台湾随一のサックス奏者、シェ・ミンイェン(謝明諺:通称 テリー)と詩人ホンホン(鴻鴻)がプロデュースする『爵士詩靈魂夜 A Soulful Night of Jazz Poetry』が現地で話題だ。台湾初の全編中国語詞によるジャズポエトリーアルバムという新規性や、過去から現在に至る様々な台湾の風景をジャズで表現した点が注目を集めている。
とはいえここは日本なので、「台湾のジャズ」と言われてもピンとこない人もいるかもしれない。私も実はその一人であった。
台湾ジャズの歴史にも理解を深めた上で本作を楽しみたいと考えた私は、本作のキーマンであるテリー氏と、アルバムの収録に参加した日本人ベーシスト、池田 欣彌氏に直接話を聞くことにした。
特別対談:謝明諺 × 池田欣彌
日本・中国・アメリカ──様々な影響を受けて発展した多様な台湾ジャズ
──『爵士詩靈魂夜 A Soulful Night of Jazz Poetry』のリリースおめでとうございます。本作についてより理解を深めるため、まずは台湾ジャズの歴史について教えてください。台湾のポピュラー音楽は、日本統治時代に発展がはじまったと言われていますが、ジャズはどのように発展していったのでしょうか。
テリー(以下、テリー) そうですね、日本統治下で1910年代以降、ポピュラー音楽や地元の管弦楽団が発展していく中で、台湾のミュージシャンによるジャズの研究も1920年ごろからはじまったと言われています。1930年代にはダンスホールなどでの演奏も行われるようになりました。ジャズ、歌謡曲、演歌の影響を受けた作曲家や演奏家が活躍し、台湾語による歌謡曲もたくさん生まれました。
そして、海外に学びや演奏の場を求めたミュージシャンもいました。例えばヤン・サンラン(楊三郎、本名:楊哲成, 1919-1989)は、学校卒業後にダーダオチェン(大稻埕)のダンスホールで働きながら音楽を学んだ後、1937年に日本に渡り、約2年間の音楽教育を受けました。中国での活動を経て戦後に台湾に戻り“港都夜雨”、“孤戀花”、“望你早歸”など、現代に歌い継がれる多くの名曲を残しています。
池田欣彌(以下、池田) それから、当時の台湾ジャズの先駆者で、作曲・編曲家のリョウ・ジンチャン(劉金墻、1911-1964)がいます。彼も1930年代に台湾から日本に渡り、神戸を拠点としてロシアなどでも演奏活動をしていました。彼が遺した楽譜を、国立台湾師範大学の大学院生が研究して卒業制作で録音することになり、テリーと私が参加したこともありましたね。
《看不見的足跡》 Invisible Steps – 專輯試聽 Samples
テリー もう一つ、当時ジャズの中心地だった中国・上海の租界から台湾に来た外国人、中国人のバンドによる活動もありました。上海から来たバンドは、英語以外では、北京語でジャズを歌っていました。
──台湾語・日本語で歌われるジャズ風歌謡、英語・北京語で歌われる本場のジャズと両方があったわけですね。1945年の終戦以降から1980年代後半はどのような変化がありましたか。
テリー 戦後、国民党政権下で1949年から敷かれた戒厳令では、あらゆる出版物が検閲の対象となり、芸術・文学の創作活動は大きな影響を受けるようになります。北京語を公用語とする政策がとられ、台湾語のポップスが商業的に弱体化する中でも、ヤン・サンラン、リン・リーハン(林禮涵)など、台湾の作曲家やバンドは音楽活動を続けていました。また、中国から来たジャズミュージシャンによる、北京語のポップスも多く生まれました。
1950~60年代には朝鮮戦争、ベトナム戦争のために台湾各地に米軍が駐留しており、彼らのために演奏するアメリカ人、フィリピン人のバンドがいました。軍人の慰労を目的として、デューク・エリントン(Duke Ellington)、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)などの有名なジャズミュージシャンを招いたコンサートもこの頃からはじまっていたと言われています。
──1974年に台湾ジャズの聖地と呼ばれる『Blue Note Taipei 台北藍調』が開業していますが、この経緯について聞いたことはありますか。
テリー お店の創業者ツァイ・ホィヤン(蔡輝陽)の話によると、彼や彼らの仲間は、もともと仕事で音楽をやっていたと。ただ当時は、テレビ局、ホテルのダンスホールで、踊ったり、歌ったりするための伴奏として楽譜通りやるような仕事しかなかったそうなんですね。
池田 日本で言う『NHKのど自慢大会』とか『八時だョ!全員集合』などのバックバンドのようなイメージですね。楽譜さえあればジャズもロックもやるような。
テリー だから仲間内で自由にジャズセッションができるところがない。それなら自分達で作ろうか、というDIY精神ですね。開店したばかりの頃は、毎日ではなく暇な時にミュージシャンが集まって…という活動規模だったようです。
池田 1940年代のアメリカでも、商業的な仕事から自由を求めたジャズミュージシャンが小さなバーなどで自分たちのためのセッションを始めたことで、ジャズの歴史がスウィングからビバップへと変わりましたよね。これと同じ現象が台湾でも起きたと言えるのではないでしょうか。
──戒厳令解除後、1990年代についても教えてください。
テリー その頃になると外国に留学する台湾人が増え、アメリカやヨーロッパの有名学校でジャズを学んで、自分の音楽をやるという流れが起きました。当時は、台湾国内だけでジャズを学ぶのはあまり便利ではなかったんです。また1990年代からは大企業がスポンサーとなって外国から有名なミュージシャンを呼んだコンサートや、ジャズフェスティバルもはじまり、多くの台湾人にジャズが聴かれるようになっていきました。
International Community Radio Taipei(通称:「ICRT」)という元々は米軍のために開設され、外国の音楽をたくさん流すラジオ局の影響もあります。ICRTはジャズバンドのコンテストなども開催しています。欣彌はそのコンテストで優勝してたよね。
──池田さんは、いつごろに台湾に来られたんでしょう?
池田 僕は2002年9月に札幌から台湾に移住しました。この20年でジャズ人口が明らかに増えたのは感じますね。当時はジャムセッションの文化がなくて、仲間を探すのも一苦労でした(苦笑)。今では毎日のように色んなところでジャムができますよね。
僕が台湾に来て面白いと思ったのは、政府がお金を出して、外国から有名なジャズミュージシャンを呼んで、台北でコンサートを開催しているんです。同じく政府がサポートして毎年開催される<台中ジャズフェスティバル>は無料で見ることができるので、何万人ものお客さんが来ます。こうして、台湾でもジャズがどんどん一般化していったんでしょうね。
テリー ここ10年くらいで、ジャズを教えている大学が増え、学びやすい環境にあると言えます。全台湾でジャズミュージシャンは、200~300人は下らないのではないでしょうか。
──これらの背景を踏まえ、台湾のジャズミュージシャンの特徴を教えてください。
池田 よく「台湾は自由」と聞きますが、それが音楽にも現れていると感じます。僕も札幌から台湾に来たので、東京のシーンに詳しいわけではありませんが、日本ではビバップ専門の〇〇さん、ブラジル音楽に力を入れているお店…など、ある程度専門性があると聞いたことがあります。台湾ではそういったことはあまり聞かないですね。常識にとらわれず、新しいことが始まり、その時の興味に従って、色んなことができると思います。
テリー 欣彌はポジティブに受け入れてくれるけど、「自由でジャンルにとらわれない活動」は専門家が育ちにくいという側面はあるかも。逆に日本と共通しているのは、欧米のプレイヤーと比べて演奏上の自己主張がやや控え目なところでしょうか。
過去・現在・未来の台湾を描いた『爵士詩靈魂夜 A Soulful Night of Jazz Poetry』
──ここからは新作『爵士詩靈魂夜 A Soulful Night of Jazz Poetry』について聞けたらと。本作は中国語ジャズ・ポエトリーである点が注目されていますが、キーパーソンのホンホン(鴻鴻)はどういう人ですか。
テリー ホンホンはもともとジャズが好きな詩人で、自分で詩を書いて発表しています。それ以外では、BBCの「21世紀に残したい映画100本」に台湾映画で唯一選ばれた『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』に脚本とエキストラで参加したり、作家として本を書いたりなど、言葉にまつわる仕事をして自分の出版社も持っています。彼にとって中国語ジャズ・ポエトリーをやるというのはごく自然なことなのだと思います。
そんな彼が、2020年に開催した<Taipei Poetry Festival>(台北詩歌節)に僕の妻で歌手のマーズ・リン(林 理惠)と僕が参加して、詩の朗読にジャズの演奏を合わせる、ということをやったんです。
一般的に詩人と音楽家が一緒にやるときは、詩の方に合わせる傾向にあると言われていますが、そのライブでは、詩と音楽がお互いを聴きながら、詩は詩、音楽は音楽で自由にやることができまして。主役をあえて決めない、という前提で即興演奏をすると、面白いなと感じるようになりました。そんなライブを3回やった後、これはアルバムとして出してまとめるべきではないか、と動き出したのが出発点です。
──台北でそんな面白いことが起きていたとは…。新作の楽しみ方がわかってきました。せっかくなので、アルバムから何曲かご紹介いただけたらと。私の好みで聞いてしまいますが、“ブルーノート台北”について教えてください。
テリー ホンホンが、このアルバムのために「ブルーノート台北に捧げる」というコンセプトで詩を書いている途中で、スタンダードナンバー『Angel Eyes』を思い起こしたんです。Angel Eyesの詩に影響され、この曲が完成しました。それで、ホンホンの詩の朗読とマーズのボーカルによる『Angel Eyes』が同時進行する…というストーリーになっています。
──台湾の音楽史、という意味ではジョン・ゾーンと山塚アイの来台ライブをテーマにした“ジョン・ゾーン、台北即興ライヴ、1995”が気になります。
テリー そのライブは音楽に限らず体の動きなども駆使した総合芸術で、リアルタイムで見たホンホンはすごく感動してすぐに詩を書いたそうなんです。その動きのある表現を伴った詩──たとえば「船が転覆した」「タイヤが転がってる」をフリージャズで表現しました。ボーカルの声もエフェクターを使ってやや浮世離れさせています。
池田 《一頭のキングコングがビルの屋上で歯を磨き、歌う前のウォーミングアップをしている》という詩の後にベースを弾くのですが、その詩を聞いて、「歯を磨いている」様子を弓を使って表す…という即興になりました。
──白色テロについて語られる“名を尋ねて”もとても印象的でした。
テリー “名を尋ねて”は、ニーナ・シモン(Nina Simone)『Four Women』のオマージュです。『Four Women』は当時民族的な差別を受けていたアフロアメリカンの女性、4人の苦悩を描いた作品です。これをかつて台湾で起きた白色テロになぞらえています。
“名を尋ねて”には、白色テロ時代に実在し、被害を受けた施水環・張金杏・張常美・丁窈窕という4人の女性が登場します。獄中で処刑された女性、生き延びた女性……その被害は壮絶なものです。前半ではマーズが当時の彼女たちの気持ちを代弁した歌を歌い、その後ホンホンが現代の目線で詩を読みます。
私たちが3回目にライブをやった場所が「国家人権博物館 白色テロ景美紀念園区」で行われた「人權藝術生活節」であったことも、この曲を作る動機となりました。
──唯一の台湾語曲『夜間列車』はどういうストーリーですか。
テリー 実はホンホンはサックスを習っていて、その先生であるテン・イーチュン(鄧亦峻)が作曲者なんです。バンドのグループレッスンで生徒同士の合奏をしているうちに、ホンホンがこの曲を気に入って、台湾語で歌詞を書きました。
池田 詩のコンセプトは「行き先のわからない夜行列車」です。汽車の蒸気をドラム、車輪の音をピアノで表しています。時間、四季、場所も通り過ぎ…。最後に皆で歌詞をつぶやいて、どこに行くかわからないまま、曲は終わります。
──1曲1曲に濃いストーリーが詰まっているんですね。印象的なアートワークについても教えてください。
テリー 以前からの知り合いで、アルバムアートワーク、映画のポスター、セレクトショップのデザインなど幅広く手掛けるデザイナーのジョー・ファン(方序中)に依頼しました。一見普通のコラージュにも見えますが、実はコンピューターでの合成ではなく、手作業なんです。はじめに素材になる写真を1枚ずつ撮って、細く切り、それらを一本一本編みこんでいます。これはさまざまな事象──たとえば、人と人、音楽と詩、バンドなどが編み物、織物のように絡まっている様子を表現しています。オモテ面は、ホンホン、マーズ、僕の写真がコラージュされています。裏面は、輪郭はホンホンで、その中に欣彌や他のメンバーも登場しています。
──最後に、改めて本作の意義についてお願いします。
池田 テリーとは台湾に来た時から友達で、今回収録したメンバーともよく一緒に活動していますが、「詩人と一緒にフリージャズをやるよ」と言われたのは初めてでした。だから、レコーディングの前日に集まって、一回練習したんですけど、その日……というか音を出すまで何をすればいいのかよくわかっていませんでした(笑)。ただ、1曲目の準備をして、音を出した瞬間にしっくりくる感覚があり、2日間のレコーディングがあっという間でした。中国語ジャズ、しかもポエトリーリーディングは台湾で初めての試みだと思うので、参加できたのは光栄です。
テリー 中国語は、その地方による自然な訛りと美しさがあります。そして、台湾語、広東語……。これらは標準中国語と対比して「方言」と言われますが、台湾や香港の人たちのルーツなのです。一度聞いてもらえれば、台湾人が詩を読んでいることがわかるでしょう。まさに台湾独自のアルバムと言えます。
欣彌が言うように、「前日までは何をすればいいかすらよくわかってなかったのに音を出した瞬間、自分がどうすればいいか自然とわかる」というのは、普段一緒に活動しているメンバーだからこそ起きた音楽側と詩側の化学反応で、ジャズとポエトリーリーディングの出会いには、魔法のような力があると感じています。
すべての芸術の境界には詩がある──この美しさを、音楽と詩、あるいはその両方を愛する人たちと分かち合いたいです。現代の台湾だからこそ完成したアルバムを是非楽しんでいただけたらと思います。
──ありがとうございました。
Text:中村めぐみ
PROFILE
シェ・ミンイェン 謝明諺(写真右)
通称「テリー」。1981年台北生まれ。19歳でプロとしての活動を始める。台湾の様々なジャズのライヴハウスなどで活動後、ベルギーのブリュッセル王立音楽院で修士号を取得。2012年に台中で行われたサックスのコンクールで優勝したことをきっかけに、台湾のジャズ‧シーンの重要人物となる。台湾をベースに活動している日本人のバンド‧東京中央線とコラボレーションしたアルバム「Lines&Stains」では、2019年の金曲獎でベスト‧インストゥルメンタルアルバム賞を受賞。エレクトリック‧エクスペリメンタル‧グループである非/密閉空間では、2020年の金曲奨のベスト‧インストゥルメンタルアルバム‧プロデューサー賞を受賞。2014年に自身の作品として「Firry Path」、2018年には「上善若水 As Good As Water」をリリース。
活動領域をジャズに限定せず、インディーズバンドとも積極的にコラボレーションを展開。2019年にSunset Rollercoasterがフジロックへ出演した際にはサポートを務めた。演奏技術はさながら、アメリカ・ヨーロッパ・日本各地のライブハウスへ「武者修行」のような個人ツアーを行う国際的かつ身軽な行動力に定評がある。
池田 欣彌 IKEDA Kinya
ウッドベース及びエレキベース演奏家、作曲家。1973年札幌生まれ。
2003年より台北を拠点にジャズ界で活動。大小様々なライブハウスや音楽祭に出入りし、創作活動を続け今に至る。伝統的なジャズから自由即興まで、研究の範囲は広きにわたる。各種音楽に対する好奇心と情熱はジャズのみにとどまらず、ロック、ポップス、スカ、レゲエなどでも発揮されている。
録音作品にも多数参加しており、雷光夏の「第三十六個故事」は2010年の第47回金馬獎で最優秀映画主題曲賞を2011年の第22回金曲獎で最優秀アルバムプロデューサー賞を受賞した。陳穎達四重奏の「生病之歌 / Song of Sicknes 」は2015年の第6回金音創作獎で最優秀ジャズ楽曲賞を、並びに「動物感傷 / Animal Triste」は2018年の第9回金音創作獎では最優秀ジャズアルバム賞を受賞。自作曲も提供しているスカバンドSKARAOKEは2021年の第12回金音創作獎2部門へノミネートされた。
台湾の他、日本、香港、マカオ、シンガポール、中国など近隣諸国にも活動の場を広げている。
INFORMATION
爵士詩靈魂夜 A Soulful Night of Jazz Poetry
鴻鴻&謝明諺 Feat. 林理惠
〔A Side〕 21:32
1 Intro (strange fruit) 曹疏影 00:53
2 ブルーノート台北 鴻鴻 04:18
3 ガーシュウィン狂想曲 陳家帶 03:39
4 レディ・デイの歌声に耳をすませば 廖偉棠 03:26
5 チェット・ベイカーの窓 崔香蘭 05:08
6 ジョン・ゾーン、台北即興ライヴ、1995 鴻鴻 04:08
〔B Side〕 19:44
7 名を尋ねて 林理惠 05:06
8 傾聴 鄭烱明 02:33
9 展望デッキ 袁紹珊 03:16
10 夜間列車 Overnight Train 鴻鴻 06:16
11 ジャズの詩 Jazz Lines 曹疏影 02:33
プロデューサー:謝明諺 Minyen Hsieh、鴻鴻 Hung Hung
編曲:謝明諺 Minyen Hsieh
作曲:謝明諺 Minyen Hsieh,鄧亦峻 Yichun Teng(#10)
Musicians:
謝明諺 Minyen Hsieh : ソプラノ・アルト・テナーサックス
林理惠 Mars Lin :ボーカル、朗読
曾增譯 Tseng-Yi Tseng : ピアノ
池田欣彌 IKEDA Kinya :ベース、ダブルベース
林偉中 Weichung Lin : ドラム
鄧亦峻 Yichun Teng : トロンボーン(#10)