第95回 生涯を捧げて
思っていたほど衝撃は無かった。私の車が頑丈だったからかも知れない。車内に鈍い音が響いた瞬間、背の高い男は数メートル先まで吹っ飛んで、畑の中にゴロゴロと転がった。そしてそのままピクリとも動かない。私は誰かに見られてないか急いで周囲を確認する。誰もいないようだ。とうとう私は人を轢いてしまった。いや違う。狙い澄まして轢いたのだ。
この男が「あなたの奥さんのことで相談があります」と訪ねて来たのは3日前。私の妻と半年前から付き合っているということ、将来は一緒になって自分が幸せにしたいと思っていること、数日前から連絡が取れず色々探しまわったが見つからず、遂に夫であるあなたの所にまで来てしまったことを告げられた。既に妻から全てを聞いていた私は「君の気持ちは分かった。3日後にもう1度ここに来なさい。その時妻を渡そう」とだけ言った。殴られる覚悟だったであろうその男は、妙に冷静な私に少し驚いた様子だったが、深々と頭を下げながら帰って行った。
あまりに真剣で真っ直ぐな視線を私に向けて来たのは妻も一緒だった。年下の男に弄ばれてるだけだと言っても、すぐに飽きられて捨てられると言っても駄目だった。彼とは運命なんです、どうか私を解放してくださいと妻は私に懇願し続けた。私はそんな脆くて儚い2人がどうしても許せなかった。大の字になっている男を見下ろしながら、私は微塵も後悔していない。車に用意していたスコップで穴を掘り男を埋める。小鳥のさえずりと、スコップが土に刺さる音だけが空に響く。慣れたものであっという間に男の姿は見えなくなった。隣同士に埋めてやったのはせめてもの優しさだ。
photo by normaratani