2023年9月、UKダブ界のレジェンド・プロデューサー、エイドリアン・シャーウッドAdrian Sherwood)と共に来日し、国内ツアーを開催したアフリカン・ヘッド・チャージAfrican Head Charge)。ツアーでは国内からはGEZANも登場し、それぞれのダブを披露して観客を熱狂の渦に巻き込んだ──あの灼熱と興奮の9月は、本当に一ヶ月前のことなのだろうか?

ツアー直前、アフリカン・ヘッド・チャージのフロントマン、ボンジョ・アイヤビンギ・ノアに話を訊くため、渋谷へ向かった。トピックは最新作『A Trip To Bolgatanga』について。「ボルガタンガへの旅」の話は、ボンジョが人生をかけて探求してきたドラミングと、それにまつわる歴史や思想についてまで、掘り下げられていった。

話の聞き手は日本のレゲエ・クイーンPUSHIMの最新作『Dialogue』や新鋭レゲエバンドASOUND、レゲエディージェイのホープZENDAMANの作品プロデュースでも知られ、ジャマイカと東京を拠点に置くプロデューサーレーベル〈MEDZ MUSIC〉のプロデューサー/ベーシストのCHALLIS、A&RのMaasa Sano。2人が自己紹介すると、ボンジョは「君はレゲエ・ミュージックを作っているのかい?ヤーマン!」と応え、流暢に話をはじめた。

INTERVIEW
African Head Charge

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──取材の直前までアルバムを聴いていて、タイトル通りアフリカにトリップしていたような気持ちです。そして、何より音楽から生活が見えました。実際、どういう生活を送っていたんですか?

アフリカにはとても多くの言語やドラムのスタイル、ダンス、生活が溢れているんだ。アフリカに降り立った時、私は赤ん坊のような気持ちでそのすべてを熱心に吸収していった。ガーナのアクラに住んでいた時は、そこにいた人たちからドラミングとダンスの様式を学んだ。アシャンティの中心的な都市、クマシに行けば、また別の表現がある。そういった多種多様な文化を見て学んでいった。そしてボルガタンガへと渡り、フラフラ族とコロゴと呼ばれる2弦ギターに出会うことになる。これらの文化や技術をパンデミックの間に習得して、作品にまとめたんだ。100歳になろうと、学ぶことに年齢は関係ないよ。私のコロゴの技術はまだ作品で披露できるレベルではないけど、このアルバムではキング・アイソバが2曲弾いてる。アルバムのオープニングナンバーもそうだ。

──旅で印象に残っていることは?

ボルガタンガの後、ブルキナファソに向かった。ボルガタンガは大変暑い。街にはプールがあって、どこでも泳ぐことができた。暑さを感じてプールに飛び込んでも、プールから上がるとすぐに乾いてしまう。その感覚が大好きで、ジャマイカのフィーリングに近いものを感じた。ボルガタンガは人々がとても楽しそうで、多くの人がモーターバイクを乗りこなしていた。ムスリムをはじめ色んな人がいるけど、その違いはどうでもいい。ラスタである私にとって、最も重要なのは清廉に生きること。ボルガタンガに住めば、たちまち楽しく暮らすことができる。

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──ラスタのマインドと通じる部分があるんですか?

そうだね。西アフリカから多くの奴隷が運ばれる中で、ボルガタンガの人々も多く連れて行かれた。なぜなら彼らは体が大きく、体が強かったから。そしてボルガタンガの人々は厳しい労働を課せられた。彼らはタフだったんだ。

──そのタフな感じはアフリカンビートに表現されているのでしょうか?

そう。彼らのダンスに表現されていると思う。特に肩を使うダンスはとてもアグレッシブだ。アシャンティの人々は優美に踊るが、ボルガタンガの人々はタフでエネルギッシュに踊る。

──そういった部分から影響を受けて完成した作品なんですね。

そう。それはボルガタンガに限らず、アクラをはじめとしたガーナのあらゆる場所から影響を受けた。私は多くの部族と出会い、点在する多くの部族から学びたい。コンゴ奏者もガーナ出身で、彼らはアクロバティックで、エンターテイメント精神に長けていた。特にドラムはアフリカから影響を受けていて、それは奴隷主が「プレイを止めるな」と奏者に指示をしていたことに由来する。

幼い頃はジャマイカにあるポコ(ポコメニア|アフロ・クリスチャン教会)に行くと、伝統的なドラムを学ばせてもらえた。そこで学んだことが多いね。ただジャマイカはカトリックの力も強いから、ポコで学ぶようなドラミングは悪魔的なものだから叩くべきじゃないと非難されることも多かった。だが、集会をまとめていたマザー・ヒバートという人物は理解があって、私はそのドラムを学ぶことができた。

その後、私がロンドンに行ってアフリカのバンドとプレイをしていた時、アフリカ出身のプレイヤーばかりの中で、ジャマイカ出身だった私のプレイはファンキーだったと気づく。そして私はフェラ・クティと出会い、彼から多くのことを学んだ。それは「演奏する時は、ひたすらリピートしろ」ということさ。リズムを構成するパートの一つとして、ドラムは機能し続ける。そうして私の今の音楽の土台ができたのさ。

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──僕もナイヤビンギの集会でベースを弾いた経験があります。ドラミングは神様に捧げるような意味も持っていますよね。

その通り。ポコのドラミングはとても速い。1930年にハイレ・セラシエがやってきた時、ラスタマンたちはポコのフレーズはスローに演奏した。ナイヤビンギのドラムはクミナというポコのドラミングに由来しているんだ。

ただジャマイカ人はその音楽を望んできたわけではない。あまりに黒く、アフリカらしすぎるからあまり好まれなかったが、私はそれが全てだとは思わない。なぜなら、私はそのドラミングが好きだから。カトリックや他の教会に行くとドラムは聞こえてこないが、ナイヤビンギやポコではドラムを聞くことができる。私はドラムに導かれてきたといっても過言ではない。キングストンではカトリックの方面にも興味を持ったが、好みではなくやめた。魂がそれを欲していなかったから。私の魂が欲していたのはドラムだったんだ。だから、11歳で学校に行くこともやめた。

生まれ故郷のクラレンドンとは違い、キングストンには家族がいなかった。だから学校を出た後、私は誰かの家やどこかの墓地で寝たりしていた。若い頃の私は恐れ知らずだった。1960年代初頭で11歳か12歳の頃、私はバッグと短刀を持ってとある丘に向かい、そこでアキーの実を摘んで、それを女性に渡してお金をもらったりもしていた。他の人はその丘へ行くことを恐れていたが、アキーの実を4ペンスで売って、私は生活していた。ジャマイカが1962年に独立したことに似ていて、私もインディペンデントな活動をしていたんだ。その時にはポコが大好きで、カリンダ(*黒人の労働歌)に共感したり、キャンプに参加したりもしていた。私はラスタの第一世代で、そこにはレナード・ハウエルなどのラスタファリアニズムのオリジナルメンバーもいた。それに、ラスタを導いてきたクラウディアス・ヘンリーたちは私の祖父母のような存在で、彼らに色んなことを質問して、多くのことを学んだ。それこそ真に学んだことのひとつは「私たちは神である」ということ。神を見たければ鏡を見ろ。創造する力こそ神の力で、創造する力は太陽であり、月であり、水であり、風であり、地球でもある。万物は創造する力より生ずる。そして同時に、それは特別な人間を養成する。ラスタ・ムーブメントは痛みからの救済を目的としていて、それはあらゆる意味において、心身の隷属からの救済でもある。

痛みを治癒する前に、救済をされるべき。もしあなたの祖父母に何か悪いことが起きれば、それは次の世代に影響が及ぶ。ラスタはその救済を行うために必要なんだ。私はそういう教えのもとに育った。ラスタやポコの人々とずっと一緒にいた時、私は悪い子供だったかもしれないが、ラスタの考えが大好きだった。教会に通うのは7歳で辞めてしまった。行きたくないし、歌いたくもなかった。なぜなら、私はポコの教会に行きたかったから。私にとってそこは天国のような場所だった。

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──ありがとうございます。ボンジョさんにとって、自分のルーツであるアフリカン・ミュージックを辿って表現した音楽をダブにするのはどういう意味があるのでしょうか?

私はレゲエ・ミュージックの中でアフリカン・ドラムをやりたかった。多くの人々にとってはそれが受け入れられなかったが、私は納得していなかった。けれども、ダブがその融合を成し遂げたんだ。ダブを本当に愛しているよ。そうして私がやるべきことを成し遂げた。エイドリアンのような人と出会えたのは本当に幸運だったよ。彼は実験が好きなんだ。ほとんどのプロデューサーはやらない、レゲエの中にアフリカン・パーカッションを入れるという普通じゃないことを、私はやりたかった。

──ボンジョさんの話を聞いて、日本でレゲエをプレイしている私たちにも本質的に通じる部分があると思いました。

音楽は精神的であり、身体的でもある。人々は音楽を、アートとしてプレイしない時もある。つまり、音楽を音楽として演奏すると言ってもいい。でも、音楽を演奏する時、精神と魂、身体がそこに存在している。音楽を聴いてリラックスする時、それは治癒でもある。ダンスを踊ることにはまた別の効用がある。そしてドラムには、それら全てがある。

私は自分の音楽的なキャリアについて計画を立ててきたわけではなくて、偶然でしかない。私は学校ではなく、偉人の模倣をしながら、演奏する中で全てを学んできた。11歳で学校を辞めてからは、ドラムが私の人生になった。ある時にはオーディションに行くこともあったし、新聞で募集していたコンゴ奏者の求人に行くこともあった。仕事はまちまちだったが、ジャズの現場で演奏する仕事をもらった時もあった。ジャズには即興のソロがあって、他の人が私にその時間を振ると思って、一日中勉強したこともあった。その日の夜、ステージに立ってソロを演奏したことは40年経った今でも忘れられない。そんなに稼ぎは良くなかったけどね。私は今でも学び、練習を続けている。レゲエをプレイすることは私の一部だが、人々がすでに成し遂げたことではなく、何か別のことをやりたいと思っているよ。

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──ボンジョさんの人生はドラムに導かれていますね。これから向かう未来はどういった道になると思いますか?

異なる民族について学び続ける。今度はアフリカに行ってエウェ族について学ぶ。次のアルバムはエウェ族やまた別の場所への旅になると思う。他のドラミングについて学びたい。そしてそこでの出来事を人々にシェアする。それがやりたいこと。

──ドラムの旅はこれからも尽きることはなさそうですね。

ナイヤビンギやフンデ、サンダードラム、ケテドラムも、幼い頃に教わった。そしてポコのドラミングを習ったが、まだまだ多くのドラミングが存在している。年齢なんて関係なく、何歳になっても学びを続ければ、それが生活の助けになる。もっと学ぶ。学び続けるよ。日本にも色々なドラミングがあるから、ぜひ学びたいと思っているよ。ドラミングにおいて一番大切なことは先祖の存在を感じられることなんだ。自分がドラムを叩いていると、周りに先祖が集まって、一緒にドラムを叩いているような気持ちになるから。

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聞き手:MEDZ MUSIC(CHALLIS/Maasa Sano)
写真:changsu
通訳:長谷川友美
編集:船津晃一朗

INFORMATION

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A Trip To Bolgatanga

2023.07.07(金)
African Head Charge

国内盤CD Tracklist
1. A Bad Attitude
2. Accra Electronica
3. Push Me Pull You
4. I Chant Too
5. Asalatua
6. Passing Clouds
7. I’m A Winner
8. A Trip To Bolgatanga
9. Never Regret A Day
10. Microdosing
11. Flim 18(Bonus Track)

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