――音楽的な意味で、ファーストをレコーディングしていた時、自分たちが非常にユニークな音、ほかのアーティストとは違う音を鳴らしているという自覚はあった?

……ノー。少なくとも、私はそうは感じなかった(笑)。男性陣は思っていたみたいだけど。3人とも自信満々で、その点私は……自分がどう感じていたのか、良く覚えていないわ。でも、繰り返しになるけど、すごく奇妙な立場にあったのよ。確かにいいアルバムが完成したとは思ったけど、彼らは遥かに年上で、私もすでに20代後半で、「こんな老いぼれバンドに誰も目を向けてくれるわけがない!」って考えていたわ。私たちが成功するなんてあり得ないって。結果的には見事に予想が外れたんだけど(笑)。今思うと確かに、非常にユニークなアルバムで、極めて未来志向のアルバムでもあり、未だコンテンポラリーに聴こえて、少しも古びていない。ほかの数組のアーティストたちと一緒に、すごくフューチャリスティックな音を鳴らしていたのよね。

――自分たちの身の回りで何かが起きていると気付いたのはいつ頃でした?

多分、最初のライヴをやった時じゃないかな。非常に慎ましい状況で生まれたバンドで、最初の頃のライヴはすごく規模が小さかったんだけど、わざわざ観に来てくれる人がいたっていう事実そのものが、バンドに何かが起きていると確信させてくれた。無名の新人バンドにとっては、ぶっちゃけ10人以上のオーディエンスを集めるっていうだけで、大変なことだから。なのに私たちのライヴには最初から2百人くらいの人が来てくれて、あの初のツアーを通じて着実に数字を維持して、みんな私たちと対面することにエキサイトしていた。それが私に伝わってきた。人々が話題にしているバンドにいると、空気中に何かを感じることができるのよ。本当にエキサイティングで、クレイジーな時期だったわ。

――ガービッジのブレイクの大きな要因は、フロントウーマンとしてのあなたの存在感でしたが、自分の中にそういうペルソナが隠れていたことには気付いていましたか?

どうかしら。そうは思わないわ。私は多分、自分にはやるべき仕事があると自覚していたのよ。ほら、バンド結成の経緯を考えると、私は3人とコラボするべく選ばれた人間よね。だから彼らの期待に応えたかった。つまり、私にはクリアすべき目標があったのよ。仲良しの友達が集まってバンドをやって、遊び歩いて、適当にライヴをやって、素のままの自分たちをさらして楽しむっていうのとは、わけが違った。このバンドを際立たせ、ほかのバンドから差別化するために自分が頑張らなければという使命感があったの。それに私が大好きなバンドのシンガーやアーティストは、みんな強烈なパーソナリティを備えていた。例えばデヴィッド・ボウイには、長年大きな影響を与えられてきた。そしてスージー&ザ・バンシーズのスージー・スーの熱狂的ファンでもあって、あのふたりは私にとって最大の影響源なのよ。ああいうレベルを目指さなければと常に思っていたわ。ほんと、高い理想を描いていたわけ。だからどういう風に自分をステージ上で提示すべきか、緩いアイデアは頭にあった。とはいえ、ファーストにまつわることは私にとって全て、自分に求められたことを必死に成し遂げようとする苦難の連続だったの。フロントパーソンってみんなそういうものなんだと思っていたわ(笑)。

――じゃあ実際には成功をあまり楽しめていなかった?

そうね、ごく小さな会場でプレイしていた頃は楽しかったわ。ものすごく興奮させられた。何しろあの頃はプレッシャーはゼロだったから。でも成功を手にすると、途端にプレッシャーもやって来る。人々の期待がかかる。そしてネガティヴなレヴューにも出くわして、批評家たちは批判的なことを書き始める。それを私はもろに受け止めてしまったのね。本当に辛かった。元々自己評価が極めて低い人間で、あんなふうに公にネガティヴな意見に直面することは、私には耐え難くて、うまく処理できなかったのよ。しかも私はいわゆる“イット・ガール”になって、あらゆるヒップな雑誌の表紙を飾っていた。それも私を自意識過剰にしたし、ものすごく居心地が悪かったし、成功のそういう側面は愉快じゃなかった(笑)。それに、詮索するような人の目も苦手で、注目されることを楽しんでいなかった。それって不思議なことなのよ。何しろ私は注目を浴びるのが大好きな人間だったんだから。3人姉妹の真ん中だったから、子供時代は両親の気を引くことが自分の存在理由っていうくらいに、目立ちたがり屋だった(笑)。なのに、実際に有名人になって世界規模で脚光を浴びると、ちっとも楽しくなかった。むしろ恥じていたわ。なんだかきまりが悪かった。当時はまさに世界が変わりつつある時期だったから。私の音楽的ヒーローはみんな60~70年代育ちで、四六時中目にするなんてことはなかったのよ。スージーが私の地元でライヴをやるとしたら、前回から1~2年経っていて、その間は『NME』や『Melody Maker』でたまに見かける程度。それ以外に、彼女が何をしているのか、どんな姿なのか知る由はなくて、ライヴを観ると本当にインパクトが大きかった。ほかのアーティストについても同じこと。デヴィッド・ボウイにパティ・スミスにザ・キュアーにエコー&ザ・バニーメンに……。滅多に見られないことが、彼らを途方もなくクールでミステリアスで魅力的な存在にしていたわけ。でもガービッジがブレイクした頃はちょうど、ケーブルTVが普及し始めて、ヴィジュアル・メディアが花開いて、どの雑誌も写真に力を入れていた。まさに90年代に大きく時代が変わったのよ。だからこそ自分の顔があちこちに出回っていることに、きまりの悪さを感じたの。自分でも自分に辟易しているのに、みんなどう感じているんだろうかって思うと、居たたまれなかったわ(笑)。

Garbage – Run Baby Run

――そして色んな問題が表面化していって、00年代後半にバンドは危機を迎えたわけですが、それ以降は順調なんですよね。何が変わったんでしょう? 或いは、何を変えたんでしょうか?

ふたつのことが言えると思う。まず、確かに私たちは危機に瀕した。自らに自信を失い、音楽業界も曲がり角を曲がって、私たちへの興味を失った。もう用済みだって言われたのよ。当時私たちは大手レーベルと契約していて、レーベルはいわゆるクロスオーバー・ポップを作らせようとしたの。ラジオでかかるようにと、ヒップホップのアーティストなんかとコラボして。私たちはそういう試みをしているミュージシャンたちが好きではあったんだけど、会ったこともないラッパーとスタジオに入ってアルバムを作るというのは、自分たちにとってオーセンティックではないと感じた。何かが間違っているように思ったし、人をバカにしていて、計算高いやり方だと思った。そういうことはやりたくないとレーベルに伝えたの。じゃあ、私たちにもう未来はないし、これ以上一緒にやっても意味がないっていうようなことを言われたわけ。私たちは道義的に正しいことをしたいんだけど、このビジネスにおいては“道義的に正しいこと”は無意味なのよね。“道義的に正しいこと”を選ぶと逆に罰せられるわ(笑)。そんなわけでまさに、ひとつをとればひとつを失うという厳しい選択だった。勝ち目はなかった。自分たちが長年掲げてきた信条をことごとく踏みつけてバンドを切り売りするしか、生き残る道はないと言われたんだから。しかも、それを実行したからといって成功する保証は一切なかった。自らを裏切って成功するか、自分たちが身を置くビジネスそのものに潰されるか、そういう選択しかなかった。で、メンバーも対立したし、お互いにフラストレーションを抱いて、すっかり狼狽えて絶望的な気分に陥った。全員が精神的に落ち込んでいたと思う。「続けることに何の意味があるんだろう?」と思っていた。でもそうしているうちに時間が経って、「だから何なのよ!私たちは音楽を作りたいだけだし、ナンバーワンなんか欲しくない。レコードが売れようと売れまいと、誰が気にするの? ミュージシャンであることを楽しみましょうよ」って考えるようになった。それが私たちの出発点なんだから。一旦そう決めたら、全ての苦しみや迷いは消え去ってしまったわ。どっちみちすでにレーベルと袂を分かっていたし、やりたいことをできる状況にあった。誰にも縛られていないっていうのは、最高の気分だった。好きなように音楽を作ってリリースできて、結成から20年も経ってこういう恵まれた環境にあるバンドはそう多くはないから、本当にありがたいことだわ。

――新作には着手しているんですか?

ええ。実は次のアルバムはレコーディング済みで、1月にミックスする予定なの。だからうまく行けば、春頃にはリリースできると思うわ。

Garbage – The Trick Is To Keep Breathing

interview & text by新谷洋子

RELEASE INFORMATION

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