バンドに見切りをつけたアタ・カクは自分の理想の音楽を作るために、なけなしの金でシンセサイザーやドラムマシーン、ミキサーなどの中古機材を買い込んだ。作曲経験のない彼は、自分の耳だけを頼りに作曲を開始。半年以上の試行錯誤を繰り返し、レコーディングをスタート。初めは英語でラップもしたが、うまくいかずに母国語を選んだ。

そうして完成した彼のアルバムは『オバ・シマ』(愛しい人)と名付けられ、これまでに影響を受けてきた、ハイライフ、レゲエ、ファンク、ヒップホップなどをごちゃ混ぜにした、まったく新しい音楽となったのだ。

しかし、理想の音楽を完成させたアタ・カクであったが、いざリリースとなると問題が生じる。機材費に全財産を使ってしまった彼には金がなくなっていたのだ。

そこで、ジャケットのデザインはガーナに住む兄にお願いし、用意できたのは、わずか50本のカセットテープのみ。

1994年、現在の様にインターネットが普及していない時代で、自主リリースされた『オバ・シマ』は、その殆どがガーナで売られたが、実際売れたのは3本ほどだったという。

そして、アタ・カクはこのリリースを最後に、消息が途絶える。

1994年リリースの「オバ・シマ」

奇跡的に発見された『オバ・シマ』

『オバ・シマ』のリリースから8年後、シカゴの大学で民族音楽学を専攻していたブライアン・シムコヴィッツは、ガーナに滞在していた。研究の為に、ストリートに並ぶベンダーから大量にカセットテープを買い込んでいた彼は、その中の一つとして『オバ・シマ』を購入。

シムコヴィッツにとってそれは、ただカラフルなデザインのカセットテープだったという安易な理由からだった。実際、彼がこのテープを聴くのは何年も後の事になる。

2006年、旅を終えたシムコヴィッツはブルックリンで生活を開始した。帰国後、ガーナで買い漁ったテープが収納されたトランクを何年も放置していた彼であったが、引っ越しの際に何気なく開けると、あのカラフルなカセットテープを手に取った。

シムコヴィッツは軽い気持ちで、テープを再生すると衝撃を覚えた。『オバ・シマ』は、これまで彼が触れてきた、どのジャンルにも当てはまらない音楽であったからだ。

「まるで違う惑星の音楽」。

シムコヴィッツはアタ・カクの音楽をそう形容した。

興奮を抑えられないシムコヴィッツは、自身のブログ『Awesome Tapes From Africa』を立ち上げ、『オバ・シマ』を公開した。

すると、すぐに音楽ファンの間で話題となり、アタ・カクはインターネット上で騒がれ始めたのだ。シムコヴィッツはアタ・カクを探し出し、再リリースしなければならないという使命感に駆られたが、注目を集める一方で、彼の存在はミステリアスなままだった。

そして、シムコヴィッツはアタ・カクを探し出し、再リリースの交渉をするために、再びガーナと飛び立ち、ベンダーやミュージシャンに聞き込みをし、街中にポスターを張って情報を呼びかけた。しかし、彼を知る者に出会う事はできなかった。

諦めきれないシムコヴィッツはカセットテープの裏にあるエンジニアの電話番号を調べ、それがカナダ・トロントのエリア番号である事に気がつくと、2014年1月、彼は電話番号のエリアコードのみを頼りにトロントへと飛んだ。だが、ここでも彼は手がかりさえ見つけられないまま、帰国を余儀なくされた。

シムコヴィッツは、もうアタ・カクの捜索を諦めようとしていた。しかし、帰国した彼が何気なくフェイスブックを開くと、一通のメッセージが残されている事に気がつく。それは、ジェフリーという24歳の男性からだった。

ジェフリーは、トロントで看護の勉強をする学生だった。彼はある日、アタ・カクがネット上で騒がれている事に気がつき、ブログの投稿主であるシムコヴィッツにメッセージを送ったというのだ。そして、連絡を取ったシムコヴィッツは驚きを隠せなかった。彼はアタ・カクの息子であるというのだ。

ジェフリーによると、アタ・カクは『オバ・シマ』をリリースした後、妻メアリーのビザトラブルで、ガーナに帰国したという事。そして、ジェフリーはトロントに残って生活を続けており、今も父親と頻繁に連絡しているという事だった。

シムコヴィッツは、アタ・カクの電話番号を手に入れると、すぐに電話を掛けた。カセットテープを購入してから12年目の出来事だった。

オアシスがデビューした年に「奇跡のカセットテープ」をリリース、謎の男アタ・カクの現在 1703_usa-post_05-ata-kak-1-700x980
現在のアタ・カク