豊間根 ちょうど30?
日高 うん。で、二つの道の1つはアフリカに行くことね。なんの目的もなく。アフリカに行くこと、つまりアフリカの音楽ね。当時は寝ても醒めてもアフリカの音楽の事を考えると、血が踊るって言うの? エキサイティングしちゃってさ。やっぱり俺にとってブルースのルーツでもあったし、また全然違うリズムだし、あと文化ね。文化や歴史が大好きなんだよ、俺。音楽には必ずその国の文化や歴史があるわけで。で、やっぱりアフリカっていうのを考えたら、やっぱりかなりデカい国だし。そこに行こうと、ほとんど思っていたんだよ。コンタクトも取っていたしね。
でもね、前からスマッシュという会社は自分のなかで持っていたわけ。まあ会社登録はしてなかったけども。個人の会社ということでやろうと思っていたんだよ。ようするに、それぐらい何をやるかって決まってなかったんだよ(笑)。それでまあ、82年か3年にスマッシュを作ったの。“スマッシュ”っていうのはさ、なんでそんなタイトルにしたかっていうと、ぶち壊したかったんだよね。要するに、それまで俺が10年以上関わった音楽業界、レコード会社から大きな芸能マネージメントまで、全部そこにさ、日本の音楽っていうのはさ、取り込まれているわけ。プレスリーが出てくるじゃない?
豊間根 はい。
日高 60年代。そうしたら日本でも和製プレスリーっていうのが出てくるわけよ。で、日本の歌謡曲を歌わされるわけ。で、その次はなにがあったかって言ったら、ロンドンからどんどんビートルズや色んなバンドが出てきた時にね、日本でもそれをコピーしてたいいバンドがいたわけだよね。で、そういうのをみんなピックアップして、結局日本のすぐれた作曲家に任せるわけだよ。
豊間根 うんうん。
日高 ヒットするわけだよな。それはもう、いっぱいいたよ。例えばタイガース。沢田(研二)さんはさ、やっぱりスゴいから。スゴイ能力のある人。あの中ではね。でもさ、結局みんな歌謡曲みたいな歌なんだよね。それが嫌だった。それで終わっちゃうわけよ。
豊間根 はい。
日高 日本って全部そうなの。海外からきた音楽や文化を取り入れるの、うまいんだよ、すごく。で、レコード会社やマネージメントだけが儲かって、本人達に何も残らないという。まるで演歌歌手の一発屋みたいになっちゃうんだよね。ようするに、そういうコントロールが嫌いだったんだよ。それをぶち壊したいっていうのがあった。だから曲にもあるけども「Smash it up」。バーーン!!! だよね。ま、それを言っても誰も分かってくれなかったけど。それでスマッシュを作ったんだよ。俺の考えはさ、一年の半分は仕事して、後の半分は寝て暮らすっていうね(笑)。
豊間根 なるほど(笑)。
日高 会社を作って、まずはデザインするわけよ。場が最初だ。植木とかをバーーン!! と中に入れて、バーを作ってさ。とにかくリラックスして。で電話だけ置いて、机は一個か二個はあったかな。でもねえ、俺がやっぱり会社を作ると、周りにほんとに色んな人がいてさ、みんな仕事持ってくんのね。「こんな仕事はどう?」「日高君も大変だから」とか言ってさ。ありがたいなとは思ったけど、ほとんど断っていたんだよ。食えないのはどうってことなかった。10代、20代全然食えなかったんだから。
ま、やった仕事もあったんだよ。その時にアメリカのバンドでジョージ・サラグッド&ザ・デストロイヤーズ、知っているかな? すごいカッコイイ白人のブギーバンド。デラウェア出身でさ。ちょうど前の年にアメリカでブレイクしたんだよ。ヒット曲はほとんどなかったんだけど。アメリカでストーンズのツアーの前座に入って。それで色々追っかけていたら、そのバンドがハワイまで来るからやらないかっていう話があってね。まあ、大好きだし、やろう! って。でもね、その時は、大きい会場では出来ないから。新宿のロフトっていう、当時300人くらいしか入らない会場で、一日2セット、三日間。
★まさかの廃墟で開催?!
インタビュー続きはこちら TALKING ABOUT FUJIROCK:日高正博
photo by 横山マサト
interviewd by Satoshi Toyomane
text by Shotaro Tsuda