1994年、音楽業界は新しい才能に溢れていた。
イギリスからはオアシス(Oasis)がデビューし、アメリカでは、グリーン・デイ(Green Day)がメジャーデビューを果たし、ナズ(Nas)などの新しいラッパーが登場したのもこの年だった。
新世代のスターたちが名を挙げる中で、ガーナ出身のアタ・カク(Ata Kak)も同じ年にデビューした1人。だが、当時彼の事を知る者は誰もいなかった。それもそのはず、CD全盛期の時代に彼がリリースしたのは、手売りのカセットテープ、わずか50本だった。
奇跡のミュージシャン アタ・カク
1960年9月29日、ガーナの首都アクラに次ぐ大都市クマシで双子の弟としてアタ・カクは生まれた。幼少時代のアタ・カクは、ガーナの多くの子供達がそうだったように、道端に落ちている木の枝などでドラムの真似事をして遊ぶ、音楽少年だった。
やがて、高校を卒業し、地元のバーで働き始めた彼は、当時ガーナのミュージシャン達が挙って演奏をしていたハイライフやジャズなどの音楽に出会う。
私生活では、妻メアリーとの間に子供が生まれたため、働き詰めの毎日を送る中で、毎晩のように演奏をするバンドに心を奪われていった。
だが1985年、経済的な混乱を迎えていたガーナでは、外国へ移住をする人々が後を絶たなかった。アタ・カクも妻と子供を連れてドイツへと生活の場を移す事となるが、新天地での生活は苦労の連続だった。
雑用仕事をこなしながら家族を養い続けたアタ・カクに転機が訪れたのは、彼に2人目の子供ができた頃。友人から地元のレゲエバンドのサポートドラムを依頼されたのだ。まともな音楽経験はなかったが、アタ・カクはこの話を引き受けた。
そして、この日から自宅のダイニングテーブルでドラムの猛特訓を開始。手さぐりながらバンドのメンバーとして活動を始めると、5週間程でドラムをマスター。バンド内でもその存在感を示し始め、ボーカルまで任せられる様になった。
1989年、より良い生活環境を求めたアタ・カクは、家族を連れてカナダ・トロントへと移住を決意。清掃員や運送業、工場員など職を転々としながら、家族を養う為に働き続けた彼は、ここでも地元のバンドに参加してドラムを叩き続けた。しかしこの頃、彼が夢中になっていたのはディスコやR&B、ヒップホップなどの新しい音楽であったが、ガーナ出身の彼に求められたのはハイライフの演奏だけだった。
カバー曲ばかりを演奏するバンド活動の中で、次第に理想の音楽制作へと思いを馳せる様になった彼は、オリジナルソングの制作を提案したが、彼の意見に賛同するメンバーはいなかった。
アタ・カクに3人目の子供ジェフリーが生まれた頃だった。