かしいMCバトルの戦績を誇る国内最高峰のフリースタイラー・晋平太が、自身のキャリアを総括する初のベスト・アルバム『TODAY IS A GOOD DAY TO DIE』を1月25日(金)にリリースする。アルバムには過去作に収録された楽曲群の他、新録2曲と、今までのベストバウト(MCバトルでの名試合)が10試合収録されたDVDもついてくる(!)。

「ビクトリーだけがヒストリーじゃない」―――晋平太“99.9%”より

MCバトルとは? ルールはシンプル。8小節のビート上、いかにフリースタイル(即興)のラップで相手を打ち負かすか…それがMCバトルである。言葉の格闘技とも謳われるこのゲームは、世間的に言えば、2003年のエミネム主演の映画『8マイル』と相まって、ここ日本でも徐々に知られるようになっていった。毎夏恒例のヒップホップの祭典<B-BOY PARK>でも話題はMCバトルだった。おそらくはこのイベントが認知された2002年前後を境に、多くのラッパーが成り上がりを目指し、世に出てきたと記憶している。その熱狂が、日本語ラップの研究とスキルの研磨に更なる躍進をもたらし、今日に至るシーンの隆盛に大きく貢献したのは間違いない。

そしてこのフリースタイルのMCバトルにおいて、最も数多くのドラマと波乱を呼んだラッパーが晋平太だった。韻は幾度も踏み重なって轍(グルーヴ)となり、場内の熱量を倍増させる闘志むき出しのパフォーマンスでもって、観る者を圧倒した。2005年に<B-BOY PARK>のMCバトルでチャンピオンに輝き、近年では全国予選を勝ち抜いたものが出場できる、まさしくMCバトルの最高峰と言えるチャンピオンシップ<ULTIMATE MC BATTLE>(以降、<UMB>)で2010年、2011年と2連覇を果たしている。その他にも3対3で行われるMCバトル<3on3 BATTLE>の決勝で3人抜きをして優勝、ジブラの楽曲の使用許諾を得るために本人にフリースタイルで直談判する(勿論許諾は得た)など、逸話には事欠かない。彼の旺盛な行動力は作品のリリース量にも表れている。これまでに3枚のアルバムと2枚のEPと2枚のDVDなどをリリースしている他、最近では名だたるフリースタイラーたちの曲をまとめた『M.B.A~mic battle association~』を監修している。

彼のラッパーとしてのキャリアは決して順風満帆ではなかった。だからこそ、2011年作のアルバム『REVENGE』には、苦難の時期を過ごした彼の新たな覚悟が垣間見えたし、先に引いた一文をはじめ、言葉としての重みを強く感じた。あれから1年余り、ベスト盤のアルバム・タイトルを『TODAY IS A GOOD DAY TO DIE(今日死ぬのにはいい日だ)』としている彼の心境は今どうなっているのだろうか? 国内最強のフリースタイラーにして、日本のヒップホップシーンで長く気を吐くラッパー・晋平太のこれまでとこれからについてインタビューした。

Interview:晋平太

晋平太 – ” I WILL #1 “

――ベスト盤リリースおめでとうございます。まずは晋平太さんのこれまでの歩みを遡って話していきたいと思います。最初に、ヒップホップにハマるきっかけとなったのは何でしょうか?

ヒップホップにはまるきっかけは、15歳ぐらいの時にジブラやブッタブランドといったアーティストを同級生に聴かしてもらったことです。聴いた次の時間の授業にリリック書いてました。遊びっすけどね。そこから、18歳くらいにOJIBAHとつるむようになってRUDEE KIZZ組んで、ラップも本格的になっていき、2001年に初めて<B-BOY PARK>のMCバトルに出ました。

――すごい。それではRUDEE KIZZでリリースした後、ソロアルバムをリリースしていますが、これは一体どんなきっかけがあったんでしょうか?

お金を出してくれるっていう人がいて。じゃあ出しますって言う感じで作ったんですよ、最初は。『Show Me Love』は1000枚刷って流通にかけたんだけど、100枚ぐらいしか売れなくて。で、「余ってる在庫くれ」って言ってライブやりまくって手売りで完売させたっていう(笑)。2005年の<B-BOY PARK>MCバトルで優勝した後にも、またCD出さないかっていう話を頂いたんですね。今度はちょっと額がでっかくなって。別のバトルで勝った時の優勝賞品だったワタさん(DJ WATARAI)のビートを使って出したのが、『City Of Angel』なんです。

――2005年<B-BOY PARK>MCバトル優勝以降は、バトルにも出なくなっていったんですよね。

はい。当時フリースタイルって、そんなに長く続けるもんじゃないと思ったし。2005年、自分が<B-BOY PARK>勝った年に<UMB>が出来たんですよ。んで<UMB>が徐々に盛り上がっていっている間におれはラッパーとして、もうちょっとメインストリームになりたいと思って。フリースタイルっていうもの自体もアンダーグラウンドになっていったので、俺より若い人がフリースタイルを頑張っていけばいいと思ってました。<B-BOY PARK>のバトルもなくなってしまったし。

――そして、2009年には『I CAN FLY 』、『ARE YOU HAPPY?』の2枚をリリースして、この年の<UMB>からMCバトルに復帰する訳ですが…。

ちょうどそれまでの3年が結構しんどくて。『CITY OF ANGEL』は結構売れたし、好調だったんですけど、その後が宙ぶらりんになっちゃって。若かったんですよね、22歳ぐらいで調子にも乗ってたし。急に仕事なくなっちゃって。その時にメジャーで出すかってなったり、それが流れちゃって、事務所に入ったり、やめちゃったり、ゴタゴタ嫌なことがいっぱいあって。作品も悪くないなと思って出したんですけど、なんか上手くいかなくて。それで、自主制作を始めたっていう感じなんですよね。それまでは、たまたま人にお金出してもらった中でやってたんですけど、それじゃダメだなって。

――そこで意識を変えて<UMB>にも出場される訳ですね。

そうですね。その時自分に何が出来るのかなっていった時に、何にもなくて。誰ももはや俺のことなんて知らないし…と思ったときに、フリースタイルならもう一回やっても勝てんじゃないかなって思って。それで、2009年の<UMB>の東京予選に出てみたんすよね。見事に勝てなかったんだけど、結構手応えを感じてしまって、頑張ればいけるかもしれないとか思ったんですよ。そこからのめり込んで2010年はとるぞって感じでやり始めたんです。ばりさんぶらんどっていう映像のクリエイターと一緒に全国まわって、殴りこみみたいにフリースタイル上手いやつとバトルして…狂ってたなあ(笑)。2010年はほぼフリースタイルしかしてなかったんじゃないですかね。

――それで2010年の<UMB>で優勝っていうのがドラマチックですよね。その時はどう思いました?

すげえ嬉しかったですね。目標に向かって努力をするとか全力でぶつかるとか、人生で経験したことがなかったんで、今振り返ってみると、充実した一年でしたね。<B-BOY PARK>とかも、たまたま勝ったというか、勢いだけで若かったし。2010年は不安を感じながらやっていたから、全然違うものでしたね。東京予選でも泣き、本選でも泣いてしまうっていう失態なんですけど。まあでも、それぐらい必死だったんですよ。

――そして集大成的なアルバム『REVENGE』を2011年にリリースされていますね。このタイトルになった理由や、この作品に込められた気持ちを教えて下さい。

2010年<UMB>で勝つまで、結構苦労したっていうか。嫌な思いもいっぱいしたんで、ふざけんなこの野郎っていう意味で、リベンジだなって。とにかく失敗したくなかったんで。せっかくチャンスきたんだから、みんなが聴きたいであろう自分と、こうしたら喜ぶんじゃないかっていうのを、ひたすら自分のなかで混ぜ合わせて、こうすれば期待通りなんじゃないかなって思いながら作りました。もちろん自分の気持ちもすごい入っているし、フリースタイル上がりのスキルも見せたかった。だからフリースタイル繋がりで般若君もフィーチャリングしたし、R指定もそうだし。あとは、OJIBAHともずっと仲がよかったんで一緒にやって。

☆まだまだ続く晋平太の濃密インタビュー!
そのブレない魅力にとことん迫ります!