ポップシーンのトップランカーが毎回、ラディカルなアプローチと人間の存在の深淵に触れる楽曲を送り出すこと──宇多田ヒカルのここ数年の境地にはある種の畏怖さえ感じてしまう。
NHK・Eテレで好評OA中のアニメ『不滅のあなたへ』(大今良時原作・「週刊少年マガジンにて連載中」)の主題歌としても話題の“PINK BLOOD”。アニメのティザーが公開されたタイミングからざわついていたこの楽曲がついに6月2日からデジタルシングルとして配信がスタート。同時にYouTubeでプレミア公開されたミュージックビデオはじっくり作り込まれた示唆的な内容。公開から5日ですでに300万回再生に迫る勢いで、世界からコメントが寄せられ、ファンの間でシーンと歌詞の相関について考察が交わされている。
この“PINK BLOOD”のリリースとMV公開を記念した展示会<宇多田ヒカル「PINK BLOOD」EXHIBITION>が6月5日から6月18日までGinza Sony Parkで開催中。会場ではCreative Lab.TOKYOの谷川英司氏がディレクションしたMVを大画面で鑑賞できる他、撮影で使用したキャンドルオブジェの舞台セットや、衣装3点、ジャケット写真を手掛けたフォトグラファーTAKAY氏による高画質な大判プリント、さらにはアーティスト写真の撮影で使用された鏡を使ったフォトブースが設置されており、MVの世界観が多角的に体感できる展開に。
さらに、今年9月をもって解体されるソニービルの躯体だからこそ実現できた空間としての没入度も特筆すべき点だろう。楽曲から拡張し、再び楽曲に帰着する──またとない体験をレポートする。
EVENT REPORT:
宇多田ヒカル「PINK BLOOD」EXHIBITION
では具体的に展示の内容を見ていこう。銀座駅から直結したGinza Sony Parkの漆黒の空間。光や靴音を吸収する壁面と床がすでに没入体験のとば口に立った印象である。
キャンドルオブジェや森を模した哲学的な撮影セット
入場してすぐ目に入るのがキャンドルオブジェの舞台セットだ。MVの中では《あなたの部屋に歩きながら 床に何個も落ちる涙》というリリックの箇所のみに贅沢に使用されていることで、強く印象に残るのだが、全体的にモノトーンの映像の中で、一瞬の暖色と火というエレメントが、リリックの情動とリンクしているようにも思える。加えて一見、鳥籠のような形状にも何か示唆を感じてやまない。
また、会場全体の装飾も手掛けている「花屋西別府商店」による、MVでは冒頭から重要なシーンを演出している森を模した土や植栽の再現度も素晴らしい。タイトルのリフレインのイントロなど、いくつかのシーンに登場するが、この楽曲の核にある“他の誰でもない自分の価値観”を自然界に溶け込むようなシチュエーションで見せられると、宇多田ヒカルの現在地と監督の解釈の符牒に深く感銘を受ける。
精神と肉体性を示唆する3つの衣装
セットやポートレートとも関連してくるのだが、敢えて衣装にフォーカスしてみると、また見えてくるものがある。監督の谷川氏からスタイリストの山田直樹氏が依頼を受けた3点の衣装の中でも、白いドレスは「近代的にも古典的にも見えるような、不変的で時代を感じないもの」であり、インスピレーション源は「カラヴァッジョの宗教画のような世界観を読み解いた彫刻像」だという。宇多田ヒカルの白いドレスは『初恋』でも記憶に新しく、最も自分自身を表現することに適ったメタファーなのかも知れない。しかも肉眼で見ると、まさに彫像的な仕上がりを実感できる。
真っ黒な水面に横たわり、周りの女性たちも含めて、肉体とともにグルーヴを生み出しているような黒ラバーの衣装。白いドレスとはテクスチャーは対照的だが、風の中に立つ超然としたそれと、フィジカルの強さや熱を感じる黒ラバーは彼女の分かち難い精神と肉体を可視化した印象を受けた。
また、冒頭から強い印象に残る、自然の中に横たわる彼女が着用している衣装は“植物の衣装”としか形容しがたい。MVでは土や植物に半ば埋もれていてはっきり見えなかったが、蜘蛛の巣のようなオリジナル生地と実際の植物を10層以上重ねた繊細なもの。現実にはおそらく体感できない、自然への帰還のイメージと、《誰にも見せなくてもキレイなものはキレイ》というリリックの持つ究極の意味が響き合うようだ。
ハイクオリティな画質と見せ方で暗闇の中、存在感を示す撮り下ろし写真
彫刻のような彼女の顔をモノクロームの光と影で捉えたジャケット写真と、何層にも重なる奥行きのあるミラーを使ったアーティスト写真で、新しい側面を見せてくれた“PINK BLOOD”。これらを手掛けたのは2018年のアルバム『初恋』での一連の写真でもお馴染みの世界的フォトグラファーTAKAY氏。今回のエキシビションでは迫力の大判プリントを高いクオリティで見ることができる。その工夫はプリントに光を当てるのではなく、写真そのものが暗闇に浮かびが上がるような技術を用いることで、より1点1点の存在感が屹立。
会場にはアーティスト写真が複数掲出されており、中でも円形の可動する白い照明のもとに立つ彼女の凛々しい姿は、この楽曲が伝えるマインドを視覚化したように感じるほど美しい。
ミラーに映るアーティスト写真撮影を擬似体験できるブースも設置
エキシビションでの体験型の展示が、実際の撮影でも使われた鏡を使ったフォトブース。会場スタッフが撮影したデータをスマートフォンで受け取ることが可能だ。アーティスト写真やMVでのシーンを真似るのもいいし、“複数の自分”と一人きりで向き合う時間にもなるのではないだろうか。
今、リアルで見た展示の余韻を抱えて見る大画面でのMV視聴
展示を見てきた最終地点として、エキシビション会場ならではの大画面で“PINK BLOOD”のMVを見ることができる。ベンチも設置されているので、ぜひじっくりオープニングからエンディングまで、じっくりと鑑賞してみてはどうだろうか。作り込まれたセット撮影と、繊細な編集、谷川氏ならではのプログラムも駆使した映像美にも飲み込まれるような没入感が味わえる。
最後に谷川氏がこのMV制作に寄せたコメントを記載しておこう。
「“PINK BLOOD”を初めて聴かせてもらった時に感じた『現代に生まれる讃美歌』のようだ、というファーストインプレッションを大切にしながら、『成長』とは、アイデンティティと向き合い、自問・自覚・葛藤しながら、自己を形成するプロセスの新たなステージへ向かう事であり、つまりは、それが大人になるという事である、という概念を、全体を通してそこはかとなくでも感じてもらえれば幸いです。時代に左右されない、強いMVができたと自負しております」
エキシビションを鑑賞した上で“PINK BLOOD”を聴くと、数多のクリエーターの創造意欲の中でも純度の高い成分を引き出す楽曲であることに気づく。この曲に過剰な演出はいらないのだ。
音楽的には昨年の“Time”や“誰にも言わない”に続く、ビートの細やかなエディット、いわゆるA〜B〜サビ的なフォーマットを逸脱した、どのパートもサビのようでもあり、通底するヴァースのようにも感じられる構成はもはや2020年代の宇多田ヒカルのベーシックとも言えそうである。演奏には『初恋』のロンドン・セッションから馴染みのReuben James(Wurlitzer Piano)、Jodi Milliner(Ba)らが担当し、ミックスはSteve Fitzmauriceで、宇多田ヒカルとは『Fantôme』からの鉄壁のコラボレーションである。
言葉を切りながらフロウに乗せるヒップホップ的な手法と、のびやかなメロディが1曲の中で行き来することもすっかり定着した印象だが、今回、特に自分の価値を人任せにするほど無駄なことはないというニュアンスと、その迫力すら感じるニュートラルな境地へ至った時間──《他人の表情も場の空気も上等な小説も もう充分読んだわ》というフレーズや、ラストの《王座になんて座ってらんねぇ 自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ》というくだりにため息と羨望が混じる。
ファンの考察の中には、生きづらさを抱える今の状況に照らし合わせ、《サイコロ振って一回休め》、人生の中にはそんな時間も必要だと言われているような気がするというものもある。と、同時に笑顔で未知のどの方向にもまだまだ歩いて行きそうな意思表明にも聴こえる。さらりと強く、かくも音楽的に“PINK BLOOD”はいま大事なことを伝えているのだ。
宇多田ヒカル – PINK BLOOD
Photo by 中村寛史
Text by 石角友香
EVENT INFORMATION
宇多田ヒカル「PINK BLOOD」EXHIBITION
2021年6月5日(土)~6月18日(金)
11:00~19:00
場所:Ginza Sony Park(PARK B2/地下2階)
東京都中央区銀座5-3-1
※ご来園いただくお客様に密を避けて安心してお楽しみいただけるよう、事前予約制とさせていただきます。予約は6月2日(水)11時より受付開始します。
※園内では感染予防および拡散防止策を実施しております。お客様のご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。なお、体温が37.5度以上ある場合、体調不良や風邪の症状がある場合、新型コロナウィルス感染症陽性と判断された方との濃厚接触が疑われる場合はご来園をお控えください。
予告なくイベントを休止する場合があります。また、今後の状況によりましては、イベントを中止させていただく場合があります
RELEASE INFORMATION
PINK BLOOD
2021年6月2日(水)
宇多田ヒカル
アニメ「不滅のあなたへ」主題歌
配信はこちら