台湾では2000年代前後から芸術性と大衆性を兼ね備えた女性シンガーソングライターの才能がどんどん開花して、シーンを賑わせている。彼女たちの特徴は、どんなステージでも、自己を誠実に表現すること。そして、一度のライブで人の心を掴む実力を持っている。

中でも、歌詞の文学性と抜群の歌心で存在感を放つのは、イーノ・チェン(鄭宜農、以下「イーノ」)。

日本で言えば大森靖子、黒木渚と同世代にあたるイーノは、映画監督の父、チェン・ウェンタン(鄭文堂)の監督作品『Summer’s Tail 夏天的尾巴』への主演と音楽制作をきっかけにデビュー。ファーストアルバム『海王星』(2011)以来、これまで4作のアルバムをリリースしている。

最新アルバムの『水逆 Mercury Retrograde』(2022)は、台湾で最も注目されるポップミュージックの音楽賞、ゴールデン・メロディー・アワード(金曲奨)で受賞し、2023年にリリースしたシングル「金黃色的 golden」もゴールデン・インディー・ミュージック・アワード(金音創作奨)で高く評価され、表彰された。

イーノがこのたび、11月3日(木・祝)に行われたアジア音楽のライブサーキットイベント<BiKN shibuya 2023>にアコースティックギターの弾き語りで出演した。どこから彼女の評判を聞きつけたのか、初来日にも関わらず会場の渋谷 7thFLOORには多国籍のオーディエンスが満員に押し寄せた。一部の観客は、外廊下のガラス越しに彼女の姿を一目見ようとするほどであった。

俳優、作家、歌手とマルチに活躍し、台湾LGBTプライドパレード(臺灣同志遊行)でパフォーマンスをするほどの存在感を放つイーノに訊きたいことは山ほどあった。しかし今回は初めての取材でもあるので、作品づくりの世界観や最近考えていることについて聞いた。

鄭宜農 Enno Cheng –〈 咱/us 〉Official Music Video

創作の中心が自分から聞き手にスライドしていった

──今年のゴールデン・インディー・ミュージック・アワードの受賞スピーチについてもう少し深堀りさせてください。イーノさんの音楽創作の概念について「一つ一つの曲は部屋であり、曲を聞く人はその部屋の中で自分の居場所を見つけられたらいい」という主旨でしたが、はじめからそのスタンスで創作していたのでしょうか。

イーノ 実ははじめから楽曲制作についてそのように考えていたわけではなかったんです。私はこれまで16年間創作を続けてきましたが、ファーストアルバム『海王星』(2011)の頃は、この世界に伝えることができない多くの思いを全て曲に込めるつもりで創作し、インスピレーションは常に自分の中にありました。

──では、今の考え方に至る転機はいつ頃訪れたのでしょうか。

イーノ 2013年から2015年の間、Chocolate Tiger(猛虎巧克力)というバンドでステージに立ち始めた頃からです。「私はステージの上にいて、お客さんはフロアにいる。皆がここで一緒に叫び、踊り、汗をかく理由。それはなぜ?」という小さな疑問が湧いた瞬間があって。

──ファンの熱量に触れたことが、探求のテーマをもたらした。

イーノ そしてある時、誰かが私の歌を好きになってくれたとき、その人は歌の世界に自分の場所を見出そうとすることに気づいたんです。曲は単に作品というだけではなく、ある意味、一つの空間であり、共感の場であると。

「心の傷跡も自分自身と受け止めて」|イーノ・チェン インタビュー interview231226-ennocheng-02

──2023年から見て当時の作品をどう評価していますか。今の自身の音楽の出発点になったと考えているのか、それとも今の音楽性とはあまり連続していないものでしょうか。

イーノ 私の過去の作品は、3つのステージに分けられると思っています。第1段階は、ファーストアルバム『海王星』の頃で、創作の中心は自分であり、未知の要素が溢れている時期でした。第2段階はChocolate Tigerで活動していた頃で、聞き手との距離を意識すると同時に、バンドメンバーを含めさまざまなクリエイターと制作をすることで、多くの学びを得た時期でした。

──Chocolate Tigerでアルバムを出した後、ソロ名義でもElephant Gymや阿爆 ABAOをはじめ、多くのクリエイターとコラボレーションしています。Chocolate Tiger時代の学びで今につながっていることはありますか。

イーノ バンドがうまくいく方法と、個人の創作がうまくいく方法はまるで違うということです。仲間と一緒に作った音楽は自分では制御できないことも多いからこそ、その完成形には計り知れない神秘性があるんだな、と。

──そして今、第3段階はどんな時期ですか。

イーノ ソロ名義のセカンドアルバム『Pluto』(2017)以降現在にかけて、個人の活動へ回帰した時期です。曲の主語が自分から聞き手に完全にスライドし、さまざまな立場で悩みを抱える若い世代も含めた聞き手が心を委ねられる、1つ1つの空間をつくるつもりで制作しています。それと同時にアルバムをコンセプチュアルに制作し、制作期間は設定したコンセプトと徹底的に向き合うというやり方をしています。

──では、最新アルバム『水逆 Mercury Retrograde』について改めて教えてください。

イーノ 『水逆 Mercury Retrograde』の大きなコンセプトは2つあり、「コミュニケーション」「台湾語(※)での創作」でした。というのも、私は昔からコミュニケーションについて様々な悩みや癖を抱えていたので、制作を機にじっくり向き合うことにしたんです。『水逆 Mercury Retrograde』の制作を通してコミュニケーションと徹底的に向き合うことで、今はその悩みを通り抜けた自分になっています。

※編集注:台湾の公用語は台湾華語(標準中国語)だが、中国福建省にルーツを持つ台湾語も話されている。台湾語は、標準中国語と同じ字体(繁体字)で、読み方が異なり、語彙が一部異なる。音楽シーンにおいては、一人のアーティストがアルバムや楽曲によって、標準中国語と台湾語を使い分ける場合もある。近年ではインディーズアーティストでも、台湾語で創作する動きが広がっている。

──ゴールデン・メロディー・アワードで「ベスト台湾語アルバム賞」を受賞したことからも、台湾語と向き合うことにも一定成功されたのかなと思います。そして『水逆 Mercury Retrograde』を語るのに欠かせないのは、プロデューサーのChunho(何俊葦)さんの巧みなサウンドクリエイティブで、イーノさんの声の魅力がまた一つ開いたという感覚があります。

イーノ 私の頭の中には表現したいことが漂い続けているけれど、その世界を精緻に描くには、私の制作力では足りない。いわば「脳はあるけれど、うまく動けない」という状態に対して、チュンホーは彼の技術力で手・足を担うことで、作品の世界が完璧なものに近づきました。

──音楽仲間として長い付き合いでもあるんですよね。

イーノ 音楽に対する考え方や、個人的な悩み──今回のアルバムでいう、「コミュニケーション」の課題──も似ているんです。その悩みに対して私は作詞作曲者として乗り越え、Chunhoは、声の活かし方や制作の技術で乗り越えるというプロセスでしたね。

──それによって、概念と表現方法の両輪がうまくはまった作品になったと。

イーノ そして私たちの一番の共通点は「決して他の人と同じことをしたくない」ということです(笑)。同じ方向を見ているけれど、異なる力を持った私たちが同じテーマに取り組めば、一人でやるよりも勇気を持って前に進むことができます。これからもChunhoとコラボレーションを続けていくつもりです。

自分を生きることとは、自分に優しくすること

──今回来日のきっかけである音楽サーキットフェス、BiKN shibuya 2023は、アジアの連帯をテーマにしたイベントです。イーノさんがアジアの台湾で生きる1人の女性として考えていることを教えてください。

イーノ 台湾に生まれて幸運だと思うのは、女性の権利や平等について社会的な考え方が比較的進歩しているということです。目に見える不平等、性差別に遭遇する機会は少なく、海外ではもしかしたら台湾は自由な国として報道されているかもしれませんね。

──日本から見ていると、台湾では女性がより自分らしく生きられるのかな、と時々うらやましく感じることもあります。

イーノ その反面、自由に振る舞っているようでいて、小さな違和感を発散しづらいという側面もあります。こうした違和感が積み重なることで、心の傷や自己否定に繋がることもあります。台湾の女性は一度、「自分は誰? 何に傷ついている?」ということを、立ち止まって考える機会を持てたら良いのかなと思います。

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BiKN shibuya 2023にて
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──2023年リリースのシングル「金黃色的 golden」も、傷跡が一つのテーマになっていますよね。

イーノ 私は昔から比喩表現が好きで、「金黃色的 golden」では皆が持つ心の傷跡について表現しようと思ったんです。まず、英語にルーツのあることわざで、華人社会にも広まっている「沈黙は金」の概念からインスピレーションを得ました。そして、沈黙することは過ちを避けるために重要だけれども、口に出さない言葉が存在しないわけではない、と。

──「沈黙は金」は、実は日本にも伝わっています。歌詞の「黄金の肌の下で ひび割れた瘡蓋(かさぶた)に触れてほしい(我想讓你碰觸我金色的皮膚底下一直裂開的結痂)」の“黄金の肌”とは沈黙によってもたらされた美しさのことなのでしょうか?

イーノ 表面上は穏やかに見えるけれど、実際には不安と、言葉で表現できない瞬間で満ちていることが誰にでもありますよね。そして最終的には、口に出せない傷跡が自分自身の変容をもたらし、より良い自分や次の在り方を形成していく。傷跡によってもたらされた変化の結果が黄金色の自分、ということを伝えたかったんです。

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取材の様子、左がイーノ。撮影場所:studio y

──台湾版 #Me Too運動へ言及するなど傷ついた人への支持を表明する、イーノさんらしいメッセージだな、と。

イーノ 台湾版 #Me Too運動は社会を驚かせる、本当に大きな動きでした。私は私なりの方法で女性たちの心に向き合えたらと思います。来年1月にYouTubeで新しい番組を立ち上げ「女性とこの世界の関係性」というコンセプトで10人の女性のクリエイターをゲストとして招くシリーズを企画中です。9名は台湾で1名は香港のクリエイターです。例えば9m88、?te(Whyte,壞特)、安溥(anpu)を招待しています。

──日本でも名が知られている、旬なアーティストたちです。

イーノ 私はMCとして、ゲストの生活空間や創作の場に足を運び、創作のインスピレーションや女性としての自身について話を聞きます。そうした対話を通して、台湾の女性たちが自分自身を再評価し、自分に向き合うようになれたらと思います。作品づくりとは別の活動となりますが、女性として生まれたクリエイターとして、やりたいことでもあるんです。

──イーノさんの活動からは、すべての人に対して「自分を生きよう」というメッセージが込められているような気がするんですけども、その点についてはいかがでしょうか?

イーノ そうですね、「自分らしく生きる」ということは、自分に優しくすることだと思っています。LGBTQの問題で言えば、台湾は同性婚が認められたという良い側面がある一方、まだまだ生まれ持った性質を否定してしまうことや、さまざまな形の孤独、世代間の断絶など多様な問題があります。重ねてきた傷も自分の一部として認め、前を向いて生きていけるようになれたらいいなって。

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──そうしたスタンスが評価され、台湾の一大イベント、LGBTプライドパレードや公式の場でのパフォーマンスも増えています。

イーノ 実は2019年に台湾の総統府で行われた総統府音楽会で、多くの方の前で演奏する機会がありました。国を挙げた一大イベントでとてつもなく緊張し本番はあっという間に終わってしまったのですが、後日写真を見ると、ステージに立つ自分の後ろには綺麗な虹のイルミネーションがあり、SNSの投稿には多くの人が肯定的なコメントを残してくれていました。

2019總統府音樂會 | 光 (4K)

その流れを見て、「もし私が自分をちゃんと生きることが出来れば、見てくれる人も自分をちゃんと生きることができ、その積み重ねが巡り巡って世界がよくなっていくかもしれない」と感じました。だからまずは私が自分として生きることを率先してやっていけたら、と思います。

──ありがとうございました。最後に、これまでリリースしたアルバムのタイトルは『海王星』(2011)、『Pluto』(2017)、『給天王星 Dear Uranus』(2019)、『水逆 Mercury Retrograde』(2022)と、全て天体の名前がつけられていますが、イーノさんが次に目指すのは、どこの惑星でしょうか?

実は、次のアルバムについては、正直まだ決まっていません(笑)。海王星からはじまり、冥王星、天王星、水星…と、地球をちょっと距離を置いて見つめ、漂いながら、近づいてきました。このまま飛び続けるか、着地するのか。じっくり考えて、次のアルバムのコンセプトを練っていけたらと思います。

──そのイーノさんを、私達は地球から眺めるか、それともあなたを追いかけて飛ぶのか、これからも楽しみにしています。ありがとうございました。

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Text by 中村めぐみ
Interpreter Sonny Chang