――そうなんですね。カルロスさんはこれまで坂本龍一さんや、『ゲド戦記』のサウンドトラックなど日本人アーティストや日本の現場でも制作をされていて、そこで感じた日本の特徴的な面を知りたいのですが。
日本の人たちはみんな素晴らしい人たちばかりで、いい体験をしたと思う。制作に携わる人たちはそれぞれ違った役割を持っているんだけど、そのひとりひとりが僕の演奏するケルト音楽というものに対して、モダンな考え方を提供してくれるんだ。それはコンサートでも同じことで、いつも日本に来ると新しいことをやらせてもらえるというか。
――何か具体的に覚えていることはありますか?
たとえばリュウイチ・サカモト(坂本龍一)とは、僕の音楽はケルト音楽のはずなのに、同時にとても日本の音楽のような不思議な感覚があったんだ。でもそれはどの国の音楽とコラボレートしてもそうで、フラメンコならフラメンコのミクロコスモスが常に生じるような感覚を得ながら演奏しているような気がするし、日本人と演奏する時は日本的なミクロコスモスが生まれる、そんな感覚を持つことができるんだ。
――ガイタがヒエラルキーから自由な楽器であるということを証明していますね。ところで、先ほどのカルロスさんがお子さんの頃、自分の演奏で大人を踊らせたというお話を訊いて、もし最初に手にした手段がエレクトロニクスだったら、非常に優れたダンスミュージックのトラックメーカーになったかも? と今、想像してしまいました。
ダンスミュージックか…それはわからないけど、ガイタを吹く前にロックを歌って踊ったりしていたから(笑)、ある意味ではガイタはエレキギターになり得ると思うよ。あるアメリカ人には「キミはガイタのジミ・ヘンドリクスだね」と言われたことがあるし。でも、ジャンル云々でなく、僕が演奏する時には聴いてくれる人とたくさんのポジティヴなエネルギーを交換したいと思ってる。アーティストの中には…たとえばギタリストのパコ・デ・ルシアはフラメンコというのはもっと自分の内なる苦しみを秘めて表現しているものだということを教えてくれた。音楽というものは苦しみも謳いあげるものだ、と。その一方でポジティヴな思いだけを表現するものもあるわけで、僕はそれがガイタだと思ってる。だから僕のガイタの音色で「何かが変わった」と思ってもらいたいんだ。