フランシス・フォード・コッポラの孫であり、ソフィア・コッポラの姪。名門一家の新星ジア・コッポラが監督・脚本を務めた映画『メインストリーム』が10月8日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショーとなる。
そこで、今回Qeticではジア・コッポラ監督にリモートでのインタビューを実施。最新作に散りばめられた敬愛する作品へのオマージュから、映画のテーマでもあるSNSとの関わり方など、大いに語ってもらった。
※本記事は映画『メインストリーム』のいくつかのシーンに対する具体的な言及を含む内容となっております。あらかじめご了承下さい。
INTERVIEW:
Gia Coppola
90年代を代表する学園映画『シーズ・オール・ザット』(1999)と今年作られた男女逆転版リメイク『ヒーズ・オール・ザット』(2021)の大きな違いのひとつは、学内の人気者が実際は慎ましい家に暮らしていながら、ソーシャルメディア上では裕福なライフスタイルを装ってフェイクな理想像を作り上げていることだっただろう。現代を舞台にするということは、クリック数や「いいね」の数で価値が評価される時代を反映させなければならないのだ。
オンラインで承認欲求に駆られて有名になりたがるインフルエンサー社会を映した作品が、フィクション(『イングリッド ネットストーカーの女』(2017)、『スプリー』(2021)など)からドキュメンタリー(『アメリカン・ミーム』(2018)、『FYRE:夢に終わった史上最高のパーティー』(2019)など)まで近年増加している。今日では、ソーシャルメディアによって、アンディ・ウォーホルが唱えた「15分の名声」(※)は手に入れられるかのようだ。そう問うと、ジア・コッポラは、Zoom越しに一瞬の逡巡の後に答えた。
※芸術家・アンディ・ウォーホルが唱えたとされる”In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes.”(将来、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう)という言説。
ジア・コッポラ(以下、ジア) 確かに誰かが有名になることが身近になったと同時に、名声の維持やその持続期間もとても短くなりました。突然称賛されて、次の瞬間にはすべてなくなるというのは、精神的にもよくないと思います。周囲と自分を比べて喜んでは落ち込んでしまう。
私たちは、他者との比較と絶望を感じさせるように設計されたプラットフォームの中でハムスターの回し車のようにそのサイクルを永遠に繰り返さないといけない。ソーシャルメディアは、そのような気持ちにさせることで、人々をつなぎとめ、使い続けさせるようにうまく設計されているんです。そこから抜け出せなくなるというのは考えたら怖いことですよね。
『メインストリーム』 予告編
ポップカルチャーの「メインストリーム」への興味
名匠フランシス・フォード・コッポラを祖父に持つ彼女の長編第二作『メインストリーム』は、「主流」がソーシャルメディアになった現代社会、そしてその中で貪欲なまでに名声を追い求めることに傾倒していく人々を風刺的かつグロテスクに描く。寂れたラウンジバーでバーテンダーとして働きながら、映像をYouTubeにアップしているフランキー(マヤ・ホーク)は、ショッピングモールで発見したシニカルで攻撃的なリンク(アンドリュー・ガーフィールド)に惹かれ、彼をYouTuberのスターにしようと創造的なパートナーシップを組むことにする。
「ノーワン・スペシャル(ただの一般人)」と名乗って破壊的なエネルギーを撒き散らす彼を収めた動画はすぐさまYouTube上で再生回数を集め始めるが、次第に彼らはもっとバズらせようと目がくらむうちに、有名になるために良識の範囲を超えてしまう。
ジア・コッポラの長編第一作『パロアルト・ストーリー』(2013)で主人公の部屋の壁には、彼女の叔母であるソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』(1999)のポスターが貼られていた。
ジア ソフィアの作品は大好きだけど、違う人間だから趣向も異なります。類似点もあれば相違点も多いと思いますが、家族の作品はどれも素晴らしいし、毎回、何かしらのオマージュを捧げるようにしています。
若者のセレブに対するオブセッション、あるいは有名人崇拝という意味では、ソフィア・コッポラが有名人宅から高級品の盗難を繰り返す無軌道な若者たちを描いた『ブリングリング』(2013)と通じる主題であると言えるだろう。
『ブリングリング』 予告編
ジア 私はいつもポップカルチャーに魅了されていて、何がメインストリームになるのかということを考えてしまいます。劇中でフランキーは「みんなの好みがもうわからない」と吐露しますが、私もそう感じることがあるんです。私の興味の対象が大多数に好まれることは少ないですが、人気があるものというのは、なぜ多くの人が好きなのか、何がそんなに大衆を引き込むのかという点で、とても興味をそそられ、ある種の魅力がある。その関心は、私の中で消えたことはないと思います。『ブリングリング』のリアリティ・ショー(「プリティ・ワイルド」)は本当にワイルドでよく見ていました。
1987年生まれのジア・コッポラだが、ソーシャルメディアとは奇妙な関係にあると率直に語る。
ジア 大切なのは人間がどのような感情を持ち、どのようにソーシャルメディアと関わりを持つかということ。それはどのプラットフォームでも言えることだと思います。でも私は写真が好きなので、Instagramには特別な魅力を感じているかもしれません。写真は自分自身を表現するための視覚的な方法であり、実際の言葉よりも私の言語に近いと感じています。
『フランケンシュタイン』を想起させる
ヒロインとモンスターの関係
彼女が、本編に実際のインフルエンサーとともに、2000年から2002年にかけてMTVで放送され、人気を博したドッキリ番組『ジャッカス』で知られるジョニー・ノックスヴィルを登場させていることは意味深だ。劇中でリンクはノックスヴィル演じる司会者に会った際に「昔から憧れていた」と打ち明けるが、この起用は、あたかも『ジャッカス』の過激ないたずら行為の影響が、今日のYouTubeに浸透しているいたずら文化に波及していることを仄めかしているかのようだ。
ジア 仰る通り、YouTube文化の創始者のような存在だと思います。彼らはひたすら馬鹿げたことをやっては低画質で撮影していましたが、YouTubeでもいたずらを面白おかしく見せるのが流行っていますよね。YouTube文化にはそのようなユーモアの要素があると思う。でも私には、開封の儀やASMR、あるいはパントリーを見せながらカメラに向かって話すだけの動画は正直あまり理解できません。それの何が面白いのか少し困惑してしまうんです。もっとふざけた内容なら楽しめますけどね。
映像クリエイターとして芽が出ずにいたフランキーは、突如目の前に現れたエキセントリックなリンクを得たことによって、創作活動の糸口を見つける。悩める男性主人公に対し、明るい振る舞いで翻弄しながらも人生の楽しみを教えてくれる夢のような女性は「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」と言われ、しばしば類型的なヒロイン像であるために批判の対象とされる。だが、その意味で本作の場合は、リンクが「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」だと言えるかもしれない。『メインストリーム』は、アーティストと被写体の間の力関係の変化を掘り下げているが、ここではリンクの方がミューズなのだ。
ジア 女の子は誰でも悪い男の子に憧れるところがあると思うし、この映画もそれを意識しています。彼女は、恋をしているのに愛してもらえない。それは仕事にも言えて、どれだけ仕事を愛していても、仕事が同じように愛を与えてくれるとは限りませんよね。様々な過ちや苦労を通して、相性の良し悪しとか、手放したくないけど手放さないといけないことを学んでいく。そういう青春や学びの時期って誰でも一度は経験することだと思います。
フランキーという名前は「フランケンシュタイン」も連想させる。彼女はソーシャルメディア上のモンスターを生み出してしまう博士のようだ。フランキーが運転する自転車の後ろにリンクが二人乗りをして、彼が後ろから彼女の目を一瞬覆う場面、あるいはリンクがフランキーを飲み込むかのようなイメージも導入されているが、当初は女性が主体的に操作していたはずが、男性の暴走に手が負えなくなっていくのである。コッポラは、このような物語の構造を特にふたつの映画から援用している。
ラジオ局の女性が留置所の取材で出会った浮浪者の男性を自身の番組のパーソナリティに登用するやいなや瞬く間に時代の寵児となっていく『群衆の中の一つの顔』(1957)と、生放送中に公開自殺を予告したベテランキャスターの男性を野心的な女性プロデューサーが視聴率稼ぎの奇抜な番組のために用いる『ネットワーク』(1976)である。『メインストリーム』含め、これらのメディアと名声の影響に焦点を当てた映画では、大衆の共感を呼ぶポピュリスト男性がいつしか世論を動かす強大な権力と影響力を持つインスタントの神様のように崇め奉られていく姿と、彼の魅力を利用しながらも次第に制御不能に陥っていく裏方女性の苦悶が描かれている。
『群衆の中の一つの顔』 予告編
『ネットワーク』 予告編
ジア 女性がモンスターを生み出すというアイデアになぜ魅了されたのかは正直わからないけど、『フランケンシュタイン』の小説は大好き。女性が男性を裏で支える物語ってよくありますよね。そういう女性たちは、自ら声を発することに臆病になって、誰かの影に隠れて主張しているのかもしれない。それに個人的に誇大妄想しがちな神のようなキャラクターも好きで、そういう演技は、見ていても、演出していても楽しいものでした。
『パロアルト・ストーリー』にも通ずる
ラブストーリーとの美しい組み合わせ
「もともとファンだった」とコッポラが語るアンドリュー・ガーフィールドがニコラス・ケイジ(ジア・コッポラの従祖父)に比肩する狂乱の演技を披露するが、そこにフランキーの同僚ジェイク(ナット・ウルフ)も作家として加わり、彼らは3人でさらなる動画制作を押し進めていく。その中で、コッポラは、インターネット文化を題材にしながらも、フランキーとリンクとジェイクの三角関係にも関心の目を向ける。思えば、郊外に住む高校生のアンニュイで気だるい心象をアンビエントなサウンドスケープとともに表した『パロアルト・ストーリー』でも、エマ・ロバーツ演じる主人公エイプリルは、年上のサッカーコーチと同年代の少年との間で葛藤していた(前作では常軌を逸していくティーンエイジャーを演じたナット・ウルフが、本作ではフランキーを支え、想いを寄せる役柄を演じている)。ジア・コッポラにとって、愛されることの追求が通底する主題である。
『パロアルト・ストーリー』 予告編
ジア なぜこんなにも魅了されるのか自分でもわかりませんが、確かに私は悲痛なラブストーリーが好きで、そのためには三角関係が必要なのだと思います。 私は『トワイライト』シリーズ(2008~2012)が大好きで、そう考えると、結構感傷的みたい。主人公が孤独で寂しい少女なのは、私自身がよく知っていて、最も共感できるキャラクターだから。ラブストーリーは最も好きなジャンルのひとつなので、ストーリーに含めるようにしていますし、それを心の琴線に触れるように描きたいと考えています。
その意味で、『群衆の中の一つの顔』が私にとって魅力的だったのは、ラジオからテレビへのメディアの移行という大きなテーマを扱っていながら、同時にとてもシンプルなラブストーリーが語られていたことでした。この2つの要素が一緒になって描かれていたことは、私にとってとても力強く意味のある美しい組み合わせであり、そのことにとても刺激を受けたんです。
『パロアルト・ストーリー』では内気で繊細な主人公は好意を寄せる少年に愛情を表現する言葉が見つからない中、テキストメッセージの送信ボタンを押す決心をすることでかすかに想いを通わせる姿を描いた。一方、本作でリンクは、「スマートフォンか虚栄心か」をモチーフにした自身の番組の公開収録の場で、顔の母斑をメイクアップで隠した画像をInstagramにアップしている若い女性(アレクサ・デミー)に、彼女が望んでいないにもかかわらず、修正前の写真をフォロワーに共有してしまう送信ボタンを押すように迫る。このふたつは、ソーシャルメディアの使い方を対照的に表しているかのようだ。
ジア ソーシャルメディアや現代のテクノロジーと人の関係性を作品にどう取り入れて、いかに美しく映画的に見せるかを意識しました。そのためには、それらの要素を取り入れる感情的なバックボーンや理由づけが必要だと考えました。プラットフォームの移り変わりは早いので、将来この映画を見たらタイムカプセルのように感じるかもしれませんが、感情を描けば普遍的で変わらない。ジョン・ヒューズの80年代の映画のように、時代を超えて共感し、愛することができる。それは難しい挑戦ではありましたが、私は常に自分ができることは何かを考えてみて、挑戦し続けたいと思っています。
エンターテイメントの定義の歪み
名声と引き換えに、他者の犠牲も厭わない自惚れと優越感を肥大化させたリンクは、画面に隠れて無責任に発言する視聴者に矛先を向ける。『ネットワーク』あるいは『キング・オブ・コメディ』(1982)や『ジョーカー』(2019)と同じく、尊大な自尊心を抱えた極端にナルシシスティックなキャラクターはTVショーの空間で人々を煽って衆目を一手に集めようとする。コッポラはその舞台立ての意識があったことに賛同する。
ジア あの場面は、『ネットワーク』や『キング・オブ・コメディ』など、私が愛した偉大な映画へのオマージュでもあります。あのような大衆性を持った人々の集まりをベースとすることで、現在の状況では、彼はたとえ屈辱的なことを行ったとしても、必ずしも追放されてキャリアを失うわけではなく、むしろキャリアを伸ばすことができるということを認識していました。なぜなら、私たちはいま、誰かの痛みや苦しみに娯楽を見出しているからです。私たちのエンターテイメントの定義は、徐々に歪んできていると思います。
ソーシャルメディアのあり方を憂慮し、フォロワーに向かって直接語りかける方法に時に困惑も示すコッポラだが、映画の最後でリンクは、カメラに向かって、物語と観客との壁=第四の壁を打ち破って、映画を見る観客に不気味に目配せするかのように、ほくそ笑んでみせる。
ジア 私は『サイコ』(1960)のエンディングが好きで、観客にリンクの言っていることは真実なのか、それとも偽りなのか、あるいは両方の組み合わせなのかと疑問を問いかけてほしいと思いました。リンクは笑みを浮かべますが、『サイコ』あるいは『時計じかけのオレンジ』(1962)と同じような雰囲気を目指していました。さらにカメラに目線を向けることで、観客に映画全体で問いかけているテーマについて意識し、自らの立ち位置を考えてほしかったんです。
Text:takuya tsunekawa
通訳:野村佳子
PROFILE
ジア・コッポラ
1987年生まれ、カリフォルニア州ロサンゼルス出身。フランシス・F・コッポラの孫にして、ソフィア・コッポラの姪。写真家としても活動する傍ら、水原希子を起用したユナイテッドアローズのCMディレクターや様々なMVの監督としても活躍、若いながらコッポラファミリーの一員として着実にキャリアを重ねている。そのキャリアからファッション業界とも精通しており、2016年にはGucciのPre-Fallのコレクションと関連した短編フィルムも発表。前作『パロアルト・ストーリー』(15)に続き、長編映画作品2作目にあたる本作でも脚本と監督を務めた。
INFORMATION
『メインストリーム』
10月8日(金)より、新宿ピカデリー ほか全国ロードショー
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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監督・脚本:ジア・コッポラ(『パロアルト・ストーリー』)
出演:アンドリュー・ガーフィールド マヤ・ホーク ナット・ウルフ
ジョニー・ノックスヴィル ジェイソン・シュワルツマン アレクサ・デミー コリーン・キャンプ 原題:Mainstream│2021 年│アメリカ映画│シネマスコープ│上映時間:94 分 映倫区分:G│字幕翻訳:佐藤恵子│