の夜、バンドが演奏する音楽に合わせて踊る者はいなかった。フロアに集まった観客達はそれぞれが会話をしているか、ただステージを見つめているかで、時折ミラーボールを眺めながら泣く者もいた。筆者が訪れていたのは、この日から1週間前にこの街で起きたインディーズバンド銃撃事件の被害者への追悼コンサートだった。

2013年11月11日未明、ニューヨーク・ブルックリン区のアパートで男がライフル銃を発砲しているとの通報を受けた警察官が現場に駆けつけると、発見されたのは射殺された3人の男性の遺体だった。さらに現場には銃弾を浴び負傷した男性と抵抗の末、無傷で助かったという男性がいた。
アパートの屋上では犯行後、自らの頭を撃ち抜いて自殺を図った男の遺体が発見された。

死亡したのはイラン出身のバンド、ザ・イエロー・ドッグスのメンバー2人と、バンドとのコラボレーションを頻繁に行っていたミュージシャンの男性1人。また、腕を負傷したのはバンドと同じアパートに住んでいた友人で、無傷で助かったのは同じくイラン出身のバンド、ザ・フリー・キーズのメンバーだった。
そして彼らを銃撃し、自殺を図ったのは元ザ・フリー・キーズのメンバーで去年5月にバンドをクビになっていたアリ・アクバル・モハマディ・ラフィーだった。

元バンドメンバーが住むアパートを襲撃したことからバンドをクビにさせられたラフィーが、腹いせにバンドへの逆襲を企てた。そうした印象があっという間に形成された。

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追悼コンサートの様子 / photo by Tomota Ikawa

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イエロー・ドッグスとフリー・キーズは2006年にテヘランで出会い、同じビジョンを持ちながら音楽活動に打ち込み、西洋文化の規制に厳しいイランで、自由に音楽を演奏できない環境ながら、当局の目を盗んで密かに音楽活動を続けていた。2009年にはイランでのミュージシャンの活動を描いた映画「ペルシャ猫を誰も知らない」で彼らの活動が紹介され、同映画がカンヌ国際映画祭で「ある視点部門特別賞」を受賞するなど脚光を浴びた事から翌年、まずイエロー・ドッグスが米・テキサス州で行われる音楽際、<サウス・バイ・サウスウェスト>に招待されたのだ。バンドはこの音楽祭に出演する為に短期滞在ビザを取得しアメリカへと渡った。その後、自由な創作活動を求め政治亡命を申請しイランへ帰る事なく、活動の拠点をニューヨークに移したのだ。

そして1年後の2011年12月。すでにニューヨークへと渡ったイエロー・ドッグスを追うようにしてフリー・キーズもまた夢であったニューヨークへの移住を決めた。しかしそれは簡単には行かなかった。メンバーの1人に出国のビザが降りなかったのだ。すでにニューヨークでのライブのスケジュールを組んでいたバンドは、オリジナルメンバーでの移住をあきらめ、急遽新しいメンバーを補充した。それがラフィーだったのだ。ラフィーは幸運にも短期就労ビザを取得することができた。そしてバンドメンバーの1人、プーヤ・ホセイニと共にニューヨークへと飛んだ。

ニューヨークへ着くと、すでに活動の拠点を築いていたイエロー・ドッグスとの共同生活を始めた。ブルックリンで毎晩のように行われているパーティーへ顔を出しては仲間と飲み明かし、ライブをすれば女の子達が寄ってきた。そして夢にまでみた自由な音楽活動がそこにはあった。しかし、ラフィーは急遽参加する事になったバンドになかなか馴染めないでいたという。まもなくしてフリー・キーズのメンバーとラフィーとの間には創作活動における方向性の違いが生じ始めた。