欧米のインディペンデント・シーンを語る上でハズせないレーベルといえば、英ロンドンを拠点とする〈ヘヴンリー・レコーディングス(Heavenly Recordings)〉だろう。

1990年に設立し、マニック・ストリート・プリーチャーズやセイント・エティエンヌ、そしてダヴズといったバンドを次々とヒットさせてきたこのレーベルも、今年で遂に25周年。そんな老舗とも呼べるレーベルが近年ますます存在感を増している理由は、ひとつにトーイ、テンプルズ、ザ・ウィッチーズといった「サイケデリック」のトレンドと共振するバンドにいち早く目をつけていたこと。そして、純粋に優れた曲を書くアーティストを追い求めてきた結果として、今なおレーベルが持つ求心力を失っていないからだ。

7月1日に1stアルバム『Wonderlust』で日本デビューを飾ったキッド・ウェーヴは、90年代のUSオルタナティヴ・ロックを思わせるサウンドと甘酸っぱいメロディーが話題の大型新人で、まさに〈ヘヴンリー〉が出会うべくして出会ったバンドといえるかもしれない。

25周年を迎えたUKの名門、ヘヴンリーの創設者に聞く音楽事情 feature_heavenly_kidwave

Kid Wave – “Wonderlust”

今回Qeticでは、〈ヘヴンリー〉の生みの親にして、UKの音楽シーンの浮き沈みを目撃してきた生き証人=ジェフ・バレット氏にロング・インタビューを敢行。サイケデリックに関するこちらの質問や予想はあっさりと否定されてしまったが、レーベル誕生の経緯からアラン・マッギーと共に〈クリエイション〉で働いていた時代のエピソード、そしてサブスクリプション・サービスについての考えまで、興味深い話を数多く聞き出すことができた。

Interview:Jeff Barrett (Heavenly Recordings)

今でも音楽を愛しているから、ここまで続けられた

——今年でレーベル設立から25周年を迎えましたが、ここまで長く続けることができた理由はどこにあると考えていますか。

今でも音楽を愛していることだね。それが本当に助けになっているよ。僕にとって、この25年間のほとんどがこの上なく素晴らしくて、10代のころ思い描いたどんな夢をも超えるような時間だったから、そういう意味で成功したと言えると思う。そしてその成功の理由はさっきも言った通り、単純に僕らが音楽を愛していて、ミュージシャンやアーティスト、ソングライターたちと仕事をすることを愛しているからさ。それだけだよ。

——あらためて〈ヘヴンリー〉誕生の経緯を教えてください。

〈ヘヴンリー〉を始める前に2つのレーベルをやっていたんだ。1985年に〈クリエイション・レコーズ〉で仕事をするためにロンドンへ移ってきて、バンドをイベントに出したりしながら、アラン(・マッギー)のために働いていた。そしてループ(Loop)というバンドに出会って、〈Head〉っていうレーベルを始めて彼らのアルバムをリリースした。その後に〈Sub-Aqua〉っていうレーベルもスタートさせた。たった2枚のレコードしかリリースしなかったけれどね。そして1990年に〈ヘヴンリー〉を始めたのは、ビジネス上の理由からだったんだ。僕がブリストルのレコード・ショップで一緒に働いたことがあって、当時ディストリビューターで働いていた知人が、1989年に僕とハウス・レーベルを始めたいと言ってきたことから始まった。とはいえ、僕がそれを始めたのは、「それをやりたい」という心からの願望があったからだと思う。きっかけとなったのが彼からの電話であれ、他の誰かからの電話であれ、それとも別の何かであれ、たとえ僕に一切お金がなくても、きっとレコードをリリースしていたと思うんだ。僕は10代かそれよりも前から音楽に夢中だったし、そういった願望をずっと抱いていて、それを実行しなきゃならなかった。

——1990年といえば、ソニック・ユースの『グー』、ザ・ラーズの『ザ・ラーズ』、プリファブ・スプラウトの『ヨルダン:ザ・カムバック』といった名盤がリリースされた年ですが、当時のあなたはどんな青年でしたか?

ハウスばっかり聴いてたよ。その当時のハウスとカントリーをおもに聴いていた。ソニック・ユースは好きだし、その当時のレコードではダイナソーJr.の『バグ』(1988年)が一番のお気に入りで、好きなシングルのひとつは彼らの“Freak Scene”だったけど、当時のお気に入りのシングル・トップ10のうち1位から9位はブラック・アメリカン・ハウスか、ふざけたイタリアン・ハウスだよ。あのころのイギリスにはアシッド・ハウスの名の下にとてもエキサイティングなクラブ・シーンがあって、夜通しパーティーをして踊って、様々なシーンに属する色々な人たちに出会って、そこでたくさんのマジックが生まれたんだ。そしてその化学反応こそが〈ヘヴンリー〉の誕生を後押しした。だからロックはしばらくの間、僕の興味の範囲外だったのさ。

Dinosaur Jr. – “Freak Scene”

——なるほど。

当時はもう〈クリエイション〉で働くのはやめていたけど、プライマル・スクリームとは長いこと断続的に仕事をしていて、そのころ彼らが僕と一緒にパーティーに出かけたときにアンドリュー・ウェザーオールを紹介して、そこから『スクリーマデリカ』(1991年)が生まれたんだ。あのころはそういうマジックがたくさん生まれていて、可能性は無限だった。今とは違うポジティヴなエネルギーが溢れていて、新しい友人ができれば、新しいサウンドも生まれていった。とてもクリエイティヴな時代で、そのころロック・ミュージックはそれほどエキサイティングだと思わなかったんだ。

Primal Scream – “Loaded”

——〈クリエイション〉において学んだこと、そして忘れないエピソードは何ですか?

アランからは、努力さえすれば誰でもそれが可能だっていうことを学んだよ。彼は僕に、さっきも言ったように自分の想像もつかなかったような素晴らしい経験をする機会を与えてくれたし、僕にとって最初の仕事を与えてくれた。アランとディック(・グリーン)と仕事をするのは素晴らしかったよ、そのころはまだアランがドラッグをやり始める前だったけれど、彼はとてもクレイジーで、僕がそれまでに出会った誰よりも情熱と野望とモチベーションに溢れていた。そしてそれが僕にも伝染ったんだと思う。僕は彼らのやり方がとても好きで、それは僕が思うにパンク・ロックが持っていたDIY精神や、「自分らしくある」っていう精神と地続きのものだった。でも、「学んだこと」と言われるとよくわからないな……。彼らは実のところ、直接的には何も教えてくれなかったからさ。

——そうだったんですね。

うん、何かのやり方を教えてくれたことは一度もなかったんだ。1985年の秋にいきなりジーザス&メリーチェインのツアーにマネージャーとして同行させられたんだけれど、僕はツアー・マネージャーが何かすら教えられていなかったし、パスポートすら持ってなくて、何をすればいいのかまったく知らなかった。ツアーから帰ってきて、アランに「ツアー中の経費の領収書はどこだ?」って訊かれて、「領収書って何のこと?」って言ったよ(笑)。だから、彼らが僕に何かを教えてくれたことはなかったけれど、彼らからは何でも自分でやる方法を学んだよ。僕らは実際、何もかもその場でやりながら学んでいったんだ。それって素晴らしい立場だったと思うよ。アランは僕にチャンスを与えてくれて、彼の情熱は僕に意欲を与えてくれた。

——ある意味、学ぶには理想的な環境ですね。

ある意味ではね。自分でなんとかしなきゃならないんだからさ。でも、フェアじゃなかったよ! 僕は何となくどうすればいいかってアイディアを持ってはいたし、もしも一度何かヘマをしたら、その後同じヘマを繰り返しさえしなければなんとかなった。誰もが手探りだったし、バンドの連中だってまともにチューニングすらできていなかったんだから!

——2000年代に入ると、〈EMI〉と合併してダヴズや22-20s、そしてザ・マジック・ナンバーズといったバンドもヒットさせました。ことインディペンデント・レーベルにおいては「アンチ・メジャー」を掲げる人たちも少なくないですが、実際にメジャー・レーベルと仕事をしたことでどんな教訓を得ましたか?

(溜め息)何を学んだか……。さあ、わからないな……。もちろん情熱だけで25年も事業を続けることはできないし、そこから何かは学んだはずなんだけど、それが何かって訊かれると……。僕らが彼らの力を借りたのは、僕らの夢を実現させ続けるためだったんだ。彼らがいなければ、事業は頓挫していたかもしれなかった。彼らは資金を提供してくれて、流通や売上げを手助けしてくれて、幸運なことに僕らが一緒に仕事をした人々はとても良い人たちで、プロフェッショナルで経験も豊富な人々だった。そして僕が思うには、「アメリカでレコードを売るためにはどうすれば良いのか?」というのをより明確に理解することができたことだったり、「アメリカのラジオで曲を流してもらうためにはどうすればいいのか?」っていうことくらいじゃないかな。僕にとっては何かを学ぶための経験ってわけじゃなかったし、正直なところ何もかも、僕にとっては自分が楽しむためのものでしかなかったんだ。教訓を得るためのものとしてみたことはなかったし、「何かを学ぶ」っていうのは僕の優先事項のリストには入っていなかった。それは僕の無知や愚かさゆえのものだったかもしれないけれど、それでもなんとかなったのさ。一番大事な教訓は「アーティストを大切に扱う」ってことだけれど、それはそもそもマナーの問題であって、何かから学ばなきゃならないものじゃないよね。

Doves – “There Goes the Fear”

——ちなみに、Facebookページの「責任者/マネージャー」欄に、スキップ・スペンスの名前があるのはなぜですか?

そんな項目があるの? それすら知らなかったよ! Facebookについてはまったく関わっていないからわからないな。マネージャーがスキップ・スペンスだって!? ハハハ、いいね(笑)。スキップ・スペンスはもっとも素晴らしいレコードのひとつ『OAR』(69年)を作ったアーティストで、たとえ彼が今生きていたとしても、ゼネラル・マネージャーとして雇うことは多分ないと思うけれど——ぜひ会ってみたかった人物だね。以前、14年ほどオフィス・マネージャーをしていたんだけど、イースト・ヴィレッジっていうバンドのドラマーでもあるスペンサー・スミスっていう人物がいて、誰かがその名前にかけたジョークでそう書いたんじゃないかな(笑)。

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