前作の成功を経て、さらに自我を開放したマイケルは、代名詞ともいえる特徴的なシャウトとブレスを全面に出し、当時、黒人アーティストのミュージックビデオが流れる事が珍しかったという中、MTVで“Billie Jean”のビデオがオンエアされ、世間に大きな衝撃を与えた。このことから、ビデオ、ひいてはビジュアル・イメージの重要性に気づいたマイケルは、続く“スリラー”のミュージックビデオを、さながらホラー映画のショートフィルム作品のように作り上げた。これが当時としては大変に革命的で、今日まで続くストーリーミュージックビデオのベースとなった。続く83年、かつての遺恨を流す形で〈モータウン〉の25周年イベントに出演したマイケルは、ムーン・ウォークを初披露し、唯一無二のエンターテイナーであることを知らしめた。多種多様で斬新なアイデアを元に、マイケル自身は更にエンターテイナーとしての独自のキャラクターを形成していく。

▼MOTOWN25での初のムーンウォーク・パフォーマンス

84年ジャクソンズの5作目『ヴィクトリー』を発表するも、自分の成功に乗っかり利用せんとする周囲の人間に不信感を募らせていたマイケルは、兼ねてより横暴な父親はもとより、家族や唯一信頼していた母親とも距離をおく形で、『ヴィクトリー』ツアー終了と共に、ジャクソンズから脱退。そして85年、クインシー・ジョーンズの呼びかけによりアメリカ中のトップ・アーティスト――スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、レイ・チャールズ、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン――等など錚々たるメンバー(述べ45人!)が、アフリカ飢餓救済のためのプロジェクト<USA For Africa>に集まり、マイケルがライオネル・リッチーと共に作詞作曲を手掛けた主題曲“We Are The World”をレコーディングした。言ってみれば、トップ・ミュージシャンたちを従えて、誰よりも多くのパートを歌ったマイケルが、トップ・アーティストとなった瞬間だったのかもしれない。翌86年にはディズニーランドの3Dアトラクション、キャプテンEOの主演を務め、子供たちのスターとしても人気を博した。

USA for Africa / We Are The World

▼We Are The World時期のマイケル

『スリラー』を超えなくてはならないというプレッシャーや、その間ヒップホップという新たなジャンルの「台頭によって大きく様相を変えつつあったシーンの中で、制作は混迷を極め、マイケルとクインシーは衝突を繰り返し、何度かの発売延期を重ね、87年、新作『バッド』を完成させた。『スリラー』に届かないまでも、当たり前のように記録的なセールスを誇った本作は、よりロック・テイストが強くなり、まるで現状を打ち破ろうとしているマイケルの心情が伝わってくる。そして初のソロでの大規模なワールド・ツアーが開催された。15カ国、計123回の公演で、史上最高額のコンサート売上を記録するも、この頃マイケルという浮世離れしたスター像が独り歩きしていき、根も葉もないデマやニュースをメディアがとりあげていくようになる。マスコミに嫌気がさしたマイケルは、サンタ・イネス渓谷に建てたネヴァーランドへ逃げるように移り住み、更に人間不信を強めていく。

Michael Jackson Wembley Live

しかし、悪い事ばかりでもなかった。89年、<BREアワード>で、これまでの功績を称えられ、ポップ、ロック、ソウルの三冠を達成したマイケルは、親友でもあるエリザベス・テイラーから、のちのキング・オブ・ポップの由来となる「The True King of Pop, Rock, and Soul」と評され、次作への自信へ繋げた。クインシーと共に作り上げた『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』を経て、30代になったマイケルは、次期プロデューサーに若干23歳のテディー・ライリーを抜擢。ヒップホップの素養をもち、ニュー・ジャック・スウィングを広めたとされる若い感性を持つテディーだが、プロデュースにあたって、マイケルからは「ぼくを新人だと思ってプロデュースしてほしい、今まで通りやっているならば、僕は今まで通りの世界観しか作れなくなる」と相談されたという。かくして、テディーの尽力もあり、当時の潮流をとりこみながらも、マイケルらしさを活かした、約77分にもわたるアルバム『デンジャラス』が91年に発表される。

Michael Jackson / Black Or White

『デンジャラス』はよりビートが洗練され、ロックのエッセンスをダンス・クラシックとして落としこみ、またそれでいながら、メッセージ性も孕んだ発明的作品だった。『デンジャラス』は、前作『バッド』を超えるセールスを記録し、この成功をみたマイケルは二度とやらないとしていたワールド・ロング・ツアーを敢行することに決める。このツアーで得た利益は恵まれない子供たちを支援する「ヒール・ザ・ワールド基金」など、さまざまな慈善団体に寄付された。93年、マイケルは人気のTV番組『オプラ・ウィンフリー・ショウ』に生出演し、私生活に及ぶ様々な質問に答えた。かねてより疑問視されていた肌の色について言及されたマイケルは、その時に初めて自身が肌の色素が破壊され、真っ白になってしまう「尋常性白斑症」に罹患していること、またそれが治療不可能であることを告白した。人間不信に陥るも、音楽への熱量から慈善活動へのアクションを起こし、ようやく自分のコンプレックスを曝け出す事が出来た彼を待ち受けていたのは、更なる絶望だった。それまでマイケルの友人として一緒にメディア出演をしていた13歳の少年が、マイケルから虐待を受けたとして、告発したのである。

次ページ:それまでのスーパースターというイメージから一転