高密度な現在の情報社会に溢れる絵文字(emoji)は、空気や水のように僕らの生活に浸透した記号だ。その記号たちを無数に組み合わせ、楽園的なランドスケープや不思議なクリーチャーのビジュアルを生み出しているのが、アーティストのたかくらかずき。イラストレーターとして商業媒体で活躍しつつ、現代美術のフィールドではブロックチェーンやVRといった先端技術を用いたインスタレーションも発表している彼は、コロナ禍を経て拠点を東京から京都に移した。

いったい何処に向かうかわからない時代に、アーティストは独特の嗅覚で自身の創作のスタイルと批評性を見出す。ここ数年のたかくらの活動の背景にあるものもおそらくそうだろう。ポップカルチャー、仏教的世界観、分断する社会、そして普遍的な問題である存在や死生観について。3月に京都で開催された<ARTISTS‘ FAIR KYOTO>への参加を皮切りにスタートさせた自身の展示<アプデ輪廻>でも、多様な関心をミックスしながら、彼は作品をつくり続けている。

INTERVIEW:たかくらかずき

<アプデ輪廻>たかくらかずきの独創的な着眼点:社会の異端としてのヴィランに interview210525_takakurakazuki_15

データのアップデートと魂の輪廻の共通項

━━ まず、最近制作なさっている<アプデ輪廻>についてお聞きしたいと思っています。ブロックチェーン技術を組み込んだ作品ですよね?

たかくら ブロックチェーンが意識の中心にある作品ではないですけど、そうですね。コロナ禍で世の中がクローズドなムードになったときに、友人と「最近、長い物語がぜんぜん終わらないよね」って会話をしてたんですよ。『進撃の巨人』や「エヴァンゲリオン」シリーズは最近やっと終わりましたけど、『ファイナルファンタジー』や『ワンピース』は終わらないし、『フォートナイト』ってゲームも毎月アップデートがあって無限に遊べちゃう。ソシャゲもそうですね。春夏秋冬みたいな時間感覚が希薄で、かつてあった「ストーリー」が「アップデート」に置き換えられつつある気がします。 

そして、現在僕は仏教をテーマに作品をつくっていますが、現代美術やそのルーツである西洋美術、その根源となるキリスト教的思想には組み込まれなかった輪廻の概念が仏教にはあります。それもアップデートと呼べるじゃないかと思ったのが、作品をつくるきっかけかもしれません。

━━ それで「アプデ」と「輪廻」なんですね。

たかくら そこからなぜかお墓の話になっていくんですけど(笑)。アップデートを「外見は変わらず、中身=魂が変わっていくもの」と解釈すると、ハードウェアとソフトウェアが墓と魂の関係にも思えてきます。数年前に祖父が亡くなって、真言宗式のお葬式だとか、ひと通りの催事を経験しました。そこでは、例えばお経は魂を繫ぎ止めるための行為に見えてくるし、魂をデータと仮定すると、バックアップしなければいつか失われてしまったり、複製されて単一性が失われたりします。そういった喪失を防ぐためのハードや仕組みとして墓石や戒名を捉えると面白いと思ったんです。

━━ そこで、複数のコンピュータによってデータの改ざんを防ぎ、透明性を実現するブロックチェーンの発想が出てくるわけですね。

たかくら テクノロジーと宗教思想を繋ぐ思考実験というか。例えばクラウドってどこにも存在しないようなイメージがありますけど、実際にはどこかにあるサーバーなしには成り立たず、最終的には容れ物が必要になります。データが漠然と漂っているわけではない。だからこそ容れ物としての墓石が必要であり、それをより強く繋ぎとめる仕組みとしてブロックチェーンが使えるなと。

━━ <アプデ輪廻>はVRやブラウザ上でも見れるようになっています。その仮想空間にはたかくらさんの過去作が漂ってますよね。あれはどんなイメージがあるのでしょうか?

たかくら まだ自分が何をやろうとしてるかわからないところも多いんですけど。とりあえず年に4回、それまでにつくった作品をアップデートしてみようと思っています。

━━ 作品供養というか、法事みたいな?

たかくら たしかに法事感ありますね。コロナ禍で季節感がよくわからなくなっちゃったからこそ、季節に合わせてアップデートできればと。そのつど何らかのエラーも起きるんですけど、それも含めて推移を見ていきたい。

VR版は「デジタルデータの実家」というサブタイトルで。一般的に僕らとデータのつきあいって、データがこっちに遊びに来てくれるイメージだと思うんですよ。それこそお盆でご先祖様の霊が帰ってくるみたいに。それがバージョン1だとすると、僕らがデータのある場所、つまり「実家に遊びに行く」のがVRを使ったバージョン2。

━━ 体験者があの世に行って、データと出会う。

たかくら そうですね。一昔前、VRが一般に普及するくらいの頃にバーチャル空間に水面をレイアウトするのがブームになっている時期があって、それもふまえて<アプデ輪廻>でもあえて水面をつくっています。かつオブジェクトには衝突判定をつけないようにしているので、僕らが近づいてもすり抜けちゃう。

━━ 幽霊みたいに。

たかくら デジタルデータの素の状態を現実の物理法則に揃えなくてもいいじゃん、というか。一種の幽霊の世界としてバージョン2があり、それを今後3、4とアップデートさせていく構想です。それまであった作品自体のかたちが変わるかもしれないし、メディアによって見え方も変わるかもしれない。それと同時に、NFTで販売することでデータの扱い方に多様性を持たせられたらと思っています。

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アプデ輪廻 ver2.0 -デジタルデータの実家-

テクノロジーと宗教に類似する“見えない“神秘性

━━ これは若い世代のアーティストに共通する感覚だと思うのですが、たかくらさんも作品が存在する空間やメディアに価値的な優劣をあまりつけないですよね。手でつくられたペインティングや彫刻だから価値が大きいわけじゃない。

たかくら 僕はデータをつくってる意識が強くて、それがどのくらいの精度で現実にアウトプットされるかはあまり問題にしてない気がします。例えばイラストレーションの仕事でも、CMYK変換したときに色が変わっちゃうとかほとんど気にしてなくて、むしろずれている方が面白いと思ってしまう。デジタルデータは電気信号が生んだビジョンだったり、夢や幽霊みたいなものに過ぎなくて、それを自分の思った通りに物理空間に出力しようという意欲がないんです。もちろんマスターとしてのデータは存在するわけで、それをどう夢のままマスター化できるかっていうのは自分の大きなテーマではありますけど。

━━ <アプデ輪廻>はまさにそういう作品になってますね。

たかくら 物質至上主義の時代が長らくあって、そこではデータの身分が低くて奴隷扱いだったでしょ(笑)。印刷物はアートじゃないよ、みたいに言われ続けたことの鬱憤を引きずってるのかもしれない。だったら印刷すらしなくていいじゃん、データが作品=イデアでいいじゃん、っていうのは意識としてありますね。現実に出力されたものはすべて「再現」でしかない。

━━ その感覚ってどこで育まれたものだと思いますか? 自分が触れてきた文化環境の影響?

たかくら やっぱりそれはゲームですかね。ゲームって現実に存在するのは小さなカセットなのに、その中に膨大なイメージや情報が入っている。それがかっこいいなと。

━━ 造形として?

たかくら もちろん、造形も含めてです。僕はレゴブロックで作品を作ったりしてますけど、データの感触としていちばん納得できるのがプラスチックなんです。それはデータに触れる体験がおもにゲームから来ていて、カセットもコントローラーもプラスチックだからだと思うんです。「ああ、自分はデータに触ってるな」と実感できます。そしてこの経験は「データにはやっぱり容器が必要なんだな」ってことも実感させます。

ダウンロードが一般化している最近は、その器のほうがどんどん小さく、物理的に存在しなくなっていますけど、それは嘘だと思う。大地震が来てサーバーが壊れたらYouTubeもSpotifyも使えなくなるでしょう。

━━ 4月にLINEで通信障害が起きましたけど、メンテナンス時に電源設備の電源を落としたのが原因だったのを思い出します。超フィジカルな理由でびっくりしました。

たかくら そうそう(笑)。人間の心と身体が表裏一体であるように、データと容れ物も不可分。

━━ 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』って観ました?

たかくら 公開されてすぐに観ました!

━━ 最後あたりで“エヴァンゲリオン・イマジナリー”が出てくるじゃないですか。想像力を持つ生き物である人間だけが認識できる概念上のエヴァっていう量子力学っぽい謎設定でしたけど、ようは「現実と虚構の両方で人間は生きていくんだ」っていう庵野秀明監督の主張を裏付けるものだったと思うんです。現実と想像をポジティブに混同しようとする意志は、たかくらさんの創作にも感じます。

たかくら すごくあります。仏教に関心を持っている理由もそれで、そもそも学問だったものが大衆化して、スピリチュアルな領域に至るわけですよね。そこにはブラックボックス化されていった部分がたくさんあって、それを理解するために人は信仰心のようなものを駆動している。これは現在の科学もそうで、例えばなんでスマホに「Hey Siri」って言うとAIが答えてくれるかなんて大半の人はわからないですよね。それでも、みんなSiriっていう存在があたかも実在するように振舞って機械と接している。そこに僕は呪術性や神秘性を感じるし、イマジナリーな体験によって想像の産物を補完しているのが人間の面白いところだと思いますね。僕にしたって、VRや印刷の技術についてほぼ何も知らないまま作品つくってますからね。

━━ テック系のアーティストに対する一般的な認知って、先端技術について熟知したアーキテクトみたいなイメージがあるじゃないですか。例えばチームラボが「ウルトラテクノロジスト集団」を自称してた時期がありましたけど、たかくらさんは自分が創造神になりたいわけじゃなくて、その手前のところで技術の複雑さと戯れるみたいなことに関心があるのでしょうか?

たかくら そうですね。仏教に喩えると、仏陀の直の教えよりも、日本に伝来して様々なものと混ざった仏教の教えを伝えるひとみたいな。テック系の脳みそじゃないですから、ひとまず南無阿弥陀仏を唱えましょう、って言ってる側の人です(笑)。起源を知らないがゆえの誤解釈によってもたらされた神秘性や歪みは日本仏教の面白さだとも思いますしね。

━━ その考え方は、仏教や神道、東洋哲学と親和性のある作風にもつながりそうです。実家がお寺さんなのかなと思ったりしてたのですが。

たかくら そんなことないです(笑)。神道なんかはもともと好きで作品のテーマにしていましたが、影響として大きかったのはカオス*ラウンジの展示への参加です。東京の湯島でやった<キャラクラッシュ!>(2014年)と、福島でやった<カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」>(2015年)。

━━ 後者ではシューティングゲームの『摩尼遊戯TOKOYO』(2016年〜)を展示してましたね。

たかくら 両方の展示でフィールドワークをしたんですよ。例えば東北の廃仏毀釈についてリサーチしていると、キリスト教的なものじゃなくて、当然仏教・神道的なものが出てくる。それと福島ではいわきのお寺で展示させていただいたんですけど、そこの住職さんがゲームをすごく気に入ってくれて、仏教って意外と懐が広いと感じたというか。日本って無宗教を自認してる人が多いし、とくにオウム真理教事件以降は宗教に対するアレルギーも強いでしょう。でも宗教と人間の関係ってそういうものだけじゃない。だいたい日本の美術にしても、曾我蕭白とか伊藤若冲の作品を所蔵しているのは多くがお寺じゃないですか。そういう文化的な土台がある国で、西洋美術に無理して乗っかる必要はないと思うんです。

━━ 自分はたかくらさんよりもちょっと世代が上なので、宗教や政治のイデオロギーに対する違和感があります。だからカオス*ラウンジにしても東日本大震災以降の日本的なものへの回帰、つまり黒瀬陽平さんのキュレーション色が強まって以降の展開にあまり共感が持てないんですよね。ただ寺社や宗教が近代以前に有していた社会的インフラや学問的な側面は無視できないと思います。

たかくら 政治や歴史とも密接に繋がってますからね。徳川幕府が仏教を儒教と混合させて組織化し、明治維新以降も徳川的な規範は脈々と受け継がれて現在にもつながっている。そのリアリティは僕にとって現代美術よりも切実なんです。信仰について問うことは、文化を考えることであって、その問題を無視して作品をつくれない。

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摩尼遊戯TOKOYO

ピカソ、ダリ…遺しかたの理想像

━━ ブロックチェーンやNFTのような新しい技術であっても、「後世に残す」や「永続的な価値を得る」といった人間の欲望を補強するものとしてあるのが面白いなと思います。その欲望自体が虚しいものだとも感じますが。

たかくら 美術も人間の営みも、数万年後にはなくなってると思いますしね。それでも「残したい」と思うのが人間の本質なんでしょう。

━━ 自分はインタビューして文章を書く仕事を主にしてますが、それは、自分が思考を始めるきっかけになったり、感動を与えられた作品や文化事象に対しての、ある種の「負債」を返すために続けてる意識があります。負い目というのかな。おそらくこの感覚は自分だけじゃなくて、美術に関わってる人間であれば多かれ少なかれ持ってるはずで、それが結果として、自分が帰属してる制度の維持のために働くところがある。一方で、映画『ファイト・クラブ』(1999年)のラストのように、クレジットカード情報が保存されたサーバーのある会社ビルを爆破して、全部吹っ飛ばしたいという欲望もあるんですけどね(苦笑)。

たかくら でも残されることで100年前の作家の仕事を見れるのは単純に嬉しいですよ。進化生物学のリチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』のなかでミームの話をしているじゃないですか。情報がDNAの伝達みたいに受け継がれていく。そこには希望を持てるかなと思っています。だから自分も何かをつくって恩返ししてるような感じ。4年ぐらい前にスペイン旅行をして、ピカソとダリの美術館を訪ねたんですよ。僕はもう、断然ダリが好みでした。

━━ フィゲラスって街にありますよね。

たかくら ダリが全部自分でデザインしていて、さらに彼の墓も美術館の下にあるんです。美術家としていちばん幸せな死に方だと思いますね。ピカソ美術館もいいんだけど、街の中心部にあって、警備員もめちゃくちゃいて、いかにも「僕が時代をつくりました!」って感じに溢れてる。それはそれで最高かもしれないですけど(笑)。

それに比べて、ダリ美術館はスペインでもフランスとの国境に近い周縁に追いやられている。それは彼がファシズムに傾倒した時期があった※からという背景もあるらしいですが、ピカソやデュシャンが現代につながるものをつくってるなかで、それに反発するかのように端っこのほうで、異端かつカルトなものを生み出していた。そのころはまだきっと最新でカルト視されていたであろう量子力学の知見も深めていく。そういう生き方、死に方は憧れますし、自分の死に方も考えちゃいます。

※「ヒトラーを連想させるファシズムへの傾倒」を理由に、1934年の裁判によって当時所属していたシュルレアリスト団体より脱退させられている。

━━ 変な質問ですが、どういう風に死にたいと思います?

たかくら どう死にたいかなあ。お墓のことは気になります。実家にも先祖代々の墓はありますけど、そこに入ろうとは考えていない。面白いお墓に入って死にたいので、準備として今はお墓の作品を作っているのかもしれません。

お墓っていろんな意味を持つもので、徳川家康の日光東照宮、ファラオのピラミッドのように権力の象徴にもなります。でも、墓にちなんだお祭りなんかもあって、基本的には面白いものだと思うんですよ。デジタルデータもこの後消えていくとしたら、データのためのお墓、埋葬ってどうしたらいいんだろう、とか。そういうことをずっと考えていますね。

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アプデ輪廻 ver1.0
Photo by Yuji Oku

「社会のヴィラン」としてのアーティスト観

━━ 芸術が、生者だけでなく死者や人間ではない存在や概念について考えるためのきっかけになってきたからこそ、昨今のポストヒューマンや人新世の議論と芸術が結びつく機会を多く見かけます。たかくらさんの関心も近いところにある?

たかくら そうですね。でも学問的、社会的な正しさや実践という方向性にはあまり向かわないと思います。おそらくそこに答えはないから。だったら、人の想像力もデジタルデータも、人間の脳やコンピューターを走る電気信号によって生まれるのであれば、そこに日本の仏教や神道にある八百万の概念をインストールすれば、電気信号そのものにも思考があると考えることもできる。そういうふうに極端に飛躍して作品にする方が僕は面白いと思っています。極めて主観的な世界観だけれど、絶対的に客観的な正義って存在しないと思っているので。

━━ 人間の数だけ主観があって、その主観のつらなりで現行の社会が出来上がってるというか。どうしても人間は自分の正しさを盲信してしまいがちで、それを他者や他の文化圏にも当てはめることができると考えてしまう。みんな考えが違い、仲良くできない相手も無数にいるけれど、その差異を前提として集まれる場所があり、そこで交わされる関わりと相互理解の集積が結果として世の中をよくしていくみたいなことができればいいんですけどね。

たかくら いまはみんな分断してしまって、意見の異なる人同士が重なっていられる世界はもうなくなってしまった。さらに思想が近いクラスタの中でも、細かな差異で領土間の衝突が起こってしまっている。

今日のインタビューに備えて、今朝、横尾忠則さんと糸井重里さんの対談を読んでたんですよ。横尾さん好きなんで気分を上げようと(笑)。そのなかで横尾さんが「絵描きになってなかったら犯罪者になってたかもしれない」って話をしていて、これが僕の思う芸術家の本質だなと。芸術家や表現者には社会の外側に存在して、社会を見る役割があるはずだから。でも、いまはその社会のなかに芸術も内在しきっていて、社会内の判断やジャッジを待って作品をつくってるようなところがある。それって全然アバンギャルドじゃないし、トリックスターでもない。サービス業ですよ。

これは漫画家の友人から聞いた話なんですが、漫画業界にも似たようなことが起こっているみたいで、ジャンルがハッシュタグのように細分化されて、受注生産的なものばかりになっている。社会構造の外側にいる表現者っていうものが認められなくなってきていて「それってもう終わりじゃん」って思います。「ちょっと気持ち悪いよな」「怖いよな」って人や物がもう受け入れられない状態で、それこそ恐ろしい。

━━ ネット広告によく出てくる漫画を見ると、そういうの多いですよね。貧困や差別の問題をテーマにしつつ、そこから生じる人間の妬みとかコンプレックスを煽るような広告ばかりで。作品の一部を切り取って、そういう風に見えるように演出されている場合もあると思いますが、そこに人間の欲望のニーズがあることを分かってマーケティングしているわけで、まったく社会の外部に向かう意思がない。むしろ内側に留め置こうとしている。

たかくら 本来、表現や美術の歴史って、既存のルールを壊すことでパラダイムを転換していくものですよね。でもポストモダン以降はそのルールを強固にするばかりで、みんなをルールに従順なスポーツプレイヤーにさせてしまっている感じがあります。

『アベンジャーズ』のサノスって、新世界をつくるために人口を半分にして、世界の半分をぶっ壊すっていうヴィランですよね。でも、ルールを壊すこと自体が悪になっている現在においては、本質的にはサノスこそが必要なトリックスターだと思うんです。映画では、もちろん悪夢のような大量虐殺でもあるので彼を抑え込む必要があったのですが、違う形でサノスの望みを肯定してあげれたらどういう世界になっていたんだろうとは考えました。

━━ マーベル映画は「娯楽である」ってことを基調にしつつも、社会の矛盾を組み込んだ作劇をしてるじゃないですか。アメリカ人の精神性の限界と変容を主題とする『ザ・ライダー』(2017年)、『ノマドランド』(2021年)のクロエ・ジャオ監督を、『エターナルズ』(2021年内公開予定)に抜擢するのもそういうことだと思っています。ただ『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)に関しては、一連のMCUの完結編であって最大公約数の人が気持ちよく解放されて映画館から送り出されるエンディングを用意せざるをえなかったんだろうなと。最近配信で展開している『ファルコン&ウィンターソルジャー』(2021年)などの新シリーズでは、その無理矢理な結末がもたらした歪みを主題にしているので、またちょっと違うかなとは思いますが。

たかくら 僕、やっぱりヴィランが好きなんですよ。戦隊ものとか『仮面ライダー』でも敵側の怪人が好き。アーティストも怪人であるべきだと思ってます。

でも、現代のルールのもとでは怪人ってただのヤバイ奴になっちゃう。怪人の持っている社会にとらわれない思考実験の形とかファンタジー性が失われて、こういう悪いことしたから悪いやつだよね、っていう結果の話になってしまう。人類皆兄弟的な、「引いて見たらみんないい子だよね」っていう平和な話じゃなく、もっと圧倒的にミステリアスで、ルールや常識を揺るがす仕事をしていきたい。皆が正義を振りかざして怒りと恐れに燃える現代だからこそ、それを揺るがすような愛すべき狂人、みたいなやつがこの時代に多少はいても良いと思っています。

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Text by 島貫泰介
Photo by 中村寛史

PROFILE

たかくらかずき

日本の伝統的なスタイルとTVゲームやデジタルの持つ風味をミックスした作風で作品を手がける。TVやCM,映画のアニメーションを制作しつつ、2021年からはアーティスト活動にも力を入れる。現在はVRやNFTを使用し、デジタル表現の価値を追求している。近年のアニメーションワークスに、NHK教育テレビ「シャキーン!」「マリーの知っとこ!ジャポン」「まちスコープ」、劇場映画「WE ARE LITTLE ZOMBIES」、PARCOポイントCM、日本科学未来館ジオコスモス「未来の地層」など。

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アプデ輪廻

アプデ輪廻 ver2.0 -デジタルデータの実家-:2021年4月1日(木)〜

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