lyrical school・hanaのコラム『“スキ”は細部に宿る』第15回「生きるを魅せる」。hanaが出会った古今東西の“スキ”を掘り下げていくとともに、撮り下ろし写真も掲載。出会った時、靄のかかった生活に光が刺すようなその一文、一瞬、一枚を紹介していきます。(Qetic編集部)
この世には魅力的なものが溢れていて、私たちはそれをコレクションしたり、手放したりしながら生きている。特にSNSでは、無意識に膨大な情報を取捨選択して、日々の暮らしに活かしている人も多いだろう。
ふと目に留まったものに対して、これ何か良いな、と思うものがあればいいねボタンを押したり、ブックマークに追加してお気に入りのものを収集する。しかし、その一連のムーブはほんの一瞬の出来事で、後から見返そう、と思っていても、いつの間にか新しい情報に掻き消されて忘れてしまうことばかりだ。
計算され抜かれて一瞬だけ惹きつけられるようにできたコンテンツなど、流し見すること自体が目的の情報も今は多くを占めている。しかし、その背景や意味までもしっかりと受け取って、心を動かされて、実際に影響を受けているものは、私たちが毎日触れている情報の何%くらいになるのだろう、と時々思うことがある。
作り手の表現したいことを、しっかりと感じ取れていると確信を持てるもの。
いくつかあるが、私にとってその中の一つは、オーディション番組「The Voice」に出演したのをきっかけにデビューした、シンガー・ソングライターのMelanie Martinezの音楽だ。彼女の作る物は、沁み込むように身体にスッと入ってくるような感覚になる。
先日、豊洲PITへ彼女のライブを観に行った。「死」「再生」「変容」をテーマとしたアルバム『PORTALS』を引っ下げてのツアーの初来日公演だった。
Melanieとの出会いはYouTubeのアルゴリズム。
サムネイルの、画面越しの人々を睨みつけるような姿が目に留まり、デビュー曲「Dollhouse」を知った。可愛らしく非現実的なビジュアルとは裏腹な人間味に溢れた歌詞に惹かれ、すぐに彼女のことを知りたくなり、いつしかファンになっていた。そして、高校生の頃にニューヨークで、ファーストアルバム「CRY BABY」のツアーを観に行った(以前ニューヨークに行った話をしたが、それは彼女のライブを観に行くためだった)。
今回、七年ぶりに彼女のライブを観て、新しい物好き且つ飽き性な私が何故いつも彼女の作品に心を奪われるのかが分かった。
長く続いていく中でも現時点でのスタイルにこだわることなく変化し続けていて、その生き方がアーティストの活動を通して体現されているからだ。
そしてより、ビジュアルに彼女の楽曲に対する想いが高い解像度で反映されるようになった。
ファースト・セカンドアルバムでは生身の、いわゆる人間の姿でのMelanieとして活動していたが、最新アルバムでは目が四つ付いているマスクを被り、全身ピンク色のタイツを纏った、人間とはかけ離れた新しい姿で登場した。彼女が特集されていたRolling Stoneのインタビューで私が解釈したことだが、これは、彼女が前二作品で続けてきたシリーズが三作品目で終わりとなることを意味していて、彼女が続けてきたストーリーの終焉、そして次のステージへと向かうポジティブな「再生」を意味しているのである。
自分の美学を貫き通しながら、オーディエンスにもしっかりと届けることができるカリスマ性。
アーティストとして表現したいことは変わらずありながらも、アップデートし続けている姿を見てエネルギーを受け取ることが、自分がカルチャーに触れる時の幸せなんだな、と気づいた。
先日観たライブでは、初来日ライブにもかかわらず、豊洲PITを埋め尽くすファンたちが全力でシンガロングをしていた。それはとても壮観な光景で、自分だけにしかない世界観を魅せて、オーディエンスがそれを全力で受け取っている空間は、本当に眩しかった。
彼女のことを眺めていたら、これやりたい、あれやりたい、と頭の中で思い描いているだけではいけない、ダラダラと生きている場合ではない、と思わされる。
彼女が詞に刻んだり、形にして現す美しさ、繊細さ、そしてきっとそれらが生まれるきっかけとなる怒り、苦しみ、悲しみ。私にとって全てのエネルギーの原動になる存在で、彼女の表現に触れることが、今生きていることへの祝福、そしてカタルシスだ。
自分の生き様を、自分なりの方法で届けることができる人はかっこいい。そして、それを素直に受け取るための気持ちも日々大切にしていきたい。