この冬、ザ・チーフタンズ(The Chieftains)がやってくる。結成55周年を迎えたアイリッシュ・トラッドの至宝にして、世界中のミュージシャンとの共演を通してケルト音楽の魅力を伝えてきたパイオニア。
実に5年ぶりとなる来日ツアーだ。ザ・ローリング・ストーンズ、ヴァン・モリソン、スティング、ロジャー・ダルトリー(ザ・フー)、ライ・クーダーなど、ロック人脈との共演経験も多数。日本人の音楽家にも、ジャンルを問わず多大な影響を与えている。
底抜けのバイタリティーで半世紀以上バンドを率いてきたリーダー、パディ・モローニは御年79歳。茶目っ気たっぷりに音楽への愛と情熱を語るその姿は、まさにバンドを駆動させるエンジンそのもので、年齢をまるで感じさせない。
今回のインタビュー中も冗談を飛ばし、大いに笑い、ときにはポケットから取り出したディン・ホイッスルを吹きながら長い長いバンドの歴史を振り返ってくれた。
アイルランド伝統音楽のレジェンドが語る、日本ツアーへの意気込みとは?
Interview:パディ・モローニ
──本日はお目にかかれて光栄です。まず最初に「ザ・チーフタンズ」というバンド名の由来から教えていただけますか?
これはジョン・モンテギューの「族長の死(Death of a Chieftain)」という詩集のタイトルから採ったんだ。アイルランドでは著名な詩人なんだけど、古くからの友人でね。1960年代、僕が専業のミュージシャンになる前の一時期、〈クラダ・レコード〉という伝統音楽のレーベルで一緒に働いていた。
で、1962年に自分のバンドを立ち上げた際に電話をくれてね。このバンド名を提案してくれた。残念ながら昨年12月に亡くなってしまったんだけど、そのお葬式でも僕が演奏をしたんだよ。
──「チーフタン=族長」という言葉には、どういうニュアンスがあるのですか?
はるか昔、アイルランドには「クラン」と呼ばれる部族がたくさん存在していてね。その長のことをチーフタンといったんだ。彼らはときに集まっては、いかに争い事を起こさず暮らしていくかを相談していた。それがやがて「ブレホン法」という古代法へと発展していったんだけど……ともかく、族長たちの話し合いで調和が保たれ、人びとがハッピーに暮らしていた時代があったんだね。
僕らのミッションである音楽にも、これに通じる力があるんじゃないかなと。1本のティン・ホイッスルはときに国境や民族を軽々と越えて、人と人を結びつけてしまう。55年の活動を通じて僕らは何度もそういう瞬間を体験してきたし、できればあと100年は続けたいと思っているんだ(笑)。
──パディさんが生まれた1938年は、宗主国だったイギリスがアイルランド独立を承認した年ですね。当時のダブリンはどのような雰囲気でしたか?
今から思うと、ある種の文化復興ムーブメント的な流れは強くあったね。例えば学校ではすべての授業を、英語じゃなくて(アイルランド土着の言葉である)ゲール語で行おうとしていた。ただ、この政策はあまりうまく行かなかったな。ゲーリックは非常に音楽的で美しい言語だけど、数学や化学のような思考にはあまり適していないからね(笑)。
僕も一応ゲール語を話すけど、それは授業で習ったいわゆる“School Irish”というやつでね。ドニゴール地方(ケルト文化が色濃く残るアイルランドの北西部)で育ったネイティブが話すゲール語の美しさにはとても敵わない。ただ、母語こそ英語だったけれど、アイルランドの伝統音楽は子どもの頃からつねに生活の一部だったよ。
──はじめて楽器を手にしたのは?
6歳のときだね。母親が9ペンスでプラスチックのホイッスル(縦笛)を買ってくれた。最初は持ち方を知らなくて、右手と左手を逆にしていたんだよ。その後、9歳でイーリアン・パイプを始めて。今は正しいフィンガリングで演奏している(笑)。
当時まだ娯楽が少なかったからね。ダブリンのような都会でも、人々は何かというと集まっては演奏し、床の上でほこりを舞い散らしながらセット・ダンス(アイルランドのフォークダンス)に興じていた。音楽は、食べたり寝たりするのと同じで、まさに生活そのものだったんだ。別の言い方をするとね。トラディショナル・ミュージックを通じて、僕はアイルランドの文化と深いところで繋がっていたんだと思う。それは今もまったく変わらないよ。
──ザ・チーフタンズの結成は1962年、パディさんが24歳の頃ですね。当時の伝統音楽シーンはどのような状況だったのですか?
まるで人気がなかったよ(笑)。もちろんさっき言ったように、アイリッシュ・トラッド自体は人びとの生活に根付いていた。でもそれはあくまで集まって演奏する庶民の娯楽であって、いわゆるポピュラー・ミュージックではなかったんだ。
僕らがバンドを結成した時点では、今みたいにトラッドの専業ミュージシャンが食べていける状況は誰も想像してなかった。実際、チーフタンズのメンバーも最初の10年は全員“セミプロ”。他に勤めがあったんだ。だから初期のアルバムはみんなの仕事が終わった後、夜の7時から10時までレコーディングしたんだよ。小っちゃなスタジオで、マイクもたった1本でね。
──バンドを結成したきっかけは?
これは長い話になるよ(笑)。1つには、10代からダブリンのいろんな場所で演奏活動をするようになり、多くの仲間と出会ったこと。その過程で、自分が小さい頃から親しんできたアイルランドの伝統音楽を、より洗練された形に深化させたいと思うようになった。みんなで集まってワイワイ楽しむだけじゃなく、レコードやライブなど鑑賞にも堪えうるようなね。
それで実は1950年代の半ばから、いろんな編成のバンドを試していたんだ。ケーリーバンド(アイリッシュ・ダンスの伴奏専門バンド)もやったし、ホイッスルとのデュオもやった。ピアノ、フィドル、バンジョーとのカルテットを組んだ時期もあった。
──ザ・チーフタンズを結成するかなり前から、試行錯誤されていたんですね。
まさにその通り! 当時すでに僕は個人のイーリアン・パイプ奏者としてはかなり実績があってね。いろんな大会に出場してはメダルをもらったりしていた。でも、本当にやりたかったのはアンサンブルだったんだ。要はアイリッシュ・トラッドで昔から使われてきた楽器を用いながら、そのエッセンスをもっと掘り下げて新しい響きを生み出したかった。