成り立ちにくいその場所で、ラジオから懐かしい音楽が流れると、「この映画、観に行ったのよ」「どこで?」「銀座の映画館で」とやりとりが生まれたという。ニチイ学館が公表した実証結果でも、ラジオを使った時間は使わなかった時間に比べて、笑顔の度合いが平均8.7%上がり、身振り手振りや話すテンポにも変化が見られた。

「スタッフからも、知らなかったその方の昔の話が聞けてよかった、という声がありました」

ラジオがもたらしたのは、懐かしさだけではないのだろう。入居者が「昔こんな体験をした私」として語り出し、スタッフがその話に耳を傾ける。介護する人とされる人という関係のなかに、もうひとつ別の関係が立ち上がったのだ。

その意味を、鮫島氏はより根本的なところから捉えている。彼女自身、訪問活動のなかで何度も施設を訪れてきた。居室にあるのは、ベッドとタンス、わずかな私物だけ。話のきっかけが見つからず、昔のことを尋ねても思い出せず、かえって相手を落ち込ませてしまうこともある。やがて会話は、食事や入浴にまつわるものだけになっていくという。

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「私たちは家に帰れば母になり、夫と会えば妻になり、自分の母と会えば娘になる。役割や顔が切り替わるスイッチがたくさんあるんです。でも施設に入ると、そのスイッチが、介護される人としてのものしかなくなってしまう」

本来、人のアイデンティティは多面的なものだ。それが削ぎ落とされ、「介護される人」という仮面しか持てなくなったとき、人は元気を失っていく。鮫島氏の言葉は、場面ごとに顔を使い分けて暮らす私たちの日常を、ちょうど裏返しにしたものとして響く。顔を選べることが当たり前になった社会で、選べる顔がひとつしか残されていない人たちがいるのだ。

役割がひとつに固まってしまう息苦しさは、施設のなかだけのものではないはずだ。RADIO TIME MACHINEが失われかけた顔を呼び起こす装置だとすれば、背負った役割をいったん降ろし、別の顔を取り戻せる場所もまた、街なかの意外なところにある。

スナックという“舞台装置”

その場所のひとつとして坂根氏がはじめた場は、スナックだ。大学時代にソーシャルワークを学び、アルバイト先だった老舗スナックを新卒で引き継いだ彼女は、いま東京・国立で「スナック水中」を営んでいる。

スナックとケア。一見かけ離れた2つを、坂根氏はこう結びつける。

「スナックは、ケアをし合うための舞台設定だと思っているんです。街なかで知らない人から急に『大丈夫ですか?』と声をかけられたり、プレゼントを渡されたりしたら怖いですよね。でもスナックというコードの中に入れば、隣の人に話しかけても、お土産をみんなに配っても、まったく変じゃない」

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都市の匿名性は、互いに干渉しすぎない心地よさを与えてくれる。だがその一方で、誰かにちょっと手を差し伸べるきっかけまで奪ってしまう。声をかけたい、喜ばせたいという気持ちがあっても、それを差し出す場がないのだ。スナックは、その気持ちに出番を用意する。

「スナックは、ケアの顔はしていないんです。ずっとエンターテインメントの顔をしている。でも、人とつながることには確かにリスクもあるけど、やっぱり楽しいよね、私にもできるんだ、という自信を取り戻せる場所だと思っています」

この「舞台」という言葉に、鮫島氏は深くうなずく。彼女が引き合いに出したのは、精神科医で、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとしても知られる北山修氏の考え方だ。精神分析を劇にたとえる北山氏は、新しい役を演じられる舞台を用意することで、人は癒されていくと説く。同時に大切になるのが、役を降りて素に戻れる「楽屋」の存在だ。

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鮫島氏によれば、スナックとラジオは、向きこそ正反対でも同じ働きをしている。会社では係長として、家では親として、私たちは与えられた役割を背負って暮らしている。利害関係のある相手の前で弱さを見せれば、関係がぎくしゃくしかねない。坂根氏が「舞台」と呼んだスナックは、そうした日々の役割から見れば、それをいったん降ろせる「楽屋」でもある。一方のラジオは、失われかけた役割をもう一度演じさせてくれる「舞台」だ。どちらも、普段とは違う顔を引き出す「社会装置」なのだ。

場が変われば、人の振る舞いも変わる。その感覚は、ケアの現場でも長く育まれてきた。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」の編集者として知られる白石正明氏は、著書『ケアと編集』(岩波新書)のなかで、北海道浦河町の「べてるの家」を紹介している。精神障害のある人たちが暮らし、働くこの場所では、症状を聞き出して治すための会話ではなく、「会話のための会話」が重ねられてきた。幻覚や幻聴を抱える人が、自分に見えているもの、聞こえているものを面白おかしく語り、それを聞いたスタッフや仲間が一緒になって笑う。そうしたやりとりのなかで、本人が自ら、自分の症状の輪郭を語りはじめるのだという。

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スナックのカウンターも、べてるの家のミーティングも、相手を変えようと働きかける場ではない。ありのままでいられる場を整え、人が自分から語り出すのを待つ場だ。そしてその舞台の上では、ケアする人とされる人、医療者と患者といった区別が意味を失う。誰もが対等な登場人物でいられるからこそ、人は他者とも、自分自身とも向き合えるのだろう。

鮫島氏は、ケアを「ある人の前に、他者として現れること」だと表現した。宛先のない言葉は、ときに症状として扱われてしまう。だが聞き手がいれば、それは誰かとの会話になる。ケアとは、何かを施すことである以前に、まず相手の前に現れ、その言葉の宛先になることなのかもしれない。

安全な社会は、ケアのない社会?

相手の前に現れるために、何が要るのか。セッションの後半、モデレーターの鈴木氏は登壇者たちに「ケアするとは、相手に何をすることなのか」と問いかけた。坂根氏の答えは、「相手のことを覚えておくこと」。スナックでは、常連客が店に入ってくれば「いつもの席ですよね」とボトルを用意し、「先週、息子さんのイベントだったんですよね。どうでした?」と声をかける。そのひと言が自然に出てくるのは、相手のことを覚えているからにほかならない。

相手を覚えておくとは、言い換えれば、相手に注意を向け続けることでもある。鮫島氏はこの答えを「まさに本質的」だと受け止め、ケアという言葉の語源にさかのぼった。ケアのもとになったラテン語の「cura」は、世話や配慮、注意を意味する。そして「security(安全)」は、「〜がない」を意味する「se」に「cura」を組み合わせた言葉だという。

「つまり、安全な社会というのは、ケアがない社会でもあるんです。完全に安全な社会は、つながりを切ってしまう社会なんじゃないかと思っています」

一見すると逆説的だが、身近な例に置き換えるとよくわかる。子どもの安全を守るために、街に防犯カメラを増やす。それもひとつの方法だろう。一方で鮫島氏の近所には、子どもたちが登下校する時間になると、ただ家の前に立っているおじさんがいる。娘と一緒に歩いていると、「今日はお母ちゃんと一緒か」「お母ちゃんに似てるな」と声をかけてくれるのだという。カメラは子どもを記録できても、元気のない日に気づくことはできない。それができるのは、元気な日を知っている人だけだ。

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こうした顔見知りの気遣いは、かつてどこの町にもあったはずのものだ。だが2026年版高齢社会白書が紹介した内閣府の国際比較調査では、日本の65歳以上で「近所の人との付き合いがない」と答えた人は17.4%にのぼった。米国やスウェーデンの約2倍、ドイツの3倍にあたる。同居の家族以外に頼れる人として「近所の人」を挙げた人も、12.9%にとどまる。2024年には孤独・孤立対策推進法が施行され、人と人とのつながりは、いまや国が向き合う政策課題になった。安全で、誰にも干渉されない暮らしと引き換えに、私たちは互いの元気な日を知る関係を手放してきたのかもしれない。

もっとも、失われたつながりを取り戻すには、誰かが一歩踏み出すしかない。そしてその一歩には、少なからず怖さがつきまとう。

「今日、カレー食べたんです」から始める

坂根氏は、スナックに入ったばかりのスタッフが、まさにその怖さにぶつかる姿を見てきた。この質問は相手を傷つけるかもしれない。自分はお客さんに喜ばれない存在かもしれない。あらゆる言動に「〇〇ハラスメント」という名前がつく時代、相手に踏み込むことをためらう感覚は、多くの人にとって他人事ではないだろう。そんなスタッフに、彼女はまず自分から話すよう伝えているという。

「スナックは話を聞く仕事だと思われがちですが、まず自分から話してほしいんです。『今日の夜ごはん、カレーだったんです』くらいの、小さなボールでいい。そうすると、お客さんも安心して、同じくらいのボールを返してくれるんです」

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自分を開くというと、つい深い打ち明け話を思い浮かべてしまう。だが坂根氏の言う開き合いは、取るに足らない小さな話から始まる。小さなボールを投げ合ううちに、少しずつ話は大きくなっていく。それには時間がかかり、いきなり打ち解けられるものではない。彼女はそれを「じっとりとしたもの」と表現する。場面に合わせて整えた顔の外側にある、なんでもない自分を少しだけ見せること。開くとは、まずそのくらいのことなのだ。

では、そもそもなぜ自分を開くのは怖いのか。鮫島氏は、その理由を身体の感覚から説明する。私たちは、自分の身体には境目があると信じて疑わない。だがケアをするとき、その境目は揺らぐ。彼女自身、子どもが生まれたときには、身体がもうひとつ増えたように、何をしていても子どものことが頭から離れなかったという。

「ケアをすると、関心を向けなきゃいけないものが増えて、身体が大きくなるんです。それは、今までの自分のルーティンが通用しなくなること、今までの自分が否定されることでもある。だから怖いんですよね」

しかもケアは、差し出せば必ず受け取ってもらえるものではない。こちらがどれだけよかれと思っても、相手が「いらない」と言えばそれまでだ。ケアは、受け取られて初めてケアになる。

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その不確かさこそが怖さの正体だが、裏を返せば、ケアの主導権は受け取る側にもあるということだ。ケアする人が一方的に施すのではなく、受け取る人がそれを受け入れて、初めて成り立つ。だからこそ、ケアは本来、対等な関係のうえにしか成立しない。そして鮫島氏は、その怖さの先にあるものにも触れた。他者に開かれることで、「私にもこんな面があったんだ」と、知らなかった自分に出会える。新しい顔は、誰かとのあいだでしか見つからないのだ。

とはいえ、一人の人間が投げられるボールの数には限りがある。

依存先を、たくさん持っておく

それは、鈴木氏自身がRADIO TIME MACHINEのプロジェクトで痛感してきたことでもあった。一人で深く関われるのは、ほんのひと握りの人だけ。ケアを必要とする人は、その何万倍もいる。この限界とどう向き合えばいいのか。

坂根氏は、限界を悲しいものとして捉えないことが大切だと話す。届かない人を数えるのではなく、目の前に来てくれた人に集中する。松本氏もまた、すべての人に届けることは無理だという前提に立ったうえで、自分ではない誰かが担ってくれればいいと考える。共感してくれる仲間を増やすことで、限界そのものを少しずつ押し広げていくことになる。

鮫島氏はさらに、人数を数えること自体を問い直した。看護師のリーダーが目を配れるのは、せいぜい10人ほど。経験を積めば見られる人数は増えるが、ある線を越えると、手厚いケアはまったく別のものに変わってしまうという。

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「国の公衆衛生は、まさに数で管理するものです。でも現場のケアは、顔が見えるからこそできる。組織を増やすというのは、同じ思いを持つ人を増やして、町に広げていくことでもあるんです」

ケアは、規模を追うほど相手の顔が見えなくなっていく。だとすれば、必要なのは一人がより多くを抱え込むことではなく、顔の見える関係を社会のあちこちに散らばらせておくことだろう。

鮫島氏は大学で1年生を受け持つとき、あえて学生に自己紹介をさせないことがあるという。好きなものを紹介して否定されれば、それだけで場が凍ってしまうからだ。代わりに、いくつかのキャラクターのなかから今の気持ちに近いものを選んで話してもらう。目指しているのは、「おはよう」と言える相手や、ちょっと困ったときに聞ける相手を、一人でも多く持ってもらうことだ。

「依存先を、たくさん分散しておくことが大事なんです」

鮫島氏のこの言葉は、先の『ケアと編集』でも紹介されている、小児科医で当事者研究にも取り組む熊谷晋一郎の考え方とも重なる。熊谷氏は、自立とは依存しなくなることではなく、「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのだと語っている。誰か一人にすべてを預けるのではなく、ゆるやかに頼れる先をいくつも持っておく。ケアし合う社会とは、そうした小さな関係が網の目のように張り巡らされた社会のことなのだ。

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場面ごとに顔を使い分けることが当たり前になった時代でも、ありのままの自分でいられる場所は、意外なほど身近なところにつくることができる。スナックのカウンターで、施設のラジオの前で、あるいは家の前の通学路で。必要なのは、大きな制度や特別な技術よりも先に、「今日、カレー食べたんです」という小さなボールを、誰かに向かって投げてみることなのかもしれない。BeケアFULL。ケアに満ちた社会は、きっとそのひと言から始まる。

INFORMATION

TBWA\HAKUHODO

2006年に博報堂、TBWAワールドワイドのジョイントベンチャーとして設立された総合広告会社です。博報堂のフィロソフィーである「生活者発想」「パートナー主義」とTBWAがグローバル市場で駆使してきた「DISRUPTION®︎」メソッドを中心とした独自のノウハウを融合。質の高いソリューションを創造し、クライアントのビジネスの成長に貢献します。「DISRUPTION®︎」は既成概念に縛られず、常識を壊し、新しいヴィジョンを見いだすTBWA\HAKUHODOの哲学です。マーケティングに限らず、ビジネスにおけるすべての局面でディスラプションという新しい視点を武器に事業やブランドを進化させるアイデアを生み出します。

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日常でふと気になった事象を持ち寄り、そこに潜む時代の価値観の変化を語り合うカルチャー・ラボ「backslash Tokyo」(TBWA\HAKUHODO)と、音楽やアートなどカルチャーの現場を追い続けてきたウェブマガジン「Qetic」が、それぞれの視座を持ち寄りながら、対話の空気感をメンバー自身の声でそのまま届けていく番組。

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