――どんな細かいメールなんですか?
オータ 「何分何秒から言葉を畳み掛けて下さい」とか、「ここからお願いします」という長いメールを書いたんですよ。ディレクションの経験もないながら、メールを打っているうちに、「曲作りって、こうやってイメージを作っていくんだな」と気付いて。だんだん、志人さんの言葉のイメージも自分の中に持ち始めてきて、それが頭の中で膨らんでくると、「ここに空白を作りたい」とか、どんどん欲が出てくるわけですよ。「ここから言葉を畳み掛けたら面白いんじゃないかな」となるのが面白くて。でも、志人さんの言葉をまだ乗せてもらってない段階なので、僕の頭の中の構想でしかないなと思ったんですよ。コラボレーションとは少し違うかなと気付いて、僕が思う志人さん像と、曲のイメージを志人さんに投げる作業は、義務としてあるなと思ったんです。それで細かく書いたんですけど、最後に「何でも結構です」と書いてしまって(笑)。
志人 僕もオータさんが最後に書いてくださったから、「じゃあお言葉に甘えてもいいですか」って(笑)。本当は空いているはずのところに、言葉を入れちゃったりしたんですよ。要は最初から言葉をバーッと詰めちゃったんですよね。そこで、オータさんが「やっぱり空白を作りたいな」という風になって、僕も「たしかに。ここに言葉を入れちゃったんですよね」みたいな話になって。
オータ あれは、僕的には全然オッケーだったんですよ。どう来るか分からない一つの狙いというか。コラボレーションをコーヒー牛乳に例えると、僕が牛乳を作る役で、志人さんにコーヒーの部分をお願いします、と投げるわけじゃないですか。で、僕はコーヒー牛乳を作るつもりで牛乳を作っているので、志人さんからコーヒーが来ると思って作っているんですよ。それは志人さんの個性だから、キリマンジャロが来るか分からないし、色々な豆の種類があるじゃないですか。「こういうコーヒーをお願いします」という意味を込めてメールを送ったんですけど、僕自身は、コーヒーじゃなくても面白いなと思っているんです。オレンジジュースでもいいですし、墨汁を入れられてもいい。結果、飲めないじゃないかとなっても僕自身は満足なんです。
――え、飲めなくなってもいいんですか?
オータ なぜそう言えるかというと、曲をそんなに作ったこともなく、ディレクションの経験もない僕だから言える無責任な発言なんだと思ってるんです。例えば佐藤は、L.E.D.をまとめるリーダーですし、コンポーザーの仕事もやっているので、こういう意見を聞くと無責任だなと思うんじゃないですかね(笑)。
佐藤 いや、そんなことないよ(笑)。
オータ (笑)。まあ、僕はそういうつもりで投げたんですね。結果的に志人さんに言葉を埋めていただいて、送られてきた時点で、僕のコーヒー牛乳構想とはちょっと違うかもしれないけど、僕が牛乳を投げたことで、志人さんがそれに感化されて、受けたコラボレーションの答えなので、僕は嬉しかったっていうか。何か全く異質なものが来ても、良かったんです。それが僕の正直な気持ちであって。これは志人さんがいるからする話じゃないんですけど、スガダイローくんが色んなアーティストとコラボして、最近やった相手がバスケットボール選手っていう、謎のコラボレーションがありましたよね。
志人 ありましたね。ドリブルの音がビートでね。
オータ あれもやられたなと思って(笑)。バスケットコートでドリブルとかシュートしているその横で、ピアノを弾いているっていう。それもさっきの例えで言ったら、牛乳と墨汁なんですよ。全くのフリーの感覚っていうか、そういうところも狙いではあったので、僕はすごく面白かったです。ただ、空白を作って欲しいというのは、バンドの総括であって。僕のソロを志人さんに投げて、返ってきたら万々歳なんですけど、L.E.D.の作品なので、全体の意見も聞いた上で、バンドの意見として、ここに空白があった方がいいんじゃないか、というリクエストをして。だから僕の立場としては、L.E.D.のメンバーとしての立ち位置もあり、複雑なものだったという。あれは大切だなと思った。
佐藤 はじめて聞いたな(笑)。でも、本当にオータくんが言った通りで、志人くんとのコラボレーションは、セオリーとかそういうものがない。本当に白紙の中で作るという、自分の中では特異な感じでしたね。ディレクションする上でも、志人くんがライムを重ねていくように、僕らも音を重ねていったんですけど、その順序が同時ではなかったんです。まずオータくんのドラムトラックがあって、志人くんがラフを乗せてくれて、それを受けてバンドが揉むというか。そこに各々がイメージを聴くタイムラグがあって、少し置いてから鍵盤が乗ってきたりして、ある意味で各々のパートの乗せ方が無責任だったというか(笑)。そこに対しての枠がない中で組み立てていくことが、僕自身すごく楽しかったし、この曲は遊び倒せっていう共通認識はみんなの中にあったよね。
――塩川さんのメタルっぽいギターとか、まさに遊び倒していますよね。
佐藤 そうそう。
オータ ただ、そういう特殊な感じに作ってきているので、メールだけでは伝わらない部分がすごくあったんですよ。コラボレーションが難しいなと思った一つのことでもあるんですけど。
佐藤 メールのやりとりでは無理があるというか限界があると思ったよね。
志人 世の中ハイブリッドになりましたけど、繋がりがハイブリッドになりすぎちゃうと、良いものも勿体ないもので終わっちゃうなと。僕も全部遊び倒すというところでは、曲を作るにあたって、牛乳と墨汁じゃないけど、異物感というのはすごく好きで。異物感がないような曲だと、聞き流してしまうことがあるから、曲の終わりをどう結末をつけようかと、ずっと自分で考えていたんですよ。最後にチーンという音が入っていて、何回か聞いていると、その後に笑い声が入っているように聴こえたんですよ。「チーン、あははは」って。何回も聴きすぎて「幻聴? 危ない、危ない」と思ってヘッドフォンを外したんですけど、やっぱり聴こえたんですよね。それで、Pro Toolsの波形とかも見て、自分の声が入ってるのかと思ったんだけど、入ってなくて。
――なんだろう、ちょっと怖いですね。
志人 大本のトラックに入っているのかなと思って何度も聴いてみたら、曲が終わった後に、笑い声が入っていたんですよ。最初はちょっと怖さも感じたんだけど、チーンっていう音とかも滑稽に聴こえてきちゃって。すごくやっているにもかかわらず、最後はチーンなんだって思えたら、これは遊ばないといけないなと。真剣に挑んだ末、もう笑うしか残ってないような空っぽの状態。そこになることで、なんとなく自分の着地点が見つかったというか。最後は結構厳しいことを言っているけど、滑稽な終わり方であると思うんですよね。
――「命を粗末にするでないぞ」は、ある意味で究極ですよね。
志人 「命を粗末にするんじゃねえぞ」と言うよりは、「命を粗末にするでないぞ」の方が、「チーン、あははは」に掛かっているんですよ。歌い回し方にしても。
――たしかに言われてみると、滑稽な感じがしますね。笑い声って誰のものだったんですか?
佐藤 カクさん(kakuei、パーカッション)だよね。
オータ チーンのアイデア自体は佐藤ですけど、僕はそこまでの構想がなくて。怒濤のパーカッションの後に、バスっと切るイメージで作ったんですね。あの曲のドラムはツインドラムで録ったんですけど、パーカッションは後からダビングしていて。僕のイメージでも怒りというか、曲の仮タイトルが「anger」というぐらいに、怒っているようなニュアンスで、人間の怒りのエネルギーを爆発させて、最後に向かっていくという感じなんです。例えば、ツインドラムの相方のRYUDAIくんも、レコーディング当時は、実際に怒ってたんですよ。録った時が朝5時で、「もう早く寝たい!」って(笑)。
――深い時間になると、集中力が切れやすいですよね(笑)。
オータ 僕が次の日に現場があったから、その日しか録れなかったんです。それで、眠いところ申し訳ないけど、僕しかディレクションできないから、録ってくれって。「あーっ! 分かったよ!」っていう感じで、最後にはドラムの皮が破けたっていう(笑)。それぐらいに怒って叩いてた。でも僕の中では、そういうエネルギーは重要だから、「ありがとう」と思って(笑)。エネルギーの暴発、爆発というか、最後に向かっての怒りの強大なエネルギーが欲しかったので。最後、カクさんにパーカッションをダビングしてもらった時も、怒りのエネルギーを説明しようとしたら、カクさんの機嫌が悪かったんですけど、それもよしと思って(笑)。
――エネルギーをぶつけるという意味で、一致していますよね。
オータ 結局、RYUDAIくんもカクさんもそうだけど、本人たちは怒っているものの、それをコントロールルームで、オータくんと二人で聴いていて、既に可笑しかったんですよね(笑)。本人たちが怒りに任せて叩いている姿がなにかユーモラスに見えてきて(笑)、そういう現場の空気がトラックになっていて、真剣さと表裏一体の関係を持っていた。その一連の内情を知らない志人くんが、年末にその説明を俺らにしてくれて、びっくりしたんですよ。なんで、一緒にいるかのようなことを言うんだろう?と思って。
佐藤 結局、RYUDAIくんもカクさんもそうだけど、本人たちは怒っているものの、それをコントロールルームで、オータくんと二人で聴いていて、既に可笑しかったんですよね(笑)。本人たちが怒りに任せて叩いている姿がなにかユーモラスに見えてきて(笑)、そういう現場の空気がトラックになっていて、真剣さと表裏一体の関係を持っていた。その一連の内情を知らない志人くんが、年末にその説明を俺らにしてくれて、びっくりしたんですよ。なんで、一緒にいるかのようなことを言うんだろう?と思って。
オータ あと、曲のキーワードとして、龍のイメージがあったんです。僕らは全く説明してないのに、志人さんにも龍のイメージがあって。この話は偶然のシンクロというよりも、志人さんがものすごくトラックをよく聴いて下さったというところもあって、必然的なシンクロの仕方なのかなと思いましたね。
――志人さんのリリックですが、『龍の子太郎』という本がイメージソースとなっていると聞きました。
志人 曲を聴いていて、まず絵を描いたんですよ。まず龍が出てきて、地球があって、天に向かって上昇している龍の絵だったんですね。一方で、後半はそれがもう真っ逆さま。地球をぶち破って、地球の核に向かうぐらいの絵を描いていて。前半は天に召されるような感じ、後半は地中に潜っていくような土臭さを感じていて、そう描いている最中に、最初の8小節ぐらいで、九頭竜という言葉が出てきたんですね。桧原村にも九頭竜神社とか、九頭竜の滝というものがありますけど、曲をいただいてから制作する時間もあったので、滝の方まで行ったりして、色々考えていた時に、古本屋で『龍の子太郎』に出会ったんですよ。でも買ったものの、少年時代に戻ったかのように、毎ページをめくるのにワクワクして、毎日15ページずつぐらいしか読まなかったです(笑)。
――読まなかったということは、意図的にですか?
志人 大人だと、絶対にすぐ読めちゃう本なんですよ。だから、敢えて何日にも分けて、龍の子太郎どうなったんだろう? と読んでみて。『龍の子太郎』はお母さんが龍になってしまう話なんですけど、実際は、これが主たるインスピレーションソースかといえば、そうではなくて、『天国と地獄』という本と芥川龍之介の『杜子春』。特に『杜子春』は、僕の天国と地獄観みたいなもののルーツですね。この『龍の子太郎』の中では鬼が出てくるんですけど、結構ユーモアに溢れてるんですよ。龍の子太郎に相撲で負けちゃって、「もう地上で怖い鬼と働くのは嫌だから、天に投げてよ」みたいな感じで、龍の子太郎に天国まで投げてもらう。それで怖い鬼の手下であることをやめて、雷神になっちゃうんです。そいつの生き様とか、真剣そのものに生きているところとか、絶妙にユーモアに溢れたところがあるんですよね。
――お母さんは、なんで龍になっちゃうんですか?
志人 村の人たちが一生懸命働いている大変な時に、お母さんはお腹が減っちゃって、魚を一匹食べたんです。それが美味しいものだから、残り二匹を村の人たちに分けてあげようと思ってたんだけど、どうしてもお腹が減っちゃって、計三匹食べちゃったんですよ(笑)。つまり、村の人たちが一生懸命働いているのに、空腹に耐えきれず、三匹の魚を食べちゃったが故に、龍になってしまった(笑)。
――えー! そんな理由で龍に…(笑)。
志人 「もう人間ではいられなかったんだよ」とお母さんが話すと、龍の子太郎は苦しそうに黙り込んでしまうんですけど、いきなり「そんなことってあるか!」って叫ぶんですよ。「そうなんだね、お母さん」じゃなくて、「そんなことってあるか!お母さんは具合が悪かったんじゃないか!具合が悪い時、好きな魚を三匹食べたがために、人間でいられなくなるなんて。そんなこと嘘っぱちだ!」って(笑)。魚を三匹食べただけで龍になっちゃうってかなり理不尽ですよね(笑)。『龍の子太郎』は小学校の課題図書にもなっていると思うので、読んだことがある人も多いと思いますよ。
佐藤 僕らも子どもの頃に読んだよね。
オータ 僕も読んだことあります。でも、読み直してみると、さっきのようなユーモアがあって。今回の曲とシンクロしますよね(笑)。
佐藤 怒っているけど、笑っちゃうっていう(笑)。