1997年にロサンゼルスでスタートした、ダンス・ミュージック・フェスティバルの祭典<Electric Daisy Carnival(以下、EDC)>。ラスベガス、ニューヨーク、メキシコ、ブラジル、インドなど、北中米を中心に世界で開催され、ラスベガスにおいては3日間で40万人の動員を記録している。また、<EDC>は、2017年に<EDC Japan>として日本初上陸。2018年も5月12日(土)、13日(日)にZOZO Marine Stadium&幕張海浜公園で開催され、Deadmau5、Steve Aoki、Diplo、Martin Garrixら世界のトップDJ/トラックメイカーが集結し、イベントを大いに盛り上げた。そして、<EDC Japan 2019>が5月11日(土)、12日(日)に、同じくZOZO Marine Stadium&幕張海浜公園で行われることも発表された。Ploom Techとタッグを組み、「タバコの煙の匂いのないフェス」と称し、喫煙者も非喫煙者も楽しめる快適なフェス空間が作り上げられる予定だ。
そんな<EDC>を手がけるのが、INSOMNIAC創業者でイベントプロモーターのPasquale Rotella。2012年<International Dance Music Awards>で世界 No1プロモーターを受賞。2013〜2017 年<Billboard Power 100(音楽業界のビジネスマンランキング)>に毎年ランクインするなど、世界のダンスミュージックシーンを築いた重要人物とされている。
今回、彼の来日タイミングでインタビューを敢行。自身の音楽・イベント体験について、今年開催された<EDC Japan>、また、今後の日本での野望についてお話を伺った。
Interview:Pasquale Rotella
——まず、ご自身の音楽体験のルーツについて教えてください。
幼い頃から音楽に触れています。カリフォルニア州のヴェニスビーチで有名なボードウォークというところを走り回っているような、7〜9歳くらいの頃からですね。ヴェニスビーチは昔、治安があまり良くないことで知られていたエリアだったこともあって、アーティストやローラースケーター、ブレイクダンサー、ギャングの人などいろんな人が流れ着き、いろんなカルチャーが混じり合う場所だったんです。普段街を歩いていても、大型ラジカセを持って歩いてる人がいたり、ローラースケーターたちが機材をたくさん持ってきて音楽をかけたりしていて、音楽だけではなくアートが生まれてる場だったし、僕もそこでブレイクダンスを始めるようになった。帽子を置いてパフォーマンスをしてお金を入れてもらったりとか、そういうことを始めたのが、音楽との関係のきっかけですね。
——ブレイクダンスはいつから始めたんですか?
ブレイクダンスは、すごく治安が悪くて子供もあまり出歩かないようなところで、10代20代のお兄さんたちと混ざって一緒にやっていたのが元々のきっかけ。決して上手いからではないですけどね。当時はローカルなギャングと外から入ってきたギャングが週末に喧嘩したり、街中で撃ち合いをしているのが日常でした。両親はイタリアからアメリカに来て、治安の悪さを理解していない中で、私は年上の人たちと遊びながら、ストリートで生きていくための生き方やルールを学んでいったんです。同じ人と毎日会うから、知り合いも増えていって。そういう生活に私のバックグラウンドがありますね。
——はじめに触れていたのは、音楽ではなくブレイクダンスだったんですね。イベントなど、音楽をメインにやり始めたきっかけは?
もともと特に音楽ってわけでもなく、ビジネスにしようとは考えてもいなくて。ブレイクダンスがすごく好きで、そのために音楽を探したりしていた。だから当時は特に音楽をやりたい気持ちはなかったんですよ。
そんな中、とある日に友達の誘いでアンダーグラウンドなパーティーに行ったのですが、そこが天国のような場所で。当時はデ・ラ・ソウルや、もう少しアンダーグラウンドなN.W.A.、アイス・キューブなどが流行っていた時期。そこでみんながありのままの自分で入られて、ギャングのようなタフを装わなくてもいい環境で、さらにそこに来る人たちがクールで面白い。初めてヴェニスビーチに行った時のような感覚を、その初めて行ったアングラなクラブで覚えたんです。プロモーターとかではなくファンとして、毎週遊びに通うようになりました。それで、どんどんダンスミュージックにハマっていきましたね。
——そこから、ご自身でイベントを開催しようと思った時期ときっかけは?
ダンスミュージックにハマったのが15歳くらいの時で、初めてイベントを開催したのは16〜17歳の頃。クラブに通い始めて1年半から2年くらいで、自分のイベントを開催したんです。
初めてパーティーを開いたきっかけですが、当時はパーティそのものが違法でした。政府もレイヴ・タスク・フォースという違法なパーティーを取り締まる規則を作り、いろんなパーティーが閉じていった中で、さらに92年にLAで白人と黒人がぶつかる大きなデモ、ムーブメントがあって。22時、23時以降の外出が禁止になって、みんなパーティーにも行かなくなり、どんどんパーティーシーンが死んでいった。1ヶ月ほどして状況が落ち着いて、みんな外に出るようになっても深夜まで動きがない中で、「パーティーに行きたいから、パーティーを開こう!」と思い初めてパーティーを開催したんです。そうして回数を重ねていくうちに、ダンスもオーガナイザーもどちらもはできないから、オーガナイザーに集中するようになった感じですね。
――過去の経験が、INSOMNIACにつながっていると。今はどれくらいのフェスを企画・運営しているんですか?
数百のイベントをやっている他、35くらいのフェスを毎年開催しています。100万枚以上のチケットを年間で売っていますね。
——<EDC Japan>も去年日本に初上陸。今年も5月に開催されましたが、いかがでしたか?
こういう機会を日本で持てたことに、本当に感謝しています。日本ではあまりない、こういったテイストのイベントができてとても嬉しい。特に印象的に残ってるのは、雨が降る中でお客さんのエナジーがすごかったことだね。イベントで雨が降ったら、お客さんの顔も曇ることが多いけど、雨でより盛り上がってエンジョイしてくれていたのはすごくポジティブでよかったです。これからは、色んな人に<EDC>を知ってもらいたい。日本では<EDC>=EDMのコンサートっていうイメージが定着してると思いますが、<EDC>の本当のルーツはそこではなくて。その本来のルーツを少しずつ積み重ねていって、日本の人にもっと知っていってもらいたいなと考えていますね。
——<EDC Japan>のさらなる飛躍に向け、今後の展望をお聞かせください。
今後の<EDC Japan>では、来年というよりは、長期的に積み重ねていく上で、日本の活躍しているアーティストやコミュニティー、いろんなカルチャーを取り入れていきたいと考えています。今は客観的に「<EDC>は海外から来たフェス」という印象だと思いますが、本当はアメリカで培ってきたカルチャーだったり、コアヴァリューやルーツをどうやって日本の人が楽しめるようにしていくか、その配合を今後やっていきたいんです。音楽に限らず、アートや全体的な体験、メッセージをどう伝えるのかを大切に、単純に<EDC>を持ってくるのではなくて、本質的な部分をシーンに持っていきたいですね。
アメリカのラスベガスで開催した<EDC>は<EDC Japan>とは別物。<EDC>という単体のイベントではなくて、テクノやハウス、他にもドラムンベース、トランス、ダブステップなどいろいろなシーン集まって大きなフェスになっているんです。もちろんMartin Garrixのような大物アーティストがいる中でも、各ステージにテーマが設けられていて新しい音楽が発見できたり、メジャーなものだけでなくアングラなものにも出会えるような場所になっているんです。今後、日本でもそういったことがやっていきたくて、例えばアメリカの<Factory 93>とか、そういったシリーズのパーティーを日本に持ってくることだったり、日本で活躍しているパーティーのコミュニティーとアメリカのコミュニティーをくっつけたりして、アメリカの<EDC>に近いものを日本で構築していきたいと思っています。
——今後、日本のフェスシーンをますます盛り上げてくださることを期待しています。最後にひとつだけ。このキャラクター、Qeticのマスコットキャラクターの“あいつ”というんですが、もし名前をつけるとしたら?
エアバブルが良いか、綿棒みたいですよね。あ、クオテーションマーク? あとアザラシっぽくもあって、可愛いですね。