音楽ライターの二木信が、この困難な時代(Hard Times)をたくましく、しなやかに生きる人物や友人たち(Good Friends)を紹介していく連載「good friends, hard times」。国内のヒップホップに軸足を置きながら執筆活動を展開してきた二木が、主にその世界やその周辺の音楽文化、はたまたそれ以外の世界で活躍、躍動、奔走するプレイヤー(ラッパー/ビートメイカー/DJ)、A&Rやプロデューサーなど様々な人物を通じて音楽のいまと、いまの時代をサヴァイヴするヒントを探ります。

第6回目に登場するのは、THINK TANK、〈BLACK SMOKER RECORDS〉、SKUNK HEADS、DOOO
MBOYSでの活躍で知られ、インディ・レーベル〈BLACK MOB ADDICT〉を主宰するBABA

「彼らルードボーイには、吐き出してしまいたいありとあらゆるフラストレーションがあった。仕事をする・世間とうまくやっていく・学校へいくという責任から生じる自制心は一切ない。ルードボーイにあるのは、ストリート・ヴァイオレンスの規制を塗り替えるような、大胆不敵な荒々しさだった」――レゲエとジャマイカの歴史を多角的かつ情熱的に描いた名著 『ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック』(高橋瑞穂訳/シンコーミュージック)のなかで、著者のロイド・ブラッドリーは書いている。

元々1960年代のジャマイカに発生したと言われるルードボーイという現象や定義はとうぜん重層的だ。そこで念のために断っておくと、私は、ルードボーイの不条理な暴力を闇雲に肯定したいわけではない。私の最大の関心は、秩序から逸脱したルードボーイの“大胆不敵な荒々しさ”がいかにして芸術表現を生み出すポジティヴなエネルギーに変換されるのか、またその底なしのエネルギーが生み出す手に負えない芸術にある。別の言い方をすれば、ルードボーイ性を有した“音楽の科学者”に興味があった。だからこそ今回の主役はBABAである。

1976年生まれのラッパー、BABAは、ヒップホップ・グループ=THINK TANKのメンバーとして知られ、現在は〈BLACK MOB ADDICT〉というインディ・レーベルを運営している。そしてそのレーベルから、2004年に発表したソロ・アルバム『NO CREDIT』以来、18年ぶりにソロ名義のラップ・ミュージックを発表する。『Collector’s Edition Vol.1』と名付けられた4曲入りの7インチは──ラガ・ヒップホップという形容は正確ではないかもしれないが──ヒップホップとレゲエの豪胆な融合であることは間違いない。

BABA a.k.a. “BB”SHOT – Collector’s Edition Vol.1【7inch】

だが実のところ、7インチのリリースが決まる前にすでにBABAに取材を申し込み、インタヴューをしていた。取材の動機がもうひとつあった。それは、7インチのビートもすべて制作した、BABAのDJ/ビートメイカー名義であるBLUE BERRYが2020年9月から2022年2月の約1年半のあいだに発表した6枚のミックス作品の音楽性が多彩で興味をひかれたからだった。1990年代のヒップホップ・クラシックを用いた音響実験に始まり、アフロビーツ/アフロフュージョン、ゴムに焦点を絞ったもの、クレズマーやジャズからパンキー・レゲエへと展開するサウンドトラック風、またはアブストラクト・ヒップホップやブリストル、イルビエントへと深く潜り込むミックスなど、自身の手札を惜しみなく出していた。

1990年代中盤から本格的にキャリアをスタートしたラッパー/DJ/ビートメイカーが、これまでどのような軌跡をたどり、何を考えて精力的に音楽を続けているのかを訊きたくなるには十分に刺激的だった。THINK TANK、SKUNK HEADS、DOOOMBOYSの話もしてくれたし、NYでの経験や現地のラッパーたちとの交流のエピソードも貴重だ。THINK TANKの他のメンバー同様に謎多き人物であるが、できる限り自らをベールに包んで己の道を歩み続きてきた事実は、誰しもがSNSで性急に自己を晒していく時代に示唆に富むものではないだろうか。そんなBABAが横浜でおおいに語ってくれた。話は少年時代から始まる。

INTERVIEW:BABA
(THINK TANK/BLACK MOB ADDICT)

ルードボーイ・サイエンティスト──BABA(THINK TANK/BLACK MOB ADDICT)、ロング・インタヴュー interveiw220606-baba-10

──BABAさんはどんな少年だったんですか?

バスケ少年だったんだけど、中3ぐらいのころに同級生が学校の廊下でスケボーでいきなりジャンプしたのを見て、「それ、ヤベェじゃん」って、俺もすぐにスケボーを始めて。そいつはその技を俺に見せたくてこっそり練習していたんだよな。それからはスケボーで学校に通うようになって、俺もこっそりその技を練習したけれど、簡単にできなかった。高校は1年で辞めた。すげぇ頭に来ることがあって、教室と職員室をブワ~ッ! とめちゃくちゃにして「もう辞めたるわ!!」って学校を飛び出した。それからは町でずっとスケボーをしていた。大会に出るぐらいのめり込んでいたよ。

──BABAさんが中3か高1の頃は、1992年ぐらいですよね。音楽はどうでしたか?

当時は、日本で音楽って言ったらヴィジュアル系のバンドが大流行の時代だよ。俺はそのヴィジュアル系が音楽もファッションも気に入らなくて仕方なかったわけ。若かったし、音楽についても見た目で判断していたから。そんな俺に、ある日、スケボーの仲間が『ジュース』(1992)のVHSを持ってきたんだ。あの映画には食らった。Qが手袋してスクラッチするシーンがヤベェじゃん。あれでスクラッチを初めて知ったし、「タンテ(ターンテーブル)って何? レコードって何?」ってすげえ興味がわいて。その後、『ワイルド・スタイル』(1983)や、アイス・Tが出ていた『ニュー・ジャック・シティ』(1991)とか、そういう映画をいろいろ観たけれど、俺にとって『ジュース』を超える映画はなかった。

DJ Q(Juice)

──あの映画には自分もかなり影響を受けました。それですぐにDJを始めると。

いや、まず情報がないからさ。先輩の家にもタンテがあったんだけど、アームが自動式のものだったから、「ちげえなあ」と。映画で使われていたTechnicsじゃなかった。でも、あるとき地元近くの大和にあった「ドルフィン」っていう古着屋さんに行ったら、Technicsのターンテーブルがあったんだよ。「『ジュース』で観たやつといっしょじゃねえか!」って興奮したね。それで、そこの店主のアンザイさんにDJミキサーやタンテをはじめ、いろんなことを教えてもらって自分でも勉強した。だから、アンザイさんは俺の先生。DJを始めるといろいろわかってくるじゃん。『ジュース』のDJのシーンの音と手の動きが実は一致していないとか。そんな感じでスケーターだった俺はギンギンのバトルDJになった。

──ちなみに高校を辞めてからはどんな生活を?

19歳ぐらいのころに、金もぜんぜんねえのにNYに無理やり3ヵ月ぐらい滞在した経験はデカかった。ツレが家出同然でNYに行くというから俺も追っかけたんだけど、あまりに金がねえからタンテ2台とDJミキサーも売って旅費にしたぐらいだから。飛行機に乗るのもNYに行くのもそれが初めてでいろいろ大変だった。直行便に乗るとチケットの値段が高いからソウル経由で行ったんだけど、ソウルの空港で3、4時間も待たされてわけがわからなくて怖くてひたすら空港の同じ場所で待ったり、NYに着けば着いたで水を頼んだつもりが値段の高い謎のビールを押し売りされて仕方なく飲む羽目になったり。ビール一杯で心臓ドクドクしちゃってさ。

──それでも無事にNYにはたどり着けたと。

向こうで顔がボコボコのヤツが近づいてきて時計を売りつけられそうにもなった。怖いじゃん、そんなの。なんで顔がボコボコなのかって言うと、時計を盗んで失敗したときに店のヤツにぶん殴られているから。だから、そのときは盗むのに成功した時計を持っていたということ。そういういろんな洗礼を受けたのは忘れもしねえ。そうした洗礼を受けて自力で飯を食うための方法をいろいろ学んだ。「こういうやり方をすれば飯を食えるのか」っていうのをNYのストリートで教えられたね。でも最初は、俺らは若くて怖いものなしだったから、NYに行って「『ジュース』しちゃおうぜ!」ぐらいのノリと感覚だった。町で遊んだり、タギングしたりしてやろうと。俺が初めてNYに行ったときはフュージーズ(The Fugees)がセカンド『The Score』(1996年2月13日)を出した直後の全盛期で、フュージーズのライヴはすごかった。バウンティ・キラー(Bounty Killer)がゲストで登場した時点で木造のクラブの建物がミシミシってきしみ出して、これ、スタジアムの床が抜ける衝撃映像みたいな大惨事に巻き込まれるじゃんってめちゃくちゃ怖かったし、いきなり「吸うか?」ってジョイントは回ってくるし、NYのヤツらの感情の高ぶりは桁が違った。

──若いころにそういう強烈な体験をしたというのがやはりデカかったんですね。

NYはその後も服の買い付けとかで行くようになるけど、いろいろあった。マイク・ジェロニモ(Mic Geronimo)のライヴを観たときなんて場がとんでもない大混乱になってさ。人があまりにパンパンに入り過ぎてみんなが騒ぐもんだからレコードの針が飛んじゃうの。それに対してブーイングした客に向かってマイク・ジェロニモがアカペラでフリースタイルし始めたんだけど、その矢先にステージ袖からキャッシュ・マネー・クリック(CASH MONEY CLICK)のヤツらがバーッと出てきて、客の顔面をバッコ~ン! って蹴り上げたわけよ。それでもう一瞬にして大乱闘でオマワリが来てライヴが中止になっちゃった。そのとき俺と相棒はでっかいスピーカーの上に乗ってライヴを観ていて、クラブがハチャメチャなことになっているからすぐには下に降りられなくて。

──それはヤバい……。

それでだいぶ人が捌けてから下に降りると、そのときDJをしていたトニー・タッチ(Tony Touch)がいて。当時、ヤツは日本が好きだったから、「お前ら日本人だろ!」って声をかけてきて、「この俺のプロモ盤を聴け!」って新曲をその場でかけてくれた。

しかもそのマイク・ジェロニモのライヴの帰りに、今度は地下鉄でキャミロ(DJ Camilo)と会って。1994、1995年ぐらいにミックステープがめちゃ売れていたヒップホップのDJ。なんで話したのかは忘れたけど、「俺、キャミロだよ」って言われて、「マジかよ!?」と。で、そのときに、キャミロはレコーダーを持っていて、俺らに「日本語で話してくれよ」って言うの。何か吹き込んだからそこからさらにキャミロのミックスを追って聴いたけど、一切使われてなかったな(笑)。

Webisode 16 TONY TOUCH + MIC GERANIMO JAPAN 1996

──ははは。

俺が日本で売るためにゲットするテープの他に、NYで手に入れた人に知られたくないテープとかもあって、キャミロのテープはそういう価値を感じるものだった。それと道を歩いているとナズ(NAS)を見かけたこともあった。すぐに「Are You NAS?」って話しかけたよ。すると、「YES!」って言うんだけど、向こうも「俺のこと知ってんのかよ?」っていう驚きの表情をしていた。知っているも何も、「『イルマティック』だろ。超カッケーよ!」って伝えると、向こうも「マジかよ!?」って感じで。そのときに俺の友達が8、9万円ぐらいするティンバランドのスウェードの革ジャンに、「『イルマティック』って書いてくれないか?」と頼むと、「こんな高い服に書いていいのかよ?」って言いながら、でかでかと「NAS」って書いてくれたな。『イルマティック』じゃねえのかと(笑)。

──なははは。

だから、1990年代のそれぐらいの時期は、アメリカのヤツらよりも日本人の一部のヒップホップ好きの方がNYのアンダーグラウンドのラッパーの良さに気づくのが早かった。それで2、3日いると、毎日会うようになって顔見知りにもなるわけ。当時の日本のヒップホップのヤツらとNYのヤツらはそういう距離感でもあった。俺はブランド・ヌビアン(BRAND NUBIAN)が大好きだったから、サダト・X(SADAT X)に会おうとしたら会えたし、ブルックリンに買い付けに行けば、ショーン・P(Sean P)も普通にいる。そういう感じだった。

──90年代の日本のヒップホップ・メディアの東海岸ヒップホップへの傾倒の背景とそういう関係性は無縁ではないように思えますね。

話を戻すと、最初のNYから帰国してもとうぜん金はぜんぜんなかった。そんな状態で空港から千葉の友達の家に直行すると、そいつがあるラジオ番組でDJバトルの大会が開催されて、しかも優勝すると賞金10万円とDJミキサーがもらえると教えてくれた。「これは絶対行ける気がする! 俺、やるわ!」ってすぐに出場を決めた。たしか千葉パルコにあるスタジオに行ったと思う。しかも生放送。持ち時間はひとり5分か10分で、みんな時間内に終わらせていたけど、俺はわざと終わらせなかった。最初はPAさんが「もう終わりだよ」と窓を叩いて伝えてきたけど、それも無視してコスりまくっていたら急に音を止められて。そんなんだから優勝はできなかったけどね。

──さきほど「自力で飯を食うための方法」をNYで学んだと話されていましたけど、それはどういうことですか?

NYで買ってきたミックステープやラッパーのブートのテープをダビングして路上で売れば稼げるぞ、これで食っていけると思った。それで、NHKの前の代々木公園の並木道に月曜だか水曜に、“ジュニア待ち”の女の子がすげえ並ぶからまずはこの子たちに売ろうと考えた。そのころヨーヨーが流行っていたから、「この最新のヨーヨーやってみない?」って女の子を捕まえて興味を示したら、「このテープも買わない? 2本買ったら1本オマケで付けるよ」と。まずは誰であれ止めなきゃ買ってくんねえじゃん。そこまでしてもシカトするヤツもいるし、それが屈辱でね。でも、売らねえと帰るためのバス代がない。だから、食うために必死だった。それと当時は渋谷のBボーイやヘッズを道端で捕まえてレコードやカセット、MTVを録画したヴィデオテープとかも売っていた。道で何でも売れた時代だった。

──そういう商売が成立した時代だったんですね。

でもすげえ嫌われていたと思う。だって、渋谷のレコ屋で売っているアメリカのDJのミックステープのカセットを買って市販のテープにダビングして道端で売ったりもしていたから。レコ屋のテープはジャケが白で、俺はビッグカメラとかで買ったジャケに線の入ったテープだったけど、向こうは1000円でこっちは800円だから売れるわけ。いまだったら超怒られるよね。しかも、それを宇田川のレコ屋が密集するCISCOの坂の階段で売っていたから。最初は明治通りの道端に布をひいて、折り畳みのテーブルを出して、ラジカセを鳴らして商売していたけど、明らかに怪しい不良のヤツにオラつかれて。俺の周りをウロウロして何かを壊しそうな雰囲気を出してきてさ。あとで人に聞いたら、やっぱりその場所のそっち系の人だったから、場所を宇田川町に移した。いまはわからないけど、当時はCISCOの坂の階段のあたりは私有地で、しかもそこの地主の女の人がめちゃ優しくて、「私の土地だから何やっても大丈夫。ゴミだけは捨てて行かないでね」って言ってくれて、「マ~ジっすか! めっちゃキレイにして帰りますよ!」と。その他の道端でもやっていたよ。横浜のビブレ、町田のパルコ、元町なんかでもやった。いまみたいになんでも無料じゃないから、いろんなところで商売が成り立っていたけど、CDのDJミックスが出始めてからおかしくなって変わったね。

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──その一方で、先ほどもNYでの買い付けの話が出ましたけど、BABAさんは「CLIP13」と「GROPE IN THE DARK」(1996年OPEN)で働いていたんですよね(※「CLIP13」と「GROPE IN THE DARK」は共に渋谷に店舗を構えていたセレクト・ショップ)。

そう。CLIP13の前身のお店「CAL」はもともと平塚にあって、まだヒップホップの店がほとんどないころだから目立った。1994年に渋谷に移転して名前が「CLIP13」となってから俺もそこで働くようになって、店主のCALさんにNYの買い付けに連れて行ってもらったり、東京のクラブにもいっしょに遊び行ってもらったりしていた。俺のラッパーとしてのキャリアもそこからスタートしている。CALさんに声をかけられて、『THE BEST OF JAPANESE HIPHOP VOL.3』(1995)ってコンピに収録されたCALさんのグループ、MICROTACSの曲でラップしているから。曲名は、“暗黒 HIP HOP 国家”。すげえタイトルだな(笑)。

──すごいですね(笑)。

そうやってラップしたり、遊んだりするなかで、K(K-BOMB)やJUBEくん、NAOちゃん(現・NOX)とも出会って、THINK TANKにつながっていく。NAOちゃんはたしか俺のあとに、「CLIP13」で働いていたね。

──JUBEさんとの出会いはおぼえていますか?

おぼえてるね。Shot Shell Clickは当時メンバーが大勢いて、町田の「FLAVA」でもパーティをやっていた。そこにYOU THE ROCK☆やTwiGyを呼ぶと、タバコの火も付かないほど人がパンパンに入って。それぐらいの勢いがあったから、たしかNaked ArtzのMILIが都内の人間とつながって俺らも都内に行くようになったんだと思う。それで下北沢の「SLITS」に行ったんだけど、当時の俺は若かったのもあるし、常に戦闘モードの態度だったから知らない人から話しかけられることがまったくなくてさ。いま思えばそんなヤツに誰も話しかけないよな。だけど、そんな俺にやたら話しかけてくる、身長のデカい変なヤツがいた。それがJUBEだった。これを載せたらJUBEくんは怒るかもしれないけれど、第一印象はピタピタのジャージにパンタロンを穿いていたから「なんだ、こいつは?」って感じだった(笑)。でも、すげえ話しかけてくるし、面白いからすぐ仲良くなった。

──JUBEさんのその第一印象、なんとなく想像できますね。

で、「SLITS」から新宿の「OTO」にハシゴしたり、それから甲州街道沿いにあった、〈FLOWER RECORD〉っていうレーベルの人らがやっていたクラブに行ったり。金はねえけど、クラブにはなんとか入れたからとにかく毎日ぐらいの勢いで遊んでいて、行くとDJブースにたいていマイクが置いてあった。DJも「ウザくならない感じでパーティを盛り上げてよ」というノリでインストを流す。だから、「SLITS」でもJUBEくんとマイクを持ったと思うし、そういうサイドMCで鍛えられた。でもハシゴして常にマイクを掴んでライヴしなきゃいけなかったから、朝方とかつらかったよ。だからマイクジャックと言ってもワルノリで喧嘩になっちゃうようなものではなかった。「気分はU・ロイ」みたいな感じ。ラバダブだよね。サイドMCをやっているとDJのプレイの展開も読めるようになるし、どんどん上手くなっていくのが楽しかった。スケボーに近いものがあったね。

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──1996年のNaked Artz“Skip 2 The Roots”の12インチのB面の“Shot Shell”という曲にBABAさん、NAOさん、JUBEさんが参加しています。さらに、1997年にはDJ SAS さんらが立ち上げた〈Undaprop Wreckordz〉の第一弾としてJUBE + BABA名義の“独毒”の12インチが出ています。この時点でラップのスタイルは確立されています。翌1998年には、NAOさんとのStill Nap(Shot Shell Click所属)名義の“火に油”の12インチが出ています。最初、JUBEさんのラップの印象はどうでしたか?

すげえ韻を踏む上手いラッパーでクールだなって感じた。一方の俺はレゲエも好きだったからフロウを付けてそこにスキルも混ぜたくて、そういうスタイルでやっていた。“独毒”のアナログのB面の、カポーン&ノリエガ(Capone-N-Noreaga)の“THUG PARADICE”と同じネタ(“RHYTHM HERITAGE”THEME FROM S.W.A.T.””)を2枚使いしているリミックスのガヤにKも参加している。“独毒”はひとりが立つとパンパンぐらいの超狭い録音ブースに3人いっしょに入って録音したな。

──そうした複数の曲を経て、THINK TANKにつながっていくんですよね。

THINK TANKのきっかけはKだね。1996年にバスタ・ライムス(Busta Rhymes)が「YELLOW」でライヴをすることがあった。もう時効だからいいだろうけど、別のライヴで来日していたバスタをダマで呼んでシークレットでライヴをやっていた。で、その企画に関わっていた人らに、バスタのライヴの前座にShot Shell Clickのメンバーだった俺ら(BABA、JUBE、YAZI、NOX)を出してやると。「バスタに会えるのか!? もちろんやるよ!」ってなるじゃん。

──2017年にRed Bull Japanのサイトにも掲載された「黒煙の世界へようこそ 今年活動20周年を迎えた、東京の最狂集団BLACK SMOKERに迫る(The Unorthodox Output of Black Smoker / Celebrating 20 years of one of Tokyo’s most indispensable and cutting-edge collectives By Yuko Asanuma on May 17, 2017)」という記事に拠れば、オーガナイズド・コンフュージョン(Organized Konfusion)、ビッグ・L(Big L)、ショウビズ & AG(Show Biz & AG)などの来日公演の前座も務めたそうですね。

当時の「YELLOW」はステージ裏が楽屋になっていたから、そこでバスタのライヴの熱気を感じていた。そんなとき、Kに「THINK TANKっていうのをいっしょにやらねえか?」と言われたのをおぼえているな。それからKが「GROPE」にもちょくちょく来るようになって。俺はShot Shell Clickの一員だったけど、音楽的に違う方向性を目指したくなり始めていたからKの誘いに乗って、俺、K、JUBEくん、NAOちゃんで“四望”という曲を作ってアナログをリリースしたのがTHINK TANK名義の最初だね。

──1997年ですね。やはりこの曲からもレゲエが強く感じられますね。

そうだね。MINIDONっていう面白い男がその曲にフィーチャリングで参加して、「俺らに何をやっても敵わな~い な~い なななな~い♪」っていう歌詞をあのフロウ歌っているしね。あれ、スタジオでその場で思いついて録音していた。MINIDONとはいっしょに何回かライヴもやった。あの曲をRECするために何回かスタジオに一緒に入ったし、何より忘れもできねえ出来事がある。そのころいろいろ忙しくて寝ないで東京のスタジオでレコーディングして車で第三京浜から帰っていたから、保土ヶ谷の料金所が近づくと、「やっと着いたわあ」っていう感じでさ。それで財布を取ろうとしたときに一瞬油断したんだろうね。ド~ン! と前の2トン・トラックに突っ込んじゃって、車がぐちゃぐちゃになっちゃった。向こうは2トンだから、運転手の人も「兄ちゃん大丈夫? こっちはこれぐらいだったらいいよ」って感じで。俺、そのとき衝突の衝撃で運転席からぶっ飛んでフロントガラスを頭で割ったからね(笑)。人ってけっこう飛ぶんだなあって思ったよ。そんな状態で何とか運転して家まで帰ったなんてこともあった。そんなときに作ったのが“四望”だった。

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──公式のHPに掲載されていたグループの結成日である1997年7月7日は、DEV LARGE(=D.L)さんがオーガナイザーを務めたとされる<JACK THE RAPPER>というイベントの日ですね。場所は「六本木ヴェルファーレ」でSHAKKAZOMBIEやSOUL SCREAMらがメイン・アクトとして出演していました。

それが、俺、K、JUBEくん、NAOちゃん、YAZIの5人のTHINK TANKのオリジナル・メンバーのはじめてのライヴ。このイベントに合わせて“四望”を作った気がするし、それ以外はそれぞれの曲を組み合わせてライヴをした。ちょっとショーっぽくやろうぜっていうことで、全員軍パンを穿いてファッションも揃えて同じ振りもした。たしか映像が残っているよ(笑)。俺らはザコみたいな扱いだったけど、それでばっちり盛り上げた。実際本当に反応が良くて、それ以降「ヴェルファーレ」はタダで入れてくれるようになったから。でも、それで嫌われもしたよね。だって、主役の人らの前に出て全力で盛り上げに行くわけだから。そう、そのときにILLMARIACHI としてライヴしに来ていたTOKONA-Xとも会って話した。「お互い嫌われてるね」って。それ以前にもTOKONAとは面識はあったから。

──その後、2001年にTHINK TANKとして『Think Talk Pt.3』という8曲入りのEPをリリースします。特に10分近くある“Think Talk Pt.3-Legalize It RMX-”は既存のヒップホップの枠におさまらないもので、その後の〈BLACK SMOKER〉やTHINK TANKの実験的な方向性の始まりだと思うのですが、なぜああいう楽曲を作ることになったんですか?

溜まり場になっていたYAZIの家が大きかった。6畳と2畳ぐらいの狭い部屋だったけど、下が蕎麦屋だったから音をいくら出してもいい環境で、そこにK、JUBEくん、NAOちゃん、俺、YAZI、そしてYAZIの膨大なレコードでしょ。みんな体がでけえからもうパンパン。そんな部屋で各自がヘッドフォンを付けて目の前に置いたマイクに向かって話すと、自分の声がいつもと違って聴こえるから、ケラケラ笑いながらぶっ飛んだり、勝手に人に電話したり切ったりして遊んでいた。そしたら、YAZIがその会話を黙って録音していて、俺らに聴かせてきた。「これはおもしれえじゃん」ってなるよね。それにエフェクトをかけたり、ビートを乗せたりしたのが、あの曲の原型になった。

──そういうことだったんですか。すでにプロデュースのクレジットにCuatro Cienagasとあります。K-BOMBさんとの初期の交流はどんな感じでしたか?

Kは当時めちゃめちゃ変わったヤツだった。本当に酷いもんで、人がライヴしていようが、フリースタイルしていようが、マイクをマイクケーブルからスポッと抜くんだ。「またやりやがった」って(笑)。迷惑野郎だよね。それぐらい変わったヤツだった。一方で俺も若くて常に戦闘モードだったから衝突もするよ。あるとき、麻布にあったお高い感じのクラブに遊びに行くと、KがDJブースの上でフリースタイルしていて。しかも、そこで俺の文句を言って勝手にフリースタイルを終わらせたの。それはこっちも「てめえ! ゼッテーぶっ飛ばす!」ってなるじゃん。いま考えると、若いころのすぐ手を出すモードは危ない。そこにNAOちゃんがいて「待てよ」と止めてくれたけど、Kと大喧嘩になって「もうお前とはいっしょにやらねえから」ってなった。理由は些細なことだよ。Kは東京の人間で、当時の東京は余所者に対してガッと来る風潮があった。俺は横浜でいっしょにいるヤツらも厚木とか平塚とか海の方から東京に遊びに行っていたから。そういうのもわかるけど、こっちだって遊び行って文句言われたら気分は良くないよね。

──THINK TANKのメンバーは当初はライバル関係だったり、仲が悪かったときもある、という話はこれまでのインタヴューでも語られてきましたが、そういう出来事もあったんですね。

で、そういうKと溝ができている時期に俺はJUBEくんやNAOちゃんと曲を作っていたけど、また別に、走っている派手なビートでも曲が作りたかった。そこでYAZIと一緒に作っている曲があって、「超いい曲ができた!」っていう感触があった。大喧嘩したとはいえ、俺らのたまり場はYAZIの家に変わりはないから、Kも出入りする。だから、YAZIに「絶対、他のヤツには聴かせるなよ」と念を押したんだけど、Kがそれをたまたま聴いたのかもしれない。それであいつも「いい曲じゃねえか」ってなったんだろうな。さらにそのタイミングで、当時〈アルファ・エンタープライズ〉にいた茂呂(尚浩)さん(A&R)がスタジオ代を出してくれるという話になって、本格的な録音ができるようになった。そうして最初に録音したのが“Eat One”(『Think Talk Pt.3』収録)だった。

DJ BAKUBLACK RECORDER BOX

──めっちゃいい話な上に重要なエピソードですね。さらに2002年のフル・アルバム『BLACK SMOKER』も〈アルファ・エンタープライズ〉の協力を得ていますね。

『BLACK SMOKER』を作ったときは、1年近く本当に毎日スタジオに入っていたけど、予算のことなんてたいして考えていなかった。だけど、あとから聞いたら実はスタジオ代に毎日10万円ぐらいかかっていたらしい。そこのスタジオの海鮮丼の弁当がまた激ウマでそれだけ食いにスタジオに行ったりしていたから。それはもう茂呂さんのおかげ。それで、あのアルバムを作ることができた。でもあのアルバムが評価されたのは、2、3年ぐらい経ってからだった気がする。

──あと、やはりYAZIさんの存在がTHINK TANKのサウンドにとってひとつの要でもある、ということですね。

THINK TANKの曲は次から次にネタやブレイクが変わるから、ライヴのDJをやるYAZIは大変だったと思う。レコードを次々に替えなくちゃいけないから、酷いときはレコードを3枚も重ねていたもん。そのアナログは4小節しか使わないからすぐ変えろ、そこからこっちのレコードを2枚使いしろとか俺らから指示出されてエディット的なライヴをアナログでやっていた。「一体どうやってんの?」っていろんなDJがYAZIの手元を見に来ていた。CDJやパソコンでできる時代じゃないから。データになれば自由度は増すよ。でもレコードの音はいいし、レコードでやる面白さがあった。

──『BLACK SMOKER』と同じ年にBABAさんは自身のDJ/ビートメイカー名義のBLUE BERRYとして初のミックステープ『Overdoze』(2011年にリマスタリングを施しCDで再発)を出します。

あのミックスを作るのは超大変だったよ。そのころは実家に住んでいて家が線路脇でうるさ過ぎてまともに音楽が聴けなかったから。マスターはコンポでMDに録音しているんだけど、片耳はコンポにヘッドフォンを差して中から聴いて、もう片耳で外の音を聴いてミックスして作った。あの最初のオレンジ色のミックステープ『Overdoze』は4000本ぐらい売れたね。

──そんなに売れたんですね。BABAさんはDJもやりますし、ライヴでも大きなミキサー卓を持ち込んでみずからエフェクトをかけてダブをしていたときもありました。

俺、実はすげえ器用なんだよ。だから、〈BLACK SMOKER〉のFlash PlayerのHPも俺が作っていたしね。

──それは知らなかったです……。あのページがFlash Playerのサポートが終了して見られなくなってしまったのが残念過ぎます。

あのページを作る前からデザインでもオリジナリティを出したかったから、WINDOWSを買って超勉強していじりまくっていたし、Illustratorにもハマっていたけど、HPを作るのは初めてで手探りだった。いまみたいにフォーマットが決まっていないから一から勉強して作らなきゃいけなかった。超頑張ったよ。1ページずつ戻したいけど、一気に戻っちまうのはどうすればいいんだとか、これを動かせるのかとか、声もつけられるっぽいなとか、できたものをいざネットにアップするにはどうしたらいいんだよとか、そういう時代だから。あのページのデザインは軍艦島をベースにして、しかも骸骨が動いてサイトに入って行くようになっていたでしょ。HPを見るヤツが簡単に入れないように軍艦島のマンションの一室を一瞬だけ光らせて、そこを見つけないと入れないようにしたし、プロフィールの目がパチパチするのも俺が書いた。ファミコンのゲームを作る感覚だよね。Kのコラージュや絵はそのころからすげえ上手くてカッコ良かったから、Kに描いてもらったバッズくんを使ったり、しゃべってもらったのを録音したり、いろいろ工夫したよ。練馬の俺の家がたまり場になっていた時期に複合機なんかも買って自分たちの手で何でも作るようになっていった。Kは<EL NINO>(〈BLACKSMOKER〉が主催するイベント)のフライヤーとかも作っていたしね。

──これまでの話を聞いていると、ヒップホップという芸術や文化への向き合い方の一貫性が伝わってきて、BABAさんのファースト・ソロ・アルバム『NO CREDIT』(2004)がレゲエ、ジャズ、ラップ、サウンド・コラージュが混然一体となった実験的な作品になったことがより理解できる気がします。

いまよりも時間があったし、音に関してはMPC2000でサンプリングにはかなりこだわって作った一枚だよ。いまもたまにあのアルバムを曲の順番を変えて聴き直すんだけど、いまだに発見がある。あのころはレコードをめちゃめちゃ買っていたし、特に下北沢の「Disc Shop Zero」にはかなり通った。

BABANO CREDIT

──おお、そうだったんですか!!

飯島さんの存在は大きい。寡黙だからか、最初は冷たい感じの印象を受けて実際あんまり会話をしたこともなかったけど、行くと俺のことをおぼえていてくれて、旧譜だけじゃなく、たまに新品の封まで空けて「これいいよ」って聴かせてくれた。そうやって出してくれた音楽が、俺がまさに探していた音だったことがよくあった。俺が試聴するレコードから俺が好きなものを飯島さんはわかっていたんだろうね。だから、「Zero」の記憶はすごく残っているし、虜になった。一時期、俺の買うレコードの8割ぐらいは「Zero」だったし、『DUB ZOMBIE』(ミックスCD/2008)もあそこで買ったレコードをけっこう使って作った。「Zero」を通してオーディオ・アクティブを初めて知って、「日本にもこういう音楽をやる人らがいるんだな」と思ったし。

──そして2010年には、まさにBABAさん流のダブのバンド、SKUNK HEADSのファースト『ANTI HERO』を出しています。

KとJUBEくんでTHE LEFTYをやり始めた時期に、俺はSKNUK HEADSを始めた。THE LEFTYが始まって、「何? 俺は除いて2人でやるのかよ」とは正直思ったけど、だったら俺も普通のヒップホップをやってもしょうがねえから、ヤバいヤツらを招集して攻撃的なダブをやってやるよって。そういう気持ちだった。SKUNK HEADSを始める前に、ひとつひとつのパラ・データにエフェクトをかけられるデカいミキサーをライヴに持ち込んでひとりでダブ・ミキシングをしていたけど、曲によってヴォリュームなんて違うから設定が大変だし、たまに飲み過ぎた状態でライヴをやるとバランスを間違っていじって音が出てねえとかもあったし、ビールをこぼして機材をぶっ壊したときもあるし、それでバンドでやりたいと考えたのもある。ただそこでありきたりなダブじゃなくて、UKのダブにつながるような、俺なりの攻撃的なダブをやりたかった。俺の他にギターとドラムがいて、最初はダブ専門のヤツがリバーブをかけながらディレイをシュワーッとかけてくれてもいた。スタジオに集まってライヴをして作品のリリースまで行ったあとに、『EAR TO THE GROUND TOKYO』という海外のコンピにもそのアルバムの1曲を提供したことがあった。

SKUNK HEADSANTI HERO

SKUNK HEADS

──〈BLACK SMOKER〉、JUBEさんやK-BOMBさんもそれぞれ既存のヒップホップの枠におさまらないベクトルに進んでいくわけですが、BABAさんも、そのふたりやNOXさん、いまはテクノのDJをしているYAZIさんと同様に独自の道を進んで来ています。SKNUK HEADSのあとには、ドラマーのMUROCHINさんとDOOOMBOYSを始めています。

それは、2010年にDJ BAKU HYBRID DHARMA BAND(DJ BAKU、YOUHEI、BABA、MUROCHIN、JIN、KAORU)に誘われたのがきっかけだね。その年にバンドでアルバム(『D.E.F』)を出して、〈KAIKOO POP WAVE〉をはじめ全国をライヴして回ってスタジオにもけっこう頻繁に入った。そこで俺が歌ってエフェクトもやって、BAKUちゃんがコスって、MUROCHINさんが叩く。それで気が合ってさ。SKUNK HEADSの活動がいちどタンマになったのもあって、MUROCHINさんと「サシでやらねえか」という話になった。ドラムと打ち込みのふたりは見た目も様になってカッコいいじゃん。それもあったし、俺はMUROCHINさんのシンバルのシャンシャン叩いてくる感じが気に入ったのよ。かっこいいなって。

──MUROCHINさんとやるようになって音楽への意識で何か変わったことはありますか?

俺はベースラインだったり、全体の雰囲気から掴んだりしていたけど、MUROCHINさんはドラム・パターンから聴く。その音楽の聴き方を知ると、同じ音楽もまた違って聴こえてきた。それが面白かったね。DOOOMBOYSは、2011年に秋田に3日間ライヴしに行ったのがはじまり。俺はベースの単音とBPMも勝手な感じのワンショットのループを持って行った。ベース・アンプも繋いでローを出していたから、役割はベースとヴォーカルだね。そういうライヴを録音していったら予想以上に良くて。だけど、そのインプロのやり方は手元が超忙しいわけ。しかもラップもする。すると、どれかは絶対忘れる。だからちゃんと曲を作ろうと。で、曲をやるならばチーム名を考えようぜと。そしたら、朝の5時半か6時ぐらいにいきなりMUROCHINさんから「DOOOMBOYSはどう?」って連絡があって決まった。そのころはノイジーなドラムにハマっていた時期で、2013年のデス・グリップス(DEATH GRIPS)の初来日にも行ったよ。ライヴで曲をどうやって繋いでいくのかを参考にするために行ったけど、遊び過ぎて最後の10分ぐらいしか観られなくて何の参考にもならなかった(笑)。でも、デス・グリップス、BO NINGENのヴォーカルがやっているDEVIL MAN、オーディオ・アクティブ、そしてDOOOMBOYSでイベントなんかやったらゼッテーおもしれえじゃんと。そんなアイディアを思いつくようになった時期でもある。

──DOOOMBOYSには『ALPHA & OMEGA』(2018)という2枚組のセカンド・アルバムがありますけど、ここに元ゆらゆら帝国のベーシストの亀川千代さんが参加しているのが驚きでした。

MUROCHINさんの顔の広さって言ったらすごいからね。それに俺とMUROCHINさんは常にベースは求めていた。俺のMPCのベースに、もっと動きのある生のベースが欲しかった。それで亀さんとライヴをやることになったけど、俺はゆらゆら帝国をあまり聴いたことがなかったから、亀さんのベースも知らなくて。ともかくそれで、俺、MUROCHIN、亀さんの3人でやることになった。場所はどこだっけな? バンド界隈の聖地と言われているようなライヴハウスだったよ(※二木注 2017年、「U.F.O.CLUB」にて行われた〈発狂天国vol.75〉)。そこで、ノイズの世界のすごい人ら(※二木注 INCAPACITANTSのこと。その他の出演はオシリペンペンズ、GROUNDCOVER、DJ発狂チカ)と対バンした。ノイズの人って硬いイメージがあるでしょ。でも、彼らはぜんぜんそんなことがなくて、楽屋でもフレンドリーでやりやすかった。とにかく亀さんはヤベーよ。というか、インプロの世界の人はヤバい。「せーの!」で始めて、「もうライヴが終わっていますよ」となっても弾き続ける。それで、DOOOMBOYSの『ALPHA & OMEGA』でも亀さんにベースを弾いてもらった。しかも、数曲での参加だったけど、録音時間は3時間以上だったからね(BABAによる『ALPHA & OMEGA』の曲解説)。

DOOOMBOYSALPHA & OMEGA

DOOOMBOYS feat 亀川千代 LIVE @ UFO CLUB 2017:11:26

──そんなに弾かれたんですね。それをBUNさん(FUMITAKE TAMURA)がリミックスしたのが2枚目ですね。

貯めていたDOOOMBOYSのライヴのギャラをすべてぶっこんでレコーディングした。それで音は集まってきて、最初はミックスも自分でやっていたけどめちゃくちゃ大変で。甘く見ていたね。それで、BUNくんに頼むしかねえと。BUNくんだったらなんとかカタチにしてくれるはずだって、そのときゲットしていたスタジオに呼んで。DOOOMBOYSはバンドの音だからギンギンじゃん。それでBUNくんのリミックスも欲しくなって2枚組になった。BUNくんのビートには隙間があってラッパーにとってはスキルを見せることができるんだけど、あの人は仮に16小節のヴァースをふたつ録音してもまったく使ってくれないときがある。リミックスとなれば、ヴァースをミュートしてまったく使わず、フックだけ編集して使うみたいなこともする。でも、あの作品ではだいぶ俺のラップを残してくれた。しかも元のラップを編集してつなぎ合わせてまったく違う韻を踏ませるんだよ。それがカッケーの。「そっちのヴァージョンをおぼえてライヴでやるわ」って(笑)。

──さすがBUNさんですね。今回BABAさんに会って聞きたかったことのひとつは、なぜここまでオルタナティヴな道を突き進んで音楽を作り続けているのかということです。いわゆる王道のヒップホップだけやる選択肢もあったはずですよね。一時期は、THINK TANKのメンバーが集まってインプロでライヴをする時期もありました。そこに伊東篤宏さんや山川冬樹さんが参加するときもあった。例えば2014年10月の<EL NINO>のKILLER-BONG、BABA、JUBE、CHI3-CHEE、DJ YAZIのライヴはいまだに自分の記憶に深く刻み込まれています。8年も前のライヴですけど、BABAさんのいまの活動も、ああした試みの延長線上にあると思いますし、音楽への向き合い方は一貫していると感じます。

ああいうライヴに決め事は何もなかったね。俺とKは手元でMPCを触ったりエフェクトかけたり、JUBEくんはシンバル叩いたりして、その上で歌うわけだ。マ~ジでやっている俺らがトブからね。とんでもない目をしているよ。だから、ライヴはだいたい真っ暗にしている。グループ内でどっちが強いのか、という勝負を人前でやっているようなもんだ。どうしてTHINK TANKがあんなとんでもないライヴをするようになったか? それには明確な理由がある。若いころからいろんなヒップホップのライヴを観てきて、ある時期からイベントが“文化祭”に思えてきたからなんだ。もちろん上手いヤツらは上手いよ。いまの若いヤツらもラップは上手いじゃん。でも決まりきったヒップホップのインストの上で決まりきったノリでラップしているのを観て、あるときから「カラオケっすか?」って思うようになった。そういう決まりきったことをやりたくなかったんだよ、俺らは。だから、ライヴをやる場所やイベントも選んだし、オファーも超断った。しかも、オファーを断ったイベントにマイクジャックしに行ったりもしたからそうとう嫌われたよね。イヤなヤツらだよな。そんなことしていたから一時期はライヴをやる場所もなくなっていったけど、そういうことをするのには俺らなりの理由があったんだよ。

沈黙と孤独 振り払うネオン 街角の雑踏 
病む街から脱走 無意味な戦争 聞くだけでもしんどい 
BPMを刻む振動 唱える魔法 
現状はどうあろうともこの場だけは平和と平等 愛にあふれ気分上々
大地に根を張るタフでラフでダブでラウドなサウンド 
いまここでかき鳴らす

DOOOMBOYS“Bring Me Down”

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取材・文/二木信
写真/Lil-K
取材協力/Lu’s CAFE

INFORMATION

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BABA a.k.a. “BB”SHOT

光届かぬ東京最深部の熱水噴出孔 “Black Smoker”。その原点にして中核 “THINK TANK” オリジナルメンバー。別プロジェクト”SKUNKHEADS”、”DOOOMBOYS(BABA&MUROCHIN)”、別名義”BLUEBERRY”。MC/DJ/トラックメイカ—、そして文筆家の顔も併せ持っており活動は多岐に渡る。ソロ名義の”BABA”は、2004年リリース唯一のソロアルバム「NO CREDIT」のみとなっている。そして2022年、いよいよ”BABA a.k.a. “BB”SHOT”が動き出す。

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Collector’s Edition Vol.1

BABA a.k.a. “BB”SHOT
BLACK MOB ADDICT|BMAREC-001
7インチ【限定生産盤】

大変だ! 真実がイカサマと手を組んだぞ! ヤバい言葉は禁止だとよ。生々とした生の言葉を使えないようにしたんだ。ヤバいものには蓋をしろってさ。チーチアンドチョンや電磁波クラブみたいなユーモアが通用しなくなっちまったんだ。やれやれだぜ。ずっーと待ち焦がれてた俺だけの基地が出来たんだ。自由と混沌が入り交わる音や声をRECできる。スモーキーな煙も一緒に。そこで出来上がったのがこの7インチさ。BLUE BERRYが音を作りBBがリリックを書く。昔からのやり方さ。これはcollector’s Edition Vol.1。今まさに次も準備中だ。そして、ジャケを描いてくれたのがCHUDO(Tadaomi Shibuya + KAREZMAD)、分かるだろ? すぐにはイカせないぜ。これはまだ現在進行形だ。楽しんでくれ。(text by BABA a.k.a. “BB”SHOT)

BLACK MOB ADDICT

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