僕らは日々、恋をしている。
人に。服に。靴に。アクセサリーに。本に。絵に。写真に。花に。猫に。メロディに。季節に。匂いに。ギターに。天気に。アイディアに。

いつの間にか落ちる恋もあれば、
落ちる瞬間がはっきりとわかる恋もある。
雷の如く。
時に、頭上でその雷鳴が轟く。
それは摂理だ。

僕はコーヒーに恋をした瞬間をはっきりと覚えている。
さほど昔のことではない。

数年前、ある夏の日の午後。
僕は雨上がりの山にいた。
僕が生まれた土地から更に奥地。
愛すべき群馬の連峰。
その中をくねくねと道路が続いている。
パーキング代わりにぽつねんとあるコンビニ。(群馬にだってコンビニはある)
その駐車場で僕はぼんやりと景色に溶け込んでいた。

先程まで降り続いていた雨が嘘のように上がり、日が照り、蝉が再び鳴き始めている。
あたりの山々では、降ったばかりの雨が、蒸発して立ち昇り、今まさに再び雲となって空に還ろうとしている。
これも摂理だ。

雨が降り、そのうちのほんの一部はその場で気化し再び雲になる。また大部分は川に流れ出て、僕の想像では海に辿り着き、気が遠くなるような時間の中で、運が良ければ再び雲になって、再び雨になる。
そして、それを繰り返す。
もしくは何処かのタイミングで人の手によって浄水され、飲まれ、トイレに流れ、適切な処理を施され、いつか海に辿り着き……
それを繰り返す。

コンビニの駐車場でぼんやりと山々を眺め、そんな想像に耽った。

数日間続いた山でのテント生活で僕は疲れ果てていた。
日常に戻りたくない気持ち、そして日常に戻る安心感。
その間を、ふわふわと、プールのあとの午後の授業のような妙な気持ちでさまよっていた。
すべては時間が掛かろうとも安定する形へと流れ、戻っていくものだ。
これも摂理。

眠気覚ましに缶コーヒーを買おうとしていると、親友のRがコンビニコーヒーを推めてくれた。
今では当たり前になったが、当時、まだコンビニコーヒーは駆け出し。
飲んでいる人はまだ多くはなく、存在は知っていたが、僕も飲んだことはなかった。

その頃の僕は、コーヒーの種類など全く詳しくなかった。
ブラックかそうでないかの違いしか知らなかった。
更に言えば、コーヒーとは、紅茶とコーヒーどちらか?と問われた時の選択肢の1つでしかなく、疲れたときやリフレッシュしたいときに飲むアイテムに過ぎなかった。

……。

すべてが一刹那の出来事だった。
コーヒーを啜った瞬間、それが胃へ辿り着く前に、脳がドクンと音を立てた。
目の奥が開く感覚とともに、20年近く何もない壁だと思っていたところに、いくつもの扉があるのが見えた。そして、その扉が一斉にドカドカ勢い良く開いていくのがわかった。
それらのことが一瞬で起こった。
発見と目覚めが同時に僕を襲った。

そして、まもなく、その開いた扉から新鮮な光と風がたっぷりと注ぎ込まれてきた。
それまで暗かった場所は照らされ、じめじめした空気は消え失せた。

僕のふわふわした気持ちは、一気に空に立ち昇り、あたりの雲に紛れ、光を浴び、キラキラとした高揚感に変わってしまった。
強烈な体験だった。

ーー恋に落ちた瞬間だった。

こんなに近くに、こんなに愛おしい飲み物があったなんて。

その後のことは、言うまでもない。
恋に落ちるというのは、より知りたいという気持ちでもある。

恋煩い。
傍から見れば病的なのめり込み方だったと思う。
それから毎日、僕は、家でコーヒーを飲み、外へコーヒーを飲みに出掛け、コーヒーのことを調べ、喫茶店やコーヒースタンドで働いたりした。

そして、飲めば飲むほど、知れば知るほど、淹れれば淹れるほど、愛すれば愛するほど、コーヒーの奥深く知り尽くせない語り尽くせない世界に迷い込んだ。

コーヒーは宇宙なのだ。

ノイズとコーヒー|#1 恋に落ちる columm_190820_noiseandcoffee_02

この季節になると、その時のことを思い出す。
今ではコーヒーと音楽が生活の中心にある。
恋は、一瞬にして世界を変えてしまう。

最後に。
僕は最近、西荻窪の『それいゆ』に再び恋をしている。
過去に毎日のように通っていた喫茶店だ。

今回の原稿はすべて『それいゆ』で書いた。
この店の何処が好きなのかを説明するのはとても難しい。

強いて言葉にするのならば、調和だろうか。

ダッチコーヒーの器具。トーストの焼ける匂い。入れ替わる人々の動き。店内に漂う歴史を孕む空気。そういったものが、すべてがうまく馴染んでいる。
調和の取れている場所で人はリラックス出来る。
そして想像力は無限に膨らむ。

もし近くに寄る用があったら是非。

ムラカミ カイ