めがねの国内生産シェア90%以上を誇る福井県。一般的には“鯖江”という地名が有名かもしれないが、そもそも福井県でめがね産業を興した『MASUNAGA』というブランドをご存知だろうか? そこで今回は、時代を超えてマスターピースを生み出し続けるMASUNAGAのめがねに対する哲学やプロダクツとしての魅力、グローバル戦略などを、増永眼鏡株式会社でマーケティング室・室長を担当する野原弘道氏に伺った。
村おこしとして始まった始祖・五左衛門のめがね作り
今年2月イタリアミラノにて開催されたアイウェアの国際展『MIDO2019』にも多数の日本ブランドが出展し、市場を拡大している日本のめがね産業。その中でも福井県は日本随一のめがね産地として知られ、伝統を受け継ぐ職人たちの匠の技によって作られる逸品は著名人をはじめ愛好家が多く、さらにその評判は日本を飛び越え、世界中で高い評価を受けている。
国内外問わず認知されるようになった福井のめがね。ただし、どんな文化や芸術にも“始祖”が存在するように、福井のめがね産業にも同様の存在がいる。それは今から100年以上も前、日露戦争の国内特需に沸く日本の時勢を横目に、福井の地でめがね作りを始めた増永眼鏡の創業者・増永五左衛門のことだ。
「福井でめがねを作り始める前、日本でめがねを作っていたのは東京と大阪でした。戦国時代に鎧や甲冑を作っていた人たちは手先が器用だったため、その技術を生かしてめがね作りをしていたんです。そもそも、福井県でめがね作りを始めるきっかけは村おこしでした。今から100年以上前に、村が過疎化することを危惧していた創業者の増永五左衛門がさまざまなことにチャレンジした結果、最終的に辿り着いたのがめがね作り。もしほかの産業が先に成功していたら、今のように福井でめがね産業が定着することは無かったと思います」
雪深く、しかも田畑の少ない土地で生きる人々の生活水準を上げるために五左衛門が考えた起死回生の策がめがね作り。五左衛門は大阪から職人を呼び寄せ、村で手先の器用な若者たちに習わせた。そして彼らは“増永一期生”と呼ばれ、その後、福井の地においてめがね作りを先導していくこととなる。
「増永一期生の下にも弟子たちがいて、彼らが西洋のギルド制にも似た帳場制と呼ばれる制度によって互いの技術を磨き合っていきました。帳場制とは、班ごとにめがねを作ってそれらを互いに品評し、一番良いものを五左衛門が買い上げるというシステム。その意味で言えば、五左衛門はめがね作りのプロではなく、ファウンダーなんですね。場所と材料を提供し、実力が付いたらどんどん独立させていく。そうして福井でめがね産業が形成されていきました」
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Text:ラスカル(NaNo.works)
Photos:Masato Yokoyama