藤原ヒロシと高木完のユニット・TINY PANX。ヒップホップ黎明期に結成され、時にテキストで、時にビジュアルで、時にプレイヤーとして、さまざまな媒体で新しい海外文化を紹介してきた。彼らと編集者のデッツ松田が1977〜90年までの東京のクラブ、ファッションについて鼎談した書籍『TINY PANX +1 TOKYO CHRONICLE 1977-1990』のクラウドファンディングが4月8日(金)まで受け付けている(詳細はこちら)。今回はこの書籍について藤原ヒロシに話を聞いた。

INTERVIEW:藤原ヒロシ

藤原ヒロシが『TINY PANX +1 TOKYO CHRONICLE 1977-1990』リリースで振り返る──90sカルチャーの原風景 interview220330_hiroshifujiwara-04

いとうせいこうとの出会い

──『TINY PANX +1 TOKYO CHRONICLE 1977-1990』は一般の出版社からではなく、クラウドファンディングでリリースすることにしたのはなぜですか?

自由に作りたかったからですね。装丁にもこだわってます。多くの人は「出たら買うよ」というスタンスなんですけど、クラファンが締め切られたらもう手に入らない。気になってる人は締め切りまでに申し込んでください(笑)。

── 一般販売はないんですね。取材用に2章「1980 – 1983」のみゲラを読ませていただきましたが、ディティールがすごいですね。知らないことばかりで……。

僕は過去に興味ないからどんどん忘れちゃうんだけど、完ちゃんの記憶力がすごいんですよ。あとこの本って筆談なんです。文字起こしが面倒だから、TINY PANXの時からずっとこのスタイルで。僕が書いて、隣にいる完ちゃんに渡して、続きを書く、みたいな。完ちゃんのテキストがトリガーになって、僕もいろんなことを思い出せました。それに、今回はデッツ(松田)が年表を作ってきてくれて。「この時代にはロッキード事件があったね」とか、昭和から平成の時代背景も踏まえています。

── 一般的にTINY PANXというと、いとうせいこう&TINNIE PUNX名義のアルバム『建設的』が有名ですが、せいこうさんはどんな印象でしたか?

すごく魅力的な人でした。頭がいいし、なんでも知ってて、面白いことをいっぱい教えてくれました。あと音楽も詳しくて。いわゆる「洋楽」ですね。当時の僕は見よう見まねでヒップホップのDJをしていたのを、せいこうは面白いと思ってくれたみたいで。そこから影山さんのラジオでDJするコーナーをもらったり、せいこうが当時勤めていた講談社の『ホットドッグ・プレス』で連載させてもらったり。その流れからせいこうが企画した『業界くん物語』に僕らも参加することになり、さらに『建設的』へとつながっていくんです。

──影山さんの番組でヒロシさんはどんなことをしてたんですか?

自分でリミックスした曲をかけたりしてました。

──ヒロシさんがDJをはじめたのは82年ですよね? 影山さんのラジオは84年だから、ヒロシさんはすでに音楽制作をされてたんですか?

いやターンテーブルでできる範囲のことですね。まだリミックスって言葉が使われるようなったばかりの頃で、ディスコのレコードのB面に入ってるエスクテンデット・バージョンの延長線というか。メガミックスみたいな感じかな。

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80年代はみんな「新しくて面白いこと」に興味があった

──ヒロシさんは82年に三重から東京に移住して、すぐにMILKの大川ひとみさんや大貫憲章さんといった当時のキーパーソンとつながっていきます。

これは本にも少し書いてあるけど、当時は変わったファッションが好きな人や変わった音楽を聴く人がものすごく少なかったんです。

──本の中にも「渋谷とか原宿でさえ、ファッションに興味ある人は少なかったから。歩いてる人がみんな普通の格好でこっちはジロジロ見られるみたいな」と書かれてましたね。

うん。そういう人たちが「ツバキハウス」(*新宿のクラブハウス)に集まってたんです。みんなの共通認識は「メジャーなものはかっこ悪い」ってこと。僕も中学の頃は邦楽を聴いてる人をダサいと思ってたし(笑)。そこが今と大きく違うんですよね。あの頃は芸能やエンターテインメントは(自分たちと)全然違うところにある感覚というか。

今は(BADHOPの)YZERRがマイク一本で武道館まで行って、それもめちゃくちゃかっこいいけど、そういうことが僕らの頃はなかったし、考えられなかった。世の中が「新しくて面白いこと」に注目するようになったのは90年代からという印象がありますね。カルチャーが今ほど細分化されてなくて、個々のコミュニティもものすごく小さかったから、「ツバキハウス」みたいな溜まり場に行けば、比較的誰とでも仲良くなれたんです。

──僕は90年代に青春を過ごしているんですが、<ロンドンナイト>は怖いイベントという印象があります。でもその頃はまだ「ツバキハウス」じゃなかったのかも。

そうだね。僕が行ってた頃は平和でしたし。「ツバキハウス」には、パンクが好きな人、ディスコが好きな人、ニューウェーブが好きな人、ファッションが好きな人、あとゲイカルチャーの人たちとかがいたけど、みんな「新しくて面白いこと」に興味があったんです。僕が行き始めた頃は、みんなヒップホップを意識し始めてました。ザ・クラッシュがフューチュラと一緒にやったりしてたから。(*81年リリースのシングル“This is Radio Clash”のジャケットをフューチュラ2000がデザインした)

──あーなるほど。今は、ファッション、音楽、カルチャーが完全に分断されて、各々がさらに細分化されているけど、当時はそれらが一体化してたということですか?

そうですね。

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──ヒロシさんは82年にロンドンに渡航しますが、向こうもそんな雰囲気だったんですか?

はい。むしろロンドンのほうがオープンマインドでした。だからこそパンクもヒップホップもつながって一緒になってたんだと思う。新しくて面白いものにみんなが興味あった。ひとみちゃん絡みで知り合った外国人のモデルに紹介してもらった人の家に居候して、ロンドンには2ヶ月くらいいました。滞在中はほぼ毎日「ワールズ・エンド」やクラブに通ってましたね。中学の頃から好きだった場所に行って、好きな人たちに出会える、みたいな感覚でしたね。

──当時は今ほど日本と海外は近くなかっただろうし、全身パンクファッションの日本人の少年が急に頻繁にお店に来るようになったら、店員さんも物珍しいでしょうしね。「ワールズ・エンド」でバイトもされてたとか? マルコム・マクラーレンと知り合ったのもその時?

いや、82年の時はお店で見かけた程度。マルコムが83年に来日した時に紹介してもらいました。饒舌でおもしろいことをたくさん喋ってくれて。みんなこうやって騙されるんだろうなって思いました(笑)。

──83年だと、ヒロシさんはまだ19歳ですよね。大川ひとみさんは日本人ですし、まだなんとなくわかるんですけど、マルコムまでいくとなぜそんなにトントン拍子にいろんな人と繋がれたのかがよくわからないんです。

ゲイカルチャーが大きいと思うんですよ。ファッションの一部として深く根付いている。ロンドンもそう。初めて行った時、周りにいた人たちの9割はゲイでしたし。僕には新しくて面白いものが好きという共通言語があったから、みんなオープンマインドですごく優しかった。

── 一方、日本のディスコは結構縦社会だったという話を聞いたことがありますが……。

僕は知らないなあ。行ったことないから知らないけど、歌舞伎町のディスコとかにはそういう雰囲気があったのかも。「ツバキハウス」は本物の不良や竹の子族上がりの人が来るお店ではなかったんですよね。

──なるほど。当時はまだゲイカルチャーが日本ではまったく許容されてなくて、そこにヒロシさんのような新しくて面白いことが好きな人たちも混じっていた、ということですか。

そういうこと。だからコミュニティ内の繋がりは濃かったし平和的だったんです。あと僕らの頃は、大人も遊び場にいましたね。それこそ、ひとみちゃんとかタケ先生(菊池武夫)とか。

──そういえば、ヒロシさんは80年代にメンズビギのショーでDJされてましたね?

はい。向こうは「若くて面白いね」という感じだったかもしれないし、僕らからすると「こんなすごい人が一緒に遊んでくれる」みたいな感覚もありましたよ。僕は自分を大御所とは思ってないけど、例えば、OKAMOTO’Sのコウキくんが面白そうだなと思ったら、自ら話にいくような感覚に近いかもしれない。僕は今も縦社会を避け続けて生きてますから(笑)。

──ちなみに「ツバキハウス」は新宿のどこにあったんですか?

現在の三越伊勢丹のあたり。今はテアトル新宿って映画館があるビルの5階にありました。

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いろんな人たちと話せる共通言語を持ってる

──ヒロシさんは80年代終わりからTシャツを作り始めますよね。

シンちゃん(SKATETHING)が「僕らもTシャツを作りましょう」と言ってくれたのがきっかけです。

──川勝正幸さん編著の『丘の上のパンク』よると、ヒロシさんとSKATETHINGさんはスケートボードをきっかけに仲良くなってるんですよね? SKATETHINGさんがグラフィックができるのはどのように知ったんですか?

話し始めて「何が好きなの?」って聞いたら「画を描くのが好きだ」と言って。初めからですね。

──最初に作ったTシャツってどんなデザインだったんですか?

「G」って書いてあるやつ。

──え、あの伝説の……?

伝説かどうかは別として、そのGOOD ENOUGHのTシャツ。フロントの「G」ロゴは僕が作って、背中の文字をシンちゃんが描いた。あと別パターンでシンちゃんが描いたイラストのTシャツも作ったのかな? ほぼ2人でやってた。

──ヒロシさんはどこでデザインを勉強したんですか?

当時、僕は編集プロダクションに出入りしてたから、コピー機を使って文字をちょっとズラすとかっこよく見えるみたいなことは教えてもらってたんですよ。あとは独学ですね。

──例えば、雑誌とかその辺のパンフレットとかかわいいフォントがあったら、それをハサミとかで切り抜いて、拡大コピーしてデザインしていったんですか?

うん。そんな感じ。まだマックは一般的じゃなかったからね。

──「G」のロゴも何かからのサンプリング?

たぶんそう。覚えてないけど。拡大コピーの荒いところは版下屋さんが綺麗にしてくれてたと思う。

──そもそもなんでTシャツを作ろうと思ったんですか?

80年代の後半くらいにSTUSSYが出てくるんですよ。あとヨーロッパではANARCHIC ADJUSTMENTというブランドができたり。シンちゃんも僕もスケートボードにハマってたから、「じゃあ自分たちで着る服を自分たちで作ろう」みたいな感じ。最初はTシャツと半ズボンかな。あの頃の日本は洋服屋といえばDCブランドしかなくて。個人が服を作る感じはなかったんです。でも「できるかな?」って手探りでやったらまあまあできた(笑)。

──それが90年代から現在に至るストリートカルチャーになっていくわけですね。

さっき僕の周りは平和だったという話をしたけど、そういう雰囲気が変わってきたのはストリートカルチャーが出てきた80年代終わりくらいからだったかも。一部の渋カジとか、ロカビリーとか、本気で怖い人たちが出てきた。

──カルチャーの細分化が始まり、共通言語が失われ、それに伴い遊び場も若者は若者、大人は大人と断絶されはじめた。

そうだね。僕はいわゆる90年代のストリートカルチャーの子たちよりちょっと年上で、70〜80年代のDCブランドの人たちより年下。その両方といい感じで繋がれてたと思います。同時にゲイカルチャーとも、スケーターとも付き合いがある。いろんな人たちと話せる共通言語を持ってた。ただやっぱり時代性もあるし、たまたまちょうどいい位置にいたんだと思います。

──ヒロシさんは大御所と言っても差し支えないキャリアなのに、今もいろんな国のいろんなジャンルのいろんな世代とフラットに付き合ってる。なのに何をやっている人かわからない面もある。このバランス感覚はどうやって保たれているんですか?

ここまで話してきたような人たちが周りにいたから、自然と身についたものだと思いますね。あと僕はお酒を飲まないのも大きい。こういう業界はお酒の場でなあなあのノリで始まったりすることもあるし、お酒の場には変な出会いや危険なこともあるじゃない? 僕の場合、それがほとんどないから、あんまり流されないですね。

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Text:宮崎敬太
Photo:寺内暁

INFORMATION

TINY PANX +1 TOKYO CHRONICLE 1977-1990

執筆:藤原ヒロシ、高木完、デッツ松田
判型:A5版変形
ページ数:140ページ
¥3,500(+tax)
デザイン:arkham design
発行:ダウトエヴリシング
*仕様は全て予定です。変更の可能性があることをご了承ください。
*2022年4月8日23:59までに集まった金額がファンディングされます。
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