音楽ライターの二木信が、この困難な時代(Hard Times)をたくましく、しなやかに生きる人物や友人たち(Good Friends)を紹介していく連載「good friends, hard times」。国内のヒップホップに軸足を置きながら執筆活動を展開してきた二木が、主にその世界やその周辺の音楽文化、はたまたそれ以外の世界で活躍、躍動、奔走するプレイヤー(ラッパー/ビートメイカー/DJ)、A&Rやプロデューサーなど様々な人物を通じて音楽のいまと、いまの時代をサヴァイヴするヒントを探ります。

第4回目に登場するのは、細田日出夫 a.k.a. JAM

今回の主役、JAMこと細田日出夫は、1961年生まれのレコードメーカー、A&R、ライター、コンパイラー、DJである。ここではリスペクトを込めて「JAMさん」と記すことにする。レコード置き場もある都内の自宅にうかがうと、天井まで届くレコード・ラックにはびっしりとレコードが収納され、玄関にもレコードが立てかけられている。〈サルソウル(SALSOUL)〉の12インチの青い背が並ぶブロックを見て記憶がよみがえる。

いまから約17、8年前ぐらいだろうか。記憶が正しければ、その夜、JAMさんは〈サルソウル〉オンリーのセットだったはずだ。何よりヒップホップ的に〈サルソウル〉をかけるスタイルが衝撃だった。リズムとビートのキープを怠らず、時に鋭いカットインを駆使し、あの〈サルソウル〉の音楽から溢れ出す多幸感を永遠に持続させるかのようなプレイに完璧に打ちのめされた。それまで〈サルソウル〉をまともに聴いてこなかった若造は、この日を境に、このレーベルの音楽にもっと真剣に向き合おうと決心したのだった。

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一方、JAMさんはライターとして旺盛な執筆活動を展開してきた。50年代末のソウルから90年代初頭のラップまでのアメリカのブラック・ミュージックを紹介するディスク・ガイド『U.S. Black Disc Guide』(鈴木啓志 編/ブルース・インターアクションズ/1991年)には、氏と共に、松尾潔、佐々木士郎(宇多丸)、坂間大介(Mummy-D)らも寄稿している。さらに、2017年には、雑誌『ブラック・ミュージック・リヴュー(bmr)』において14年間つづけた連載をまとめた単著『Chasin’ The 80s Classics』(SPACE SHOWER BOOKs)を上梓している。

そして、その本のイントロダクション「Intro Breaks」で、アメリカのブラック・ミュージックの真髄について氏はこう書く。「ブラック・ミュージックは80年代に限らず、いつの時代も『プロデューサーズ・ミュージック』である。プロデューサーが時代の流れを決め、プロデューサーが時代の流れを変える」

JAMさんはA&Rが本職であるから、厳密にはプロデューサーではない。しかし、プロデューサー的視点を有したDJ、ライター、選曲家として、日本に主にアメリカのブラック・ミュージックを紹介する重要な役割を果たしてきたことは間違いない。ディスコと「モータウン・ファミリー」とDJカルチャー、日本のヒップホップの黎明期、またこれまでA&Rとして手掛けてきたヒップホップ/ソウル/R&Bの作品やDJミックスについておおいに語ってもらった。この約2万字のロング・インタヴューは、そうしたJAMさんの貴重な経験、そこで得られた知識を多くの人びとと共有するためにお送りする。

INTERVIEW:細田日出夫 a.k.a. JAM

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──まず、現在のお仕事から教えてもらえますか?

細田 いまは2019年にできた〈CONNEXTONE(コネクストーン)〉という社内レーベルのA&Rをやっています。2015年に立ち上がった〈CONNECTONE〉という邦楽レーベルとビクター洋楽部が統合してできたビクターの中でも新鮮なレーベルです。ただ、俺は元々洋楽畑の人間なんですよ。1996年にビクターの洋楽部に入って、その後、〈plusGROUND(プラスグラウンド)〉という洋楽志向の邦楽ヒップホップとR&Bの専門レーベルを立ち上げた。そのレーベルが2020年で設立11周年になるのかな。そのレーベルを抱えたまま、〈CONNEXTONE〉で仕事をしていますね。

氏はA&Rとして、〈plusGROUND〉でこれまで様々なアーティストと関わってきている。DJ PMX、DJ KAORI、餓鬼レンジャー、Full Of Harmony、DOBERMAN INC、Cherry Brown(Lil’Yukichi)、N.C.B.B.、また今年4月に『Funky 4 You _ EP』をリリースしたG.RINA。さらに、〈CONNECTONE〉には最新アルバム『Wonderland』を出したばかりのlyrical schoolが所属している。

G.RINA/close2u(2021REMIX)【with Kzyboost】

lyrical school/TIME MACHINE(Full Length Music Video)

──そのように、日本のヒップホップ/R&Bの作品やアーティストを手掛けてきたJAMさんが、最初に、音楽、特にアメリカのブラック・ミュージックに魅せられたきっかけは何だったのでしょうか?

細田 いちばん最初にアメリカのブラック・ミュージックの歌に感動したのは、中学の頃に観たコカ・コーラのCMですね。そのCMではスタイリスティックス(The Stylistics)が“Coming Home”というコマーシャル・ソングを歌っていたんだけど、中学生の俺はその歌声を聴いて最初女の人の声だと思ったわけ。ところが、その歌声が、ファルセットという男性歌手の裏声だとわかったとき、「これはこの世のものじゃない」ぐらいの、ものすごい衝撃を受けた。それが、歌に対するファースト・インパクトですね。

それと、歌じゃないけど、サミー・デイヴィス・ジュニア(Sammy Davis Jr)も衝撃でしたね。彼がボトルを指輪で叩いてリズムを取ったり、スキャットしたりするサントリーのコマーシャルがあったんだけど、それを観たとき、これは自分みたいな凡人では到底ありえない感覚で、マネできないって強く感じて。そういうのが原体験にはある。子どもの頃に、そうした歌や身体表現を通して、ブラック・ミュージックの重要なエッセンスに影響を受けたのは経験として大きいです。

1975 – “Coca-Cola – Coming Home” The Stylistics – Japan, 60 seconds.

Suntory Whisky, ‘Sammy Davis Jr

──そして、JAMさんが東京で中学・高校を過ごされていた頃は、ちょうど第一次・第二次ディスコ・ブームと言われる時代ですね。ディスコ・ブームに火を付けたとされる映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本で公開されたのが1978年です。

細田 高校1年(1977年)の頃、先輩に連れられて新宿の歌舞伎町にあった「アップルハウス」に行ったのがディスコ初体験ですね。いやあ面白くて、すぐにハマっていろんなディスコに行くようになって。ディスコに通うようになって何が大きかったというと、ソウル、ファンク、ディスコをごっちゃ混ぜに聴くようになったことなんですよ。さらに、「BLACK SHEEP」(註:新宿、渋谷、上野に店舗があった)というディスコでは、バンドの生演奏を体感できた。

ただ、ディスコに通うようになったとは言うけど、俺が遊び始めた頃のディスコは高校生が気軽に行ける場所ばかりじゃなくて、敷居が高いお店がほとんどだったんです。当時のディスコは、お酒を飲んで、ボトルもキープして音楽を楽しむ、そういう大人の遊び場だったから。たとえば、新宿にあった「GET」(註:日本においてディスコ/ソウルのダンスやステップを数多く発明したダンサー、ニック岡井が店長を務めた)は、本当の遊び人が行くディスコだったし、何よりもディスコに行くためには踊りをおぼえなくてはいけないからね。だからまずは、新宿の「Tomorrow U.S.A.」といったデカ箱に行くわけです。「Tomorrow U.S.A.」は、ディスコが大衆化することで流行った場所で、比較的安く入れた。

記憶が正しければ、月曜と水曜がすごく安くて、どちらかの曜日が水割り飲み放題、フライドポテトが食べ放題だったかな。そういう場所で音楽とダンスを頑張って勉強して、基本の踊りを覚えたら「GET」とかに行って最新の踊りを研究する。そして、隙あらば、六本木や赤坂のディスコにくり出して行くというサイクルでしたね。

ディスコと一口に言っても、その種類も遊び方も様々だったことは想像に難くない。たとえば、JAMさんが初めて訪れる数年前、「アップルハウス」は、ドラマ『傷だらけの天使』(1974~1975年、第16話「愛の情熱に別れの接吻を」)の劇中において、どこかいかがわしい雰囲気を漂わせる都会の夜の遊び場の舞台装置として使われている。要は、“ナンパな遊び場”として表象されている。

しかしそれと同時に、そこには、ソウル、ファンクといった音楽を熱心に探求する踊り場としてディスコを捉えたハード・リスナー/ダンサーも当然いたわけだ。そんなJAMさんは、ディスコ以外の、ソウルやファンクがかかる場所にもくり出していく。

細田 渋谷に「プリンス」というDJ(ロック)喫茶があったんです。センター街を入って、2つ目の角を右に行った左側に。そこは日替わりでDJが変わるんだけど、木曜が本間トミーさん、土曜は渡辺実さん(註:日本のMTVの初代VJ/キャスター)がDJしていて、渡辺さんのDJのときのテーマ・ソングがタワー・オブ・パワー(Tower of Power)の“You’re Still A Young Man”だったりと、かかるのはほぼソウル/ファンクだったんですね。

Tower Of Power – You’re Still a Young Man

それでそこに通い詰めるんだけど、俺があまりにいつもいるもんだから、渡辺実さんに声をかけられてね。「そんなに好きだったらビクターで『モータウン・ファミリー』というファンクラブをやっているから、そこのスタッフとしておいでよ」と。それで、〈モータウン〉のファンクラブのスタッフになるわけです。それが高校2、3年生の頃かな。

当時、ビクター音産(ビクター音楽産業株式会社)の洋楽部が入っていた原宿の表参道沿いのピアザビル(註:キディ・ランドの前に位置するビル)の4階がアジトで。そこで〈モータウン〉を取り仕切っていた但馬要(たじま・かなめ)さんの下で、いろんな情報や音源を聴かせてもらい、会報誌を書いて会員の人たちに送る仕事を始める。

当時、日本における〈モータウン〉の発売元はビクターだった。そして、日本のディスコのパイオニアのひとりである、イラストレーター/ダンサー/DJの江守藹(えもり・あい)の著作『黒く踊れ!ストリートダンサーズ列伝』(銀河出版、2008年)には、ザ・コモドアーズ(The Commodores)の日本デビューとなる“THE BUMP”(1974年)のシングル盤のイラストを江守に依頼したのが、当時、〈モータウン〉のレーベル・マネージャーを務めていた但馬要であった、という記述がある。ちなみに、この1948年生まれの偉大な先達が著したこの書物は、日本におけるブラック・ミュージック受容の変遷、またディスコの歴史を知る上で、必読の名著である。

The Commodores – The Bump

細田 それで、そこのスタッフの人たちといっしょにライヴを観に行ったりもしましたね。印象に残っているライヴを一つ挙げると、大学に入ってからだと思うけど、デニース・ラサル(Denise LaSalle)の「赤坂MUGEN(ムゲン)」での来日公演。彼女の夫は、ラッパーのスーパー・ウルフ(Super Wolf)。“I’m So Hot”ネタの“Super Wolf can do it”(1980年)を〈シュガーヒル・レコード〉(1979年設立)からリリースしてる。

そのとき2人で来日していたから、デニース・ラセルが原曲を、そしてスーパー・ウルフがラップ・ヴァージョンをやる、という稀有なステージを観る機会に恵まれたのは良い思い出です。そう、だから、ちょうど〈シュガーヒル・レコード〉が立ち上がったばかりの頃で、ヒップホップのレコードも買い始めた時期でもあるね。

Denise LaSalle – I’m So Hot

Superwolf Can Do It(Original Release)

1979、80年の時点でヒップホップ/ラップのレコードを買い始めていた、というエピソードはとても興味深い。そのことについては後述するとして、そんな音楽漬けの10代を過ごした少年も大学に入学することになる。

細田 そんな風に高校生の頃から、ディスコ、ファンク、ソウルにどっぷりだったから、遊びの周囲には必ず音楽があったし、大学にそういうサークルがあれば入りたかったけど、入学した法政大学にはそういうサークルがなかった。

それでもやっぱり好きだから、当時早稲田大学近くの、グラウンド坂下にあったソウル・ファンが集まる「キャプテン」というソウル・スナック/喫茶にもよく通っていて。そこで、偶然サークル・ノートを発見するわけです。そこに書いてあったのが、「ソウル研究会ギャラクシー(GALAXY)」というサークル名だった。それが、ギャラクシーとの出会いですよ。ソウル・ファンの聖地とされる場所で、ソウル研究会と銘打ったサークルのノートがある、と。

もうこれは俺が求めていた運命的なものに違いないということで、そのノートに「こういうサークルこそを望んでいた」と熱いラヴレターを書いたんです(笑)。そしたら、たしか家に電話がかかってきたと思うけれど、初代の部長の大迫(一輝)さんから「次の例会はいつだからおいでよ」と誘われて。それが大学入学の年だから1980年だね。それから現在までつづくギャラクシーとの付き合いが始まる。

ギャラクシーとは、1978年に設立された早稲田大学を拠点とするインターカレッジ・サークル。おそらく、RHYMESTERを輩出した音楽サークルとして最も知られているのではないだろうか。当初はソウル・ミュージックに特化していたものの、時代と共に、ファンク、ディスコ、そしてヒップホップ/R&B、あるいはハウスをも対象とした音楽同好会へと変化していった。わたしが氏と出会ったのも、00年代初頭にギャラクシーに在籍していた縁からである。

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細田 ギャラクシーの活動の一方で、高校のときに面倒を見てくれていた、『モータウン・ファミリー』の但馬さんに「ビクターでバイトをやらないか?」と誘われる。で、俺と、白鳥(庸一)くんっていう俺のあとのギャラクシーの5代目の部長とアルバイトを始めて。そこで何をしていたかと言うと、本多慧さん(註:“和製ディスコ”のヒット曲を数多く生み出したプロデューサーとして知られるハッスル本多)の元でディスコのプロモーターをやらせて頂いたんです。

毎日15時ぐらいに出社して、ディスコでかけてもらうためのサンプル盤のアナログを取りに行く。それがそれなりに重い荷物になるの。で、そうしたサンプル盤を持ってまずは新宿や渋谷のディスコに行く。そうした新宿や渋谷のディスコでDJがかけてくれると、当時はトークがあるから、「このレコードはいつ発売のこういう曲です」ってMCをしてくれる。それがすごいプロモーションになるし、そのトークがないとレコードは売れないんですよ。だから、自分が担当している曲をかけてもらうために必死に頑張る。

だけど、ポリドールやソニーといった大きな会社の百戦錬磨のプロモーターの人たちが凌ぎを削っている現場ですよ。俺なんてまだまだ若造で、そういう人たちに揉まれながら自分が担当している曲がかかるまで粘るわけです。アルバイトとはいえプロモーターだからDJのブースに行けるので、DJがわきを見ている間に、ターンテーブルに乗っているレコードをさっと乗せ換えたりしてね(笑)。もう必死だからそういうこともやりましたよ。

──すごいエピソードですね(笑)。たとえば、どういう曲を担当していたのでしょうか?

細田 ビクターは、自分がアルバイトを始める前からディスコが強かったけど、当時のいちばんの目玉は、自分がプロモーターを始める頃にはすでにヒット記録中だったんですが、ボーイズ・タウン・ギャング(Boys Town Gang)の“君の瞳に恋してる(原題:Can’t Take My Eyes Off You)”(1982年)でした。“君の瞳に恋してる”なんて日本でもいまや誰もが知っている定番のヒット曲でしょう。だけど、最初はそんなことはなかったんですよ。ディスコのヒットは時間がかかるし、ピークタイムにDJの人たちに何度も何度もかけてもらうことで時間をかけて浸透してヒットの規模がでかくなっていくものだから。

この、フランキー・ヴァリ(Frankie Valli)が1967年に発表した“Can’t Take My Eyes Off You”をボーイズ・タウン・ギャングがディスコ・カヴァーしたヴァージョンは、国内のオリコン洋楽シングルチャートで1982年12月6日付から3週連続1位を獲得するヒットを記録した。JAMさんが記憶を頼りに当時のディスコ・プロモーター時代の狂騒の日々について振り返ると、手元に何の資料も置かず、空で、いまや多くの人が知るヒット曲、またはディスコの店名やDJの名前が次から次に飛び出してくる。

Frankie Valli and the Four Seasons – Can’t Take My Eyes Off You(Live)

Boys Town Gang – Can’t Take My Eyes Off You

細田 他には、シルヴェスター(Sylvester)の“Do Ya Wanna Funk”(1982年)、〈モータウン〉だとちょうどリック・ジェームス(Rick James)のアルバム『Cold Blooded』とメリー・ジェーン・ガールズ(Mary Jane Girls)の『Candy Man』(1983年)がリリースされた頃ですね。

リック・ジェームスとメリー・ジェーン・ガールズは、来日プロモーションとかはままならないので、代々木にあったダンス・スタジオ「ファンキージャム」に協力してもらって女性の生徒さんたちに和製メリー・ジェーン・ガールズを組んでもらい“Boys”を、無論口パクでしたけど、パフォーマンスしてもらったり、「LA・SCALA(ラ・スカラ)」のDJのモンチ田中さんにリック・ジェームスの曲だけを使って(おそらく日本では初めての)スクラッチ・ミックス・ショーなんかもやって頂いて11PM(註:1965年から1990年まで続いた日本のテレビの“深夜番組”の先駆けとなった番組)に取材に入ってもらったりしました。

Rick James – Cold Blooded

Mary Jane Girls – Boys

また、当時はビクターがヴァージンの日本での発売元だったから、ヒューマン・リーグ(The Human League)の“愛の残り火(原題:Don’t You Want Me)”(1982年)とか、カルチャー・クラブ(Culture Club)の“君は完璧さ(原題:Do You Really Want To Hurt Me)”(1982年)と“カーマは気まぐれ(原題:Karma Chameleon)”(1983年)とかもやりました。

そういう仕事をしていたから、いろんなDJの人たちに良くしてもらいましたよ。数年前に亡くなられた、当時「ニューヨーク・ニューヨーク」(新宿歌舞伎町)のチーフDJをされていた松本みつぐさん(2017年7月21日、逝去)、東亜会館の7階の「G.B. RABBITS (GBラビッツ)」(新宿歌舞伎町)にはオーティス中村さんがいた。

さらに、新宿といえば、「XENON(ゼノン)」があって、また「B&B」でDJしていた、現TRFのDJ KOOさんにもお世話になりました。新宿だけじゃなくて、渋谷も行きまくりましたよ。渋谷の駅前に「Candy Candy(キャンディー・キャンディー)」というサーファー・ディスコ(註:1970年代後半から1980年代前半のサーファー・ブームを受け、いわゆるサーファー・ファッションの若者が多く集まったディスコのこと)があって、公園通りには「LA・SCALA(ラ・スカラ)」、東急本店の近くには「Star Woods(スター・ウッズ)」というでかい箱があったし、駅前のいまTSUTAYAが入っているビルの最上階には「big Apple(ビッグ・アップル)」があった。もうだから、ディスコ・プロモーターの仕事でとにかく全部回ったわけです。

──ただ、一口にディスコと言っても、当然、箱によってかかる音楽も趣向も違うわけですよね。

細田 だからやっぱり最新中の最新を聴くには六本木のディスコだった。それでひと通り仕事が終わったあとに六本木に行き着くという感じでしたね。アルバイトとはいえプロモーターをしていたからDJブースには入ることができて。それで、「Queue(キュー)」とか「Jespa(ジェスパ)」、「MAGIC(マジック)」といった、ファンクやラップ、ブラック・ミュージックしかかからないディスコで新譜の勉強をしていました。

ちなみに、当時「Jespa」でやっていたのがDJ YUTAKAさんですね。また、六本木と言えば、スクエアビルに入っていく路地のずっと手前の右側の上の方に「エル・コンドル」があったけれど、そこでDJをしていたのが、いま渋谷にある「rhythmcafe(リズムカフェ)」のオーナーをやっている小山寿明さんという大先輩。小山さんにはNYから凱旋帰国したばかりのDJの高橋透さんを紹介されたこともありました。そのとき高橋透さんがDJでプレイされたシャロン・レッド(Sharon Redd)“Never Give You Up”がカッコ良くてね。

そんな風にディスコに行くのだけでは飽き足らず、渋谷の道玄坂のリカビルの3、4階に、新宿、渋谷、六本木のディスコの生録テープが売っていたから、もう本当に買いましたよ。お店の名前とDJの名前が入っていたライン録りのライヴ録音。考えてみれば、ミックス・テープの走りですよね。そういうDJの選曲やミックスが、いまの自分の基盤となり、音楽生活の糧になっているから、DJの果たす役割は果てしなくデカいという感覚と認識を持っていますよ。

Sharon Redd – Never Give You Up

仮にJAMさんを取り巻く人物相関図を作ったとしたらとんでもない濃厚なものになるに違いない。しかし、ここですべての人物をフォローする余裕はない。それでも、JAMさんの「DJの果たす役割は果てしなくデカい」という認識を受け、DJカルチャーという観点から、高橋透については触れておきたい。

1976年頃からDJをはじめ、1980年に渡米、NYのクラブ、セイント(The Saint)に衝撃を受ける。一時帰国し東京のディスコでDJとして活躍、1985年に再び訪れたNYでラリー・レヴァン(Larry Levan)とパラダイス・ガラージ(Paradise Garage)の洗礼を受ける。そして、1989年にオープンした芝浦「GOLD」のDJ/サウンド・プロデューサーを務め、一時代を築いた人物だ。そして、1998年から、宇川直宏、MOODMANと共に<GODFATHER>というパーティを開始、特に00年代のいわゆる日本のアンダーグラウンドなダンス・ミュージック・シーンに計り知れない影響を与えている。ディスコ時代を経験したDJがスピンするミニマル・テクノの快楽度数の高さを体感した身として、そのことを伝えたい欲求にも駆られるが、ここでは措く(註:高橋透の壮絶なDJ/音楽人生については高橋透著『DJバカ一代』(リットーミュージック、2007年)、または『MASSAGE VOL.5/6』の「祝!高橋透DJ30周年記念ロング・インタビュー(前後編)」に詳しい)。

すなわち、自分も含め、現在、国内のクラブ/ダンス・ミュージックに触れたり、積極的に関わってきたりした少なくない人びとが、何かしらの形で恩恵を受けていると言っても過言ではない、ということである。

話をディスコに戻すと、また、ここで名前が出たTRFのDJ KOOは、『サタデー・ナイト・フィーバー』の40周年を記念した、2018年公開のある対談記事(【対談】DJ KOO × DJ OSSHY『DISCO FEVER – サタデー・ナイト・フィーバー40周年』、uDiscovermusic日本版)で次のように語っている。「(ディスコの)プロモーターの人たちと話をするのが、すごい勉強になったし、新しい音楽とか常に仕入れる事ができていたので、洋楽ってディスコが一番早くかかったし、早くヒットしたよね」。つまり、ディスコでの人気がレコードの売り上げに直結していた。

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細田 当時新宿に「帝都無線」というレコード屋が何軒かあって。歌舞伎町の入り口にあったお店はディスコが閉店する終電前ぐらいまでやっていたんだけど、ディスコで曲がかかってドカーンと盛り上がると、その「帝都無線」でシングル盤が売れる。だから、次の日のディスコ・プロモーターの第一の仕事は、その「帝都無線」でいまプロモートしているシングルが何枚売れていたかを会社に報告すること。厳しいんだよ(笑)。

それと、新宿通り沿いにあった「帝都無線」には、ビルボードだったか、キャッシュボックスだったかの、毎週のR&Bチャートのコピーが置いてあって自由に持ち帰ることができた。当然いまみたいにネットを見れば、ビルボードのチャートでも何でも見られる時代じゃないからね。ビクターにもビルボードは届いていたんだけど、なぜか遅かったんだよね。だけど、「帝都無線」には毎週のチャートがいち早く置かれていたから、すごく貴重で、そのコピーをさらにコピーしてギャラクシーで配っていましたよ。いつしかその「帝都無線」のチャートのコピーがなくなって、すげえ困った記憶があるぐらいだから。

──いまのお話を聞いていると、よく欧米の音楽業界の内幕を描いたドキュメンタリーや劇映画などのなかで描かれる、自分の担当する曲をラジオに売り込むためにあの手この手を駆使して奔走するプロモーターの姿を思い出します。

細田 うん、仕事の構造としてはまったく同じですよ。ただ、ラジオとディスコのいちばん違うのは、曲をかけてもらったら、その場でオーディエンスの反応を観ることができること。それはディスコでしかありえなかった。だからそれはすごく感動するんだよね。自分がプロモートしている曲がここまでヒットになってきたかって。そのアルバイトをしているときに、ちょうど〈モータウン〉の25周年(1983年)があったのをおぼえている。

その〈モータウン〉の25周年記念コンサートは、1983年3月25日にカリフォルニア州パサディナの「パサディナ・シビック・オーディトリアム」で収録され、5月16日にNBCで放送された。マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)はこのときの“Billie Jean”のパフォーマンスではじめてムーンウォークを披露して全世界をあっと驚かせるわけだが、一方JAMさんは同年、DJがスピンした“Billie Jean”を体感することでヒップホップの革新性に衝撃を受けることとなる。1983年の『ワイルド・スタイル』の日本公開である。

細田 で、そうやってディスコで仕事して遊んでいるといろんな話をするでしょう。DJの知り合いも多かったから音楽の最新の情報も入ってくる。で、「なんかすごい映画が来るらしいぞ」という噂になっていたのが、『ワイルド・スタイル』だったんですよ。

すでに〈シュガー・ヒル〉や〈プロファイル〉のラップのレコード、12インチで買えるものはあったけど、遡れば、最初に「これはずっとしゃべるだけなのか?」と認識して聴いた曲は、それはやっぱりシュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)の“Rapper’s Delight”(1979年)だよね。オケがシック(Chic)の“Good Times”だから当然どのディスコでもガンガンかかっているし、日本盤のシングルにもなりましたから。

ただ、そういうラップの12インチは、六本木にあったレコード屋「WINNERS」にしか入ってこなくて、他のレコード屋に入荷した試しはほぼないし、〈エンジョイ〉のレコードなんてまったく見かけなかった。自分の経験と記憶でいえば、“Rapper’s Delight”やグランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ(Grandmaster Flash & The Furious 5)の“The Birthday Party”はディスコでもかかっていたけど、そこまでいろんな曲がかかっていたわけではなかったかな。だから、ラップとは何なのかはまだはっきりとはわからなかった。

The Adventures Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel(Long Version)

グランドマスター・フラッシュ(Grandmaster Flash)の“The Adventures Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel”(1981年)を聴いたときも、「これはいったい何をやってるレコードなんだ?」ってわけわからなかった。ラップやスクラッチ、ブレイクダンスもなんとなくぼんやりは知っているけれど、理解しきれていない。

いまとなれば“Rapper’s Delight”より前に出たファットバック・バンド(FATBACK BAND)の“King Tim III(Personality Jock)”(1979年)が世界で最初のラップのレコードだって歴史を後付けの知識として知っているけれど、当時はとにかくそうそう情報には乏しいから、新しく出てくるレコードを買って聴いて自分で理解していくしかないわけだからね。そんなときですよ、『ワイルド・スタイル』という映画が公開されるぞ、という噂が耳に入るのは。

ちなみに、JAMというペンネームは、ファットバック・バンドのアルバム『Tasty Jam』(1981年)に由来している。さらに、『ワイルド・スタイル』のエピソードは続く。

細田 新宿・歌舞伎町のミラノ座で先行上映と前夜祭があったんだけど、ディスコ・プロモーターをやっていた恩恵もあってなぜかパスがまわってきて、ギャラクシーのみんなにも声をかけて押し掛けた。舞台挨拶もあって、出演者が出てくるけれど、誰が誰だかぜんぜんわからない。

で、舞台挨拶が終わると、「これから打ち上げに行くから、お前らも行こうぜ」ってそのメンバーたちに誘われて。あとからわかるんだけど、誘ってくれたのはコールド・クラッシュ・ブラザーズ(Cold Crush Brothers)のメンバーだったんです。で、外に止まっていたロケバスに「乗りなよ」って言われるけど、当然出演者や関係者でいっぱいで入れないでしょう。打ち上げの会場は「ツバキハウス」ですぐそこだから、「普通に歩いて行きますよ」と。そうしたら、そのメンバーに「バスの天井に乗ってけよ!」って言われて、みんなでバスの天井に乗って移動したの(笑)。

「ツバキハウス」に入ってまず驚いたのは、同じレコードが延々とかかっていること。「これ、何?」ってブースをのぞくと、そこでDJしていたのがグランド・ミキサーD.ST(=グランド・ミキサーDXT)だったという。スクラッチで参加したハービー・ハンコック(Herbie Hancock)の“Rockit”(1983年)のプロモーションで来日していた彼が、『ワイルド・スタイル』の来日組とそこで合流したんですね。でも、目撃したときにかかっていたのがラヴバグ・スタースキー(Lovebug Starski)の“You’ve Gotta Believe”の(いまで言うところの)二枚使いだったから、“Rockit”がかかるまで彼だとはわからなかった。

スクラッチや二枚使いもいまでは当たり前だけど、そうしたものを生まれて初めて生で目前で観たときの衝撃を想像してみてよ。同じレコードのいち部分だけがずーっとかかっているけれど、DJは忙しそうに動いているし、ターンテーブルの間にミキサーがある、と。たしか横のクロスフェーダーだけの、タバコの大きさプラスアルファくらいのミキサーだったと思うけれど、そんなミキサーを見たのも初めてだった。

そのDJする姿をずーっと見ていると、“Rockit”のときに延々と同じレコードの頭の部分を交互にかけていることがなんとなくわかってきたの。有名なタイム・ゾーン(Time Zone)の“Wild Style”と“Rockit”のルーティーンもこのときすでに披露していて。そうこうしているうちに、フロアの方にも簡易的なDJブースが組まれて、DJアフリカ・イスラム(Afrika Islam)か、チャーリー・チェイス(Charlie Chase)か、そこの記憶が定かではないけど、DJを始める。

すると今度はマイケル・ジャクソンの“Billie Jean”の頭のブレイクをループし続けて、フロアではロック・ステディ・クルーが踊り始める。あの夜は本当に刺激的でしたね。観るものすべてが初めてのものばかりで、しかもそれまでレコードで聴いてぼんやりとしか理解できていなかったことがすべてひとつの線でつながった気がして。そして、その夜から「これからはヒップホップだ!」って瞬時に変わったんです。それはもう当然だよ。で、俺らはまずはDJをやろうってなったんだよね。

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ここで興味深いのは、氏がDJカルチャーを通じて、ディスコとヒップホップの断絶より連続性に感覚を強く持っていたように思える点だ。ヒップホップ・カルチャーはディスコを否定した上に成り立っているという言説も少なくなく、確かにそのことを裏付ける現象、多くの証言や事実もあったにちがいない。しかし一方で、ディスコからの連続性の中でヒップホップを捉えた人たちもいたし、事実、連続性はあったのだ。

そして、DJ機材の入手である。しかし、当然いまほど安価ではなかった。そこで、前述したギャラクシーの「Brothers & Sisters 30周年記念号」という冊子のJAMさんのインタヴューに拠れば、当時1台7万5千円するTechnicsのターンテーブル「SL-1200 MK2」と、20数万円もする巨大なDJミキサーを大枚をはたいて入手した勇敢な後輩の家にみんなで毎日泊まり込んで練習する日々が始まったという。JAMさんが、ラップやダンス、グラフィティではなく、DJを選んだことは、それまでの音楽人生を考えれば、必然だったに違いない。

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Last Night DJs Changed My Life──細田日出夫 a.k.a. JAM、ロング・インタヴュー column210510-hosoda-hideo-jam-20

細田 俺らの周り、ギャラクシーでも、『ワイルド・スタイル』を観てラップとタギングを始めるヤツもいたよ。早稲田祭のときにでっかい看板に、グラフィティを描いたりもしていた。そのラップを始めた藤枝というヤツのスタイルは、『ワイルド・スタイル』に登場するダブル・トラブル(Double Trouble)だったね。ステージや階段で彼ら2人がラップで掛け合うシーンがあるでしょう。あれが、当時の俺らにはラップとは何か、というのを最もわかりやすく伝えてくれた。ただ正直な話、『ワイルド・スタイル』を観た直後の自分に関して言えば、日本人が英語であれ、日本語であれ、ラップすること自体がまったくイメージできていなかったんだよね。

それからしばらくして、そんな自分にとってヒップホップのより重要な意味合いが理解できるようになったのは、やっぱりRHYMESTER(1989年結成)ですよ。彼らのライヴから教わったことは実に大きかった。彼らがライヴしていた「代々木チョコレートシティ」には本当によく行ったけど、RHYMESTERを観に行けば、B FRESH、Crazy-A&The Posse、EAST ENDがやっているでしょ。そこで、いろんなラップのライヴを観ることになる。そんななかで、RHYMESTERが最初に目指していたのは、本人たちはそう言われるのをイヤがるかもしれないけど(笑)、デジタル・アンダーグラウンド(註:Digital Underground/トゥパックも在籍していたことで知られるオークランドで結成されたヒップホップ・グループ。中心メンバーで、ラッパー/プロデューサーのショック・Gが2021年4月22日に逝去)だったのかな。

当初は、Rhymyster All Starsとして、3MCに加え、Dara Dara Dancersという2人組のダンサー、ゴージャス・ビッチ・シスターズ、ヒューマンビートボクサーのコダマちゃん、それにJIMMYがいた。ラップを中心にしながらもそういうショーになっていたんですよね。そのライヴが非常によくできていたし、エンターテインメントになっていた。そうしてもらうことで彼らのラップに対する本意に触れさせてもらった部分はとても大きい。

そんなRhymyster All Starsを若かりし頃に目撃していたひとりが、ラッパーのDABOだ。そのDABOは、自身のオフィシャル・ブログ「PAPER MOON MAN」の「ライムスターその壱」という2008年2月25日のエントリーで、JAMさんと共通する認識を示して、以下のように述懐している。少し長いのだが、とても興味深い記述なので引用したい。

「当時のUSヒップホップシーンは掛け合いラップの大ブームで、若きバスタを擁するリーダーズオブニュースクールやフーシュニッケンズ、ノーティバイネイチャー、ファーサイド、ローズオブジアンダーグラウンド、オニクスにダスエフェックス、それに若き2パックを擁するデジタルアンダーグラウンドなどが激しく唾を飛ばしていた。そのノリを日本でいち早く初めていたのがライムスターだったと思う。今でこそ究極にクラシカルなたたずまいのライムスターであるが当時の扱いは完全に「色物枠」。Pファンク的なアティテュードを前面に打ち出していた彼らはそう見られることに辟易しつつも狙っていたフシもあったのではないだろうか。
同じ頃にクラッシュポッセにもすでに出会っていた。俺の中でライムスターオールスターズとクラッシュポッセという二組のアーティストは日本語ラップの原点であった。スタイルとしてのハードコアヒップホップ美学を体現していた前者に対し、後者ライムスターは文化としてのヒップホップをいかに日本語で日本的に表現し得るかという実験に挑戦していたのだと思う」(※原文ママ)

また、このDABOの記述に登場するKRUSH POSSEのメンバーとも活動を共にしていたB FRESHの元メンバーであるCAKE-Kは、昨年から、自身のYouTubeチャンネルにおいて、日本のヒップホップの黎明期を振り返る貴重な証言と映像を定期的に配信している。そこで、B FRESH、Rhymyster All Stars、EAST ENDらが登場する、1991年の「代々木チョコレートシティ」での映像を観ることができる。

【日本ヒップホップの歴史】役者は揃った!91年ラップシーン

細田 俺もDJには即座に反応したけど、ラッパー/MCのようなパフォーマー、音の作り手/担い手になろうという発想を持つには至らなかった。そんな脳内転換が起きるにはちょっとジェネレーションが上過ぎたのもあったのかな。1986年当時は大学を卒業して社会人になろうかというタイミングだから、ヒップホップに対する感じ方、捉え方にはやはり差異も生じますよね。ただ音楽が好きとかいう、そういう側面ではなく、ヒップホップをどこまで自分ごとにできるかどうか。

つまり、いまも昔もヒップホップは若者の音楽だし、文化でしょ。ヒップホップを観て、触れて、その衝撃がその人にどう作用するか、その作用の仕方だよね。そこから発信されている同胞シグナルをキャッチできるか、受け取れるかどうかが重要なんだと思います。だからRHYMESTERは、当時ヒップホップのそういうシグナルをごく自然にキャッチして、日本なら日本語でリリックを書いて自己表現できると明確にイメージできたことが大きかったのだと思います。そして、それから彼らはいろんな壁にぶつかっただろうけど、ヒップホップというムーヴメントの核心をわかっていたから彼らには道が見えていたはずだし、だからこそ彼らの後ろにも道ができたのだと思います。

RHYMESTER – B-BOYイズム

ここでJAMさんが言う“同胞シグナル”という解釈は、RHYMESTERの“B-BOYイズム”の「数はともかく 心は少数派 俺たちだけに聴こえる 特殊な電波」(宇多丸)というリリックに直結しているものだろう。氏は1986年に大学を卒業後、外資系のコンピューター会社や広告代理店などの職を経て、1996年にビクターに入社している。そこで、RHYMESTERが活動初期から向かい合ってきた“日本語でリリックを書いて自己表現する”という大きな課題に自身もA&Rという立場で直面することとなる。

細田 自分のA&R人生のなかで、ディレクター的にも関わって大きかったのは、ORITOくんとの一連の作業ですね。俺が引き継いだときは、すでに彼はビクターで1枚アルバムを出していたんです。その作品は、メンフィスのウィリー・ミッチェル(Willie Mitchell)のところに行って、そこで彼が門戸を開けて「ロイヤル・レコーディング・スタジオ」で録音した“和製アル・グリーン”の作品とも言われる『SOUL JOINT』(1995)です。こういう日本人のソウル・シンガーがいるとテレビでも紹介されて、話題にもなりました。

ORITO Special

そして、2枚目から担当しました。それがすごい大変で……。なぜかと言えば、1枚目と同じように英語で歌っても大きなインパクトを与えることはできないだろう、という課題があった。そこでORITOくんと「日本語でやりましょう」という話をしたんです。

そして、小林信吾さんにフル・プロデュースをお願いして作ったのが『ソウル・フード』(1997年)というアルバムだったんです。ソウルでありつつ、シティ・ポップでありつつ、内容も良かったんです。でもこれが売れなかった。そんなときに、真っ先に門を叩いたのがT.KURA(T-KURA)さんで、彼とのセッションを進める一方、日本語でR&Bを歌うソウル・シンガー、日本語でラップをするラッパーというテーマで、当時の『bmr』(1997年8月号)の編集部・丸屋九兵衛さんのはからいでORITOくんとK DUB SHINEさんの対談が実現した。それもきっかけになってORITOくんも日本語でR&Bを歌うことをさらに真剣に考え始めたんです。

その流れでK DUB SHINEさんからORITOくんの話を聞きつけて一緒にやってみたいと申し出てくれたのがDJ HASEBEくんだった。そして、“Dj.フィールグッド”というK DUB SHINEさんをフィーチャリングした曲をレコーディングして。その曲が収録されたのが『LOST AND FOUND』(1999年)というアルバムです。そのときに、ORITOくんが日本語ラップからものすごく影響を受けて、日本語の可能性を日本語ラップに見出して、着想もストーリーも歌詞の書き方も韻の踏み方もR&Bならこうあるべき、という域にどんどん近付いていったんです。そのあと“FINGA PLAY”(2002年)というシングルを最後にビクターとは契約が切れてしまったけど、開眼したあとの彼の創作活動は本当にすごくて、彼が亡くなってからリリースされることになった『団子と珈琲』(2008年)という意味深なタイトルのアルバムはひとつの到達点だったと思います。日本語でR&B/ソウルを歌うことはこういうことかと思い知らされた。

また、日本の芸能界で積んだキャリアをかなぐり捨ててアメリカに渡って自分の力だけでグラハム・セントラル・ステーション(Graham Central Station)の女性リードの座を掴んだmimiこと宮本典子さんの凱旋ソロ・プロジェクトに関われたこともとても大きかったですね。彼女のように本場をみずからのステージに選択して、自分の実力だけを頼りに本場で人気を集めていくことのすごさというものを身に染みるほど味わいました。

ここで、ソウルを日本語で表現する、という課題にA&Rとして向き合った氏が、アメリカのソウルをはじめとするブラック・ミュージックの真髄に触れた経験についても語ってくれた。

細田 自分にとってはハリケーン・カトリーナの翌年に行った<ESSENCE(Essence Music Festival)>が大きかったですね。そうした現場に行くと、音楽がいかに機能しているかを知ることができますよね。例年はニューオリンズの「ルイジアナ・スーパードーム(現メルセデス・ベンツ・スーパードーム)」でやるんだけど、カトリーナの翌2006年はヒューストンの「リライアント・スタジアム(現NRGスタジアム)」で3日間開催されていました。

メインステージのトリをメアリー・J・ブライジ(Mary J. Blige)、アース・ウィンド&ファイヤ(EW&F)、LL・クール・J(LL COOL J)が務めて、3日目の大トリはメイズ(MAZE)。家族や恋人同士で遊びに来ている老若男女がビシッと白いスーツ、ドレスでキメて楽しんいるわけだけど、そのときはアリーナがダンス会場になって、みんなステッパーを踊るわけ。そして、“Before I Let Go”、“Joy & Pain”、“Happy Feeling”の必殺の3連発をやると場内は大合唱ですよ。

MAZE – Before I Let Go

Beyoncé – Before I Let Go(Official Audio)

さらにメインステージ以外に4つサイドステージがあって、ダグ・E・フレッシュ(Doug E. Flesh)、ルース・エンズ(Loose Ends)、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ(Brand New Heavies)がライヴをやっていたり、この年ではないけど、アンジー・ストーン(Angie Stone)のステージにサプライズでシュガーヒル・ギャングがゲストで出てきたり、信じられないことが普通に起こる。<ESSENCE>では例えばアレサ・フランクリン(Aretha Franklin)からマックスウェル(Maxwell)までをひとつの会場で観ることができる。

そこで強く実感できるのは、それぞれの世代の音楽が、老若男女関係なく、世代を超えて全て必要とされていること。だから、ORITOくんの『団子と珈琲』は歌詞もちゃんと聴けば、彼がソウルやアメリカのブラック・ミュージックのそうした普遍的なマインドの部分もちゃんと自分のものにしたんだなってことがわかりますよ。

ORITO/リサ~横田基地物語

2008年2月に急逝したORITOはヒップホップ・リスナーのあいだでは、SEEDA『HEAVEN』(2008年)や、刃頭のアルバム『日本代表』(2004年)に収録された「nene」の歌声でも知られているだろう。

そんな彼が、ベトナム戦争の時代から現代までを背景に、2世代にわたるストーリーを描いた、9分をこえる、『団子と珈琲』収録の“リサ:横田基地物語”は、ORITO自身が聞いた実話を基にしているという。この曲で彼は、「モータウン」「ジェイ・Z」「ビヨンセ」「ヒップホップ世代」といった単語を織り交ぜながら、語りと歌唱を調和させようとしている。ヒップホップ世代のシンガーが、“ソウルやアメリカのブラック・ミュージックのマインド”をいかに日本国内の社会的文脈における日本語のソウル・ミュージックに昇華するかという課題と格闘した末に完成させた名曲であろう。

JAMさんは、こうした、ヒップホップ世代のソウル・シンガーとの共同作業の一方で、ヒップホップ世代のDJカルチャーのディグの精神を伝播してきたとも言える。

Camp Lo – Luchini AKA This Is It(Official Video)

細田 1990年代後半は、キャンプ・ロー(CAMP LO)が“Luchini AKA This Is It”(1997年)でダイナスティー(Dynasty)の“Adventures In The Land Of Music”をサンプリングしているような時代だったじゃない。

『FRONT』と組んでネタモノのコンピレーションをやろうとなって、最初に『diggin’ from the vaults』(1997年)を作りました。その頃のビクターにはカタログが豊富にあって、〈ソラ―(SOLAR)〉とか〈スタックス(Stax)〉とか〈ファンタジー(Fantasy)〉とか、そうしたレーベルのいわゆるネタモノのレコードを自分もたくさん持っていたから、1発目は自分で選曲して、ジャケットはDJ KENSEIさんの家のCRATES(註:レコード箱の意)を撮影させてもらった。さらに、中を開けると、DJ MASTERKEYさんをはじめいろんなDJの方(DJ KIYOさんやDJ JINさん)の家にお邪魔して撮影したCRATESの写真を配置したんですね。

それが売れたからシリーズ化して、2枚目が『diggin’ from the vaults – Muro’s Summer Vibes』(1997)、3枚目が『diggin’ from the vaults DEV LARGE & KZA’S “Reincarnation”』(1998)でした。後者のジャケは水戸の「VINYL MACHINE」まで撮影しに行きましたね。それはDEV LARGE(=D.L)さんとの本当に良い思い出だし、彼とはもうひとつ貴重な思い出があります。それは、Brunswickのミックス『Soul Traveling Brunswick』(2001年)を出したときのことで、そのときに彼が、ちょっと昔っぽい照明で、アフロのウィッグを被ってDJブースにいる自分を、俯瞰で撮りたいというアイディアを出してきたんです。そこで俺はもう白金のディスコ「ダンステリア」しかないと即座に思いついて、そこで撮影させてもらった。

だから、その撮影で、DEV LARGEさんは、あのニック岡井さんと、わずかながらですが、交流を持っているんですよ。ニック岡井さん、「ダンステリア」の初代オーナーでもあるドン勝本さん、江守藹さん(註:「ダンステリア」でDJもしていた)と言えば、日本のディスコの基盤を作られた非常に大きなお三方ですからね。

ここで語られる貴重なエピソードは、間違いなく日本におけるディスコとヒップホップのミッシング・リンクである。さらに、DEV LARGEとのエピソードから思い起こされるのは、2020年11月に惜しくもこの世を去った、DJ/プロデューサー、Mr.Itagaki a.k.a. Ita-Choの唯一のオリジナル・アルバム『It’s My Thing(Eat Meat To The Beat Productions)』(2006年)の制作へのかかわりである。

NITRO MICROPHONE UNDERGROUND/BAMBU(1999)

B.D. , Mr.itagaki a.k.a. Ita-cho/「Guidance」「Iranai feat.OMSB」

細田 シンプルに、自分は、好きな音楽をやっている人が好きでそういう人と仕事がしたいんですよ。彼との時間もまた濃密でした。もちろん、90年代の、彼が〈マンハッタン・レコード〉のバイヤーの頃から、顔なじみではないけれど、存在を知ってはいましたし、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのためにトラックを作り始めているのも知っていた。

そして、ある人を介して、彼がアルバムを作りたいという話をしていると聞いて。それで、彼だったらどんなアルバムになるかがすぐイメージできたし、2つ返事でやりましょうと。それで、Mr.Itagaki a.k.a. Ita-Cho “The Big Bamb”名義のアルバムを担当することになったわけです。

さらに、『Sound Of New York The Return Of Old School Hiphop』(2008年)という〈P&P RECORDS〉がリリースしたラップのMIXCDや、配信オンリーの『Production Breakdown “The Best of Bob James”』というボブ・ジェームズのコンピも作ってもらいました。彼は、これまで付き合ってきた人の中で、いちばんヒップホップ的なものの考え方の正統性を語ってくれた人ですね。何がイケてて、何がイケてないのかっていうのをはっきり見極めて、生半可なおべんちゃらを言わなかった。

音にしても、着るものにしても、食い物にしてもどんなところにも美学がある、絶対に妥協しない人だった。そういう美学を軸にモノを考えて行動する人だったから、彼と話をすると清々しかったですよ。そういう人が早くして亡くなるのは、残念でなりません。

Mr.Itagaki a.k.a. Ita-Cho “The Big Bamb”『It’s My Thing(Eat Meat To The Beat Productions)』

──JAMさんはソウル・ミュージックから入り、ディスコなどを経て、そしてヒップホップやラップの最新の音楽も熱心に聴き続けています。記憶が定かではないのですが、国内のメディアやシーンがまだまだ東海岸ヒップホップへ傾倒していた90年代後半か00年代前半の『bmr』で、サウスのヒップホップなどの新譜をもっと聴くべきだ、と熱く語っていたように思います。

細田 当時は、毎週火曜に、〈シスコ〉、〈マンハッタン〉、〈DMR〉をぜんぶ回っていましたね。火曜出ているシングルはできる限り買っていました。でもサウスは、あまり日本に入ってきていなくて。当時、アメリカではスリー・シックス・マフィア(Three Six Mafia)がヒットしていたけど、メンフィス・ラップは日本になかなか入ってこなかった。だから、サウスが日本で認知されて火が付いたのは2002年ぐらいにリル・ジョン(Lil Jon)のクランクが認知されて以降じゃないか。あれは大きかったよ。

一方で、ビクターでリル・キキ(Lil’ Keke)の『Platinum In Da Ghetto』(2002年)を出したときに、ボーナストラックをくれと言ったら、スクリューミックスで(笑)。そしたら回転数がおかしいとクレームが入ったりしましたよ。日本でもDOBERMAN INC『STOP, LOOK, LISTEN』(2006年)を担当した時に、購入者特典でいまは亡き二木崇さんとスクリューミックスを作りましたね。

──その後も、いままでずっと新しい音楽を貪欲に聴き続けているJAMさんの姿勢にとても感銘を受けます。今回の取材の動機もまずそこが出発点にありました。2020年にリリースされたZORNの『新小岩』の凄まじいチャートアクションについてもツイートで反応されていましたね。

細田 いや、それは姿勢というほど大げさなものじゃないよ(笑)。いま何がヒットしているのか、ということにすごく関心があるの。それと、とにかく新しいレコード、新譜を聴くのが根っから大好き。いま生きているのであれば、いまの音楽を、いま聴いて楽しみたいじゃないですか。特にいまは新譜のほとんどがリアルタイムに聴けるという恵まれた時代だし。だから、たとえば、ザ・ウィークエンド(The Weeknd)の“Blinding Lights”がなぜあそこまで長い間チャートインしているのか、とかもすごく気になるよ。それは、ポピュラー・ミュージックの真実はいま最もウケている音楽の中にある、と考えているからです。まさか、いまの若いラップやR&Bの人たちは、俺ぐらいの世代に向けてはやっていないじゃない。メッセージを投げかけているのは、あくまでも同世代の人たちですよ。もちろん音楽の個人的な好き嫌いや好み、良し悪しはあるけれど、そういう新しい世代間で放たれ合うシグナルや流行こそが正しいんです。それが世の中の基本。これはこれから先も変わることはないし、これまでもずっとそうだったんです。ブラック・ミュージックは特にそれが顕著だからなおさら面白いんです。

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取材・文/二木信
写真/堀哲平

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