『Ryuichi Sakamoto | Opus』に続いて、空音央が手がけた初の長編劇映画『HAPPYEND』の舞台は、近未来の東京。しかし、そこはほとんど現在の日本と変わらない姿をしている。社会全体に組織的な差別やヘイトスピーチが広がり、あるいは地震が頻繁に起こる中で緊急地震速報が日常生活の一部となっている。
DJに憧れる幼馴染の高校生のユウタ(栗原颯人)とコウ(日高由起刀)は、たとえ同じことをしても、周囲からの扱いが明確に違うことを知る。コウは在日韓国人であるために、警察や先生から危険分子の如く逐一目を向けられるのである。作中で、政府は迫り来る地震の脅威を利用して、また公共の安全の問題を持ち出して、人々の私生活に干渉する緊急事態条項を発令し、反対派を厳しく取り締まる。それはまるで現在の日本の風潮と重なって感じられる。
ユウタとコウが通う高校は、AI監視システムを設置し、校則や秩序を乱す生徒たちを監視しては罰していく一方で、生徒たちの中にはセキュリティシステムに慣れるうちに権力的な視線や規律に従うことを内面化し、逸脱を許さないよう監視し合う世界を容認する者すらいる。『HAPPYEND』は、抑圧と不寛容が覆いながらもほとんど誰も注意を払わず、テクノファシズムに向かう社会への警告を込めつつも、それに団結して抵抗する若者の姿に変化への萌芽を見出そうとしている。正式出品されたヴェネツィア国際映画祭から帰国したばかりの空音央に話を訊いた。
10/4(金)公開 映画『HAPPYEND』本予告編_空音央(『Ryuichi Sakamoto | Opus』) 長編劇映画デビュー作
INTERVIEW
空音央
──ヴェネツィアでのパレスチナへの連帯を示すお洋服、素敵でした。本日もクーフィーヤ(パレスチナの伝統的な黒と白のスカーフ)をまとわれていますね。
ありがとうございます。取材のときも常に身に着けるようにしています。
──『HAPPYEND』では地震をきっかけに日本の人々の中で反朝鮮感情が浮き上がってくる様子が描かれ、劇中で首相は当時の人種差別的な陰謀論を未だに真に受けているような発言もします。例えば近年ではミン・ジン・リー原作のドラマ『Pachinko パチンコ』(2022~)や『福田村事件』(2023)も関東大震災と日本の朝鮮差別を描いていましたが、今回の地震のモチーフには関東大震災への意識はありましたか。
もちろんです。政治的に覚醒し始めた大学生の頃に1923年の朝鮮人虐殺について知るきっかけがあって、なんでこんなことになってしまったのかと衝撃を受けました。単純に自分も日本人ですし、自分の中にもそういうものがもしかしたらあるのかもしれないとも思い、なぜ起こったのか要因を調べる中で、植民地主義の歴史や朝鮮人への差別意識が見えてきたり、もしかしたら植民地支配に由来する支配側の恐怖みたいなものもあったんじゃないかと感じました。そういうことを色々調べたのが、2014年~15年の頃でした。ちょうどヘイトスピーチのデモが盛んに行われていた時期で、未だに日本があの頃と変わらないことを目の当たりにしたんですよ。最初にこの映画を作りたい衝動に駆られた要因のひとつが、関東大震災と朝鮮人虐殺について学び始めたからでした。動機が関東大震災の歴史で、そこから自分の友情の経験を素材にして物語を考えたんです。
──仰ったように、本作は、排外主義的な考えが現代の日本にも蔓延していることに目を向けています。ウィリアム・フォークナーは「過去は死んでいない。過ぎ去ってもいない」と語りましたが、舞台を近未来の日本に設定した理由について教えてください。
近未来に設定した理由は、大日本帝国が過去に行ったこと、植民地支配の日本の歴史を反省しないまま、将来また関東大震災みたいな地震が起きたらどうなってしまうんだろうという思考実験から着想を得たからです。当時と同じことが絶対起こってはダメだという衝動から構想が始まりました。
(カール・)マルクスは、「すべての歴史的事実と人物は二度現れる。一度目は偉大な悲劇として、二度目は惨めな茶番として」という言葉を残しています。現代で起こっている政治的なスキャンダルや出来事って本当に風刺ぐらいあり得ないというか、フィクションにしたらあり得ないだろうと笑われそうなぐらいのことが毎日ニュースで起きているような感じがありますよね。
──自民党は朝鮮人虐殺の歴史や人種差別を行ってきた事実に目を背け続けていますが、本作を通して、日本のどのような空気感を捉えることを望んでいましたか。
日本含め、どこの国も右傾化やファシスト化している傾向があると思うんですけど、日本のファシズムは味が独特というか。ドキュメンタリー監督の想田和弘さんが著書で「熱狂なきファシズム」と呼んでいますが、その言葉にうまく表現されているように思います。ムッソリーニやヒトラー、トランプみたいに強権的で雄弁でもなければ、男らしさを打ち出しているわけでもなく、ウンベルト・エーコが提唱するファシズムの定義に完璧に当てはまっているわけでもない。だけど、国のリーダーがぬるっと自分のたちのやりたいことを通してしまうような隠蔽されたファシズム──政治をものすごくつまらないものにすれば、国民に気づかれないうちに色々なことができるんじゃないかという陰湿さ──があると感じています。
ひとつ例を挙げると、去年の12月に政府が武器輸出政策の転換を行い、殺傷兵器輸出の一部解禁を強行しているんですよね。そのことに対してデモも起きましたが、ほぼ誰にも気づかれずに通ってしまった。裏金の問題も含め、もし他の国で起こったら、本当に暴動が起きるようなレベルにも関わらず、日本では何も起きずにすっと忘れ去られてしまうことが独特だと思います。その理由はなんなんだろうと考えると、やっぱり無関心なのか、はたまた政治というものは自分の生活とは関わりがないから御上が勝手にやっててくださいみたいな意識がある気がします。意図的かどうかは定かではありませんが、今回それが表れているのかもしれませんね。
──仰ったような政治に無関心で、ある種音楽だけ楽しめればいいような享楽的な若者像は、ユウタに反映されていると言えるでしょうか。
確かにある意味そうかもしれません。ユウタに反映されているのは、享楽的に過ごしてればいいみたいなニヒリズムです。(スラヴォイ・)ジジェクが、「自分と世界の出来事に距離を置いた状態のアイロニー的視点はすべてを俯瞰したような気持ちにさせてくれるけど、アイロニーを持っていたとしても、切実に何かに対して向かっていかないと、それは結局ファシスト側に吸収されてしまう」みたいなことを言っているんですよね。そういうことをユウタに込めようと意図したときもありました。
ただ、コンセプトに縛られすぎずに、ちゃんとした生きてる人間として立たせてあげたいとも考えていました。ユウタにとっては、楽しむとか遊ぶことが、友達を引きつけてくれたものであって、友達が周りにいると孤独が紛らわせられるというような動機がたぶんあったのだと思います。意識的に政治活動はしてないかもしれないですが、実はユウタが、一番アナキスト的というか、反骨的な気質を自然と備えていて、率先して無駄なルールをぶっ壊しに行っている人物ですよね。
── 一方で、ユウタと対照的なのがフミ(祷キララ)で、彼女は当事者としてというよりも他者のために社会運動に参加したり、座り込みを起こし、他の生徒たちを扇動します。どちらもある種政治への幻滅が表されているかもしれませんが、フミの場合は、近未来の設定ではありますが、Z世代的な若者像にも見えました。彼女の造形にはどのようなイメージがありましたか。
フミは、金子文子を意識していました。1923年には朝鮮人の虐殺が起こりましたが、同時に方言しか喋れない日本人や中国人、障害者、そして左翼思想や反政府思想の持ち主も虐殺されたり逮捕されたわけですよね。そのうちのひとりとして、金子文子のバイオグラフィーを読んでいたので、彼女から着想を得て、フミというキャラクターを発展させていきました。
──社会的・政治的活動に積極的に声を上げる現在のZ世代をどのように見られていますか。
僕は希望を持っていますよ。本当は、30代、40代、50代が一番リスクを持って、現在の社会問題に対抗していかなきゃいけないんですけど、結局、一番若い世代に世界の色々な問題を背負わせてしまっている。それを一番精力的にやっているのが、Z世代とか、さらに下のα世代で、彼らには本当に頭が下がる思いで、申し訳ない気持ちになりますよね。
──そのような若者への見方が、『HAPPYEND』というタイトルにも反映されているのでしょうか。
そこまで深い意味はないのですが、映画の中で2つの気持ちのベクトルがあると思っていて、それを込めました。ひとつは、若者の生き生きとしたエネルギーや若い瞬発力、もうひとつは、少し引いた目線からの黙示録的なイメージがありました。単純なワードだけど、「happy」と「end」が合わさることによって、時代は変容していくけれども、若い頃の記憶、生きている気持ちが捉えられるんじゃないかと考えました。
──冒頭、高校生たちが人生を謳歌するように走っている瞬間にフリーズフレームが挟まれ、終盤、ユウタがコウにちょっかいをかける瞬間をフリーズフレームで止めています。この青春に何かが介入して終わりが近づいているような予感、あるいは劇的な変化を強調しているかのようですが、最初と最後にフリーズフレームを導入した理由について教えてください。
実は、エンディングのフリーズフレームが最初に決まったんです。ただ、撮影中は全然そのようなアイデアはありませんでした。エンディングで何がしたかったかっていうと、これで本当に物語が終わるというような感覚を作りたくなかったんです。彼らの関係性がいまはちょっと離れてしまうかもしれないけど、まだもしかしたら続いていく可能性だってあるかもしれない、映画が終わった後も変化があるかもしれない含みを持たせたかった。
個人的に笑顔になりながらでもちょっと悲しいみたいな感情が好きなので、どうにかそれを作り出せないかと色々試行錯誤していました。その中で、友達で編集者のアルバート(・トーレン)が冗談で「フリーズレームさせて、そこにわざとらしい音楽を入れてみたら」と提案したんです。それを試しにやってみたらすごくよかったので、採用しました。でも最後だけ急にフリーズフレームが来るよりも、映画の遺伝子の中に、最初の方から何かしらそのヒントを入れた方がいいんじゃないかと思って、タイトルのところにも入れました。
──地震というコントロールできないもの、あるいは人々に主体性を放棄させようとする権力者による服従、監視システムの設置が広がる一方で、アタちゃん(林裕太)とミン(シナ・ペン)、ユウタとトム(アラージ)は遠くから人を見てアテレコして遊びます。人生のままならなさに対して、若者たちの主体性への欲望が見て取れるように感じましたが、あのアテレコはどういう意図で入れられたのでしょうか。
そういう風に深く考察して読み取ってくれるのはめちゃくちゃ嬉しいんですけど、入れた意図はむしろ単純で。キャラクターの関係性とか、映画が始まる前の話はどうなっていたとかは、導入として色々説明しなきゃいけないわけです。でも、映画に説明的なシーンを入れると大体つまらなくなってしまうので、それをどうにか誤魔化したかった。あれは高校生が友達に対してやりそうなことでもあると同時に、実は物語を説明しながら関係性のレイヤーを複雑にさせていくテクニックで、反復させていくことによって、その差異からユーモアとしても機能させていく狙いがありました。
また、他の人になりきって話しているわけなので、例えばアタちゃんとミンが、ユウタとトムがちょっとギスギスした感じになっている中で、おめでとうみたいなアテレコをしているときには、実際はそうじゃなくても、そこにはそういう話をしていてほしいという彼ら自身の欲望が投影されてもいるんじゃないかと思います。
──登場人物の背景に関してですが、アタちゃんはキュロットのような制服のズボンを履いていますね。「指定外の制服」として減点の対象とされ、彼は通常の制服のズボンを履くようになってきますが、あれはどういった設定だったのでしょうか。
あれは実は、ミンの中学生の頃の制服をもらって、それを加工してズボンっぽくして履いているという設定です。最後の方でアタちゃんは服飾の道に進んでいくことになりますが、あの服装で彼にもスタイルがあることを表現したかった。でも彼は彼なりのスタイルを貫き通したいけど、それすら制限されてしまう。よくある高校のブラック校則の風刺でもあります。
──様々な国にルーツを持つ人が一緒に暮らす近未来の日本で、劇中では日本国籍を持たない生徒の排除が強まっていきます。ナショナリズムとそれに起因するゼノフォビアが台頭する中で、絶望的な未来像ではなく、抑圧の中で抵抗する若者たちが描かれていますが、ここには“生存”という実存的な主題がありますよね。
そうですね。例えば、僕は現在30代で、子どもを産むのかどうかたまに考えたりするんですが、やっぱりこういう風に世界が本当に悲観的な場所になってきている中で、子どもを作ったらもうただ不幸でしかないだろうとかすごい思っちゃうんですよね。
でも同時に、Z世代やα世代を見るとそんなヤワじゃない、放っておいたらたぶん生き残る。希望を感じたり、絶望しか感じなかったりみたいに反復してるんですけど、どんなにひどいことがあっても、やっぱり人は結局、生存しようとする力がすごいある──ひどい虐殺が毎日のように起きていて、周りにその血の匂いしか漂ってなくても、日々の生活の中で子どもたちはまだ楽しんだりすることができているような動画をたまに見るんですが、そういう状況下にいる人たちにとって、生存することが抵抗みたいに思います。社会や政府、資本主義の構造がいかに暴力的であったとしても、その中を潜り抜けてやっぱり生存していくんだという強い意志を人類にはすごい感じます。
──幼い頃から友人だったユウタとコウは、アイデンティティや政治的意識への違いから関係が変化していきます。友情は家族や恋人の関係よりも曖昧で、定義がないものですが、そのどのような側面を見たいと思いましたか
まさにいま仰っていただいたように、本当に友情って社会的規範がない関係性だと思うんですね。例えば、結婚したら税金の枠が変わったり、病院に見舞いに行っても友達じゃ会えないけど、家族になれば会わせてくれる。でも、人によっては、友達との関係性の方が家族より大切かもしれないし、例えば自分と猫の関係性の方が全然大切かもしれない。よく考えると、たぶんみんなそれぞれにベストフレンドはいるし、いわゆる性的な生産性がないような関係性の方が、婚姻関係とかよりも保てていることもあると思うんです。大事な関係性でありうる友情が、なぜそこまで社会において重要視されないんだろうみたいな問いが自分の中にあるんです。
──抑揚を抑えた中で日本の政治的、社会的状況を取り上げ、またロングショットや電球の象徴的な使い方など、エドワード・ヤンやホウ・シャオシェンを彷彿とさせるようなところがありますが、台湾ニューシネマへの意識はありましたか。
エドワード・ヤンは大好きで、本当にめちゃくちゃ影響を受けています(笑)。エドワード・ヤンの場合は個人たちのキャラクターの物語ではあるんだけども、街の物語でもあるし、彼の都市と空間の撮り方が念頭にありました。ホウ・シャオシェンはちょっと味が違いますが、例えば『悲情城市』(1989)は歴史の瞬間の物語でもある。この映画も友情の物語ではありますが、彼らの周りで起こっている政治的、社会的な出来事がその友情に影響を与えているので、それにもちゃんと焦点を当てないと、物語として立たないため、撮り方としても街に焦点を当てました。
未来の街という設定ではあるので、それにうまくリアリティを持たせながら、現実にあるような画作りをしなければいけない。なので、ロケーションにこだわりつつ、例えばなるべく空を見せずに圧迫感を感じさせるような撮り方を意識していました。また地震が来る設定なので、彼らの後ろにそびえ立つ建物がいまにも倒れてくる可能性も感じさせるような構図を撮影監督のビル(・キルスタイン)と一緒に考えながら作っていきました。
──最後に、エンドクレジットで脚本・監督の名前も他スタッフと並列に表記されるのも印象的でした。単に作品を監督だけのものに還元せず、ひとつのスクリーンに全員の名前を平等に映し出すあり方は、ある種アクティビズムを描く映画に適しているとも思います。日本映画の旧来的なエンドクレジットを採用しない考えは意図的でしたか。
ありがとうございます。それに気づいてくれた方は初めてです。実は、その着想を得たのはバス・ドゥヴォスの『Here』(2023)でした。あのエンドクレジットを観て、かっこよくていいなと思って、自分たちのなりのやり方にしました。
結局、映画を代表しなきゃいけないのは監督ではあるんですけど、映画って別に監督のものだけじゃないし、経理の人も機材車を運転する人もいないとできない。みんな同じ映画労働者なわけで、それを隔てずに見せたい気持ちがすごくありました。どうしても順番みたいなものを考えなきゃいけなくなりますが、なるべくそれを平均した方法で表現できないかと考えて、縦割りじゃなくて、ホリゾンタルな形の方がいいと思い至りました。
──謝辞に濱口竜介さんや森山未來さん、福永壮志さんらの名前がクレジットされていますが、彼らとはどういった関係性があるのでしょうか。
濱口さんは、この映画のプロデューサーの増渕愛子がずっと通訳をやっていたつながりもあって、演技未経験者のキャストが多かったので、撮影前にどうやって演技未経験者を演出できるのか、アドバイスを2時間ぐらい快くしていただきました。それ以降もめちゃくちゃお世話になっています。森山未來さんは、撮影のロケ地がほぼ神戸で、森山さんと神戸のフィルムコミッションの方たちが始めたArtist in Residence KOBEに泊まらせてもらったのと、あと現場にも1日見に来てくださって、アイスをいっぱい差し入れてくれました(笑)。福永壮志は実は一瞬、ワンカットだけ出ています。僕はニューヨークにいた頃から、『リベリアの白い血』(2015)から始まって、彼の全作品にスタッフとして関わっているんですが、毎回エキストラとして出させられるんで、今回はその仕返しとして、遊びに来てくれたときに出てもらいました(笑)。
INFORMATION
HAPPYEND
10月4日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開
栗原颯人 日高由起刀
林裕太 シナ・ペン ARAZI 祷キララ
中島歩 矢作マサル PUSHIM 渡辺真起子/佐野史郎
監督・脚本:空 音央
撮影:ビル・キルスタイン
美術:安宅紀史
プロデューサー:アルバート・トーレン、増渕愛子、エリック・ニアリ、アレックス・ロー、アンソニー・チェン
製作・制作:ZAKKUBALAN、シネリック・クリエイティブ、Cinema Inutile
配給:ビターズ・エンド
日本・アメリカ/2024/カラー/DCP/113分/5.1ch/1.85:1
© 2024 Music Research Club LLC