第111回 反する響き

「WAR PIGS!」今、東京を歩けばこの落書きを至る所で見つけることができる。「戦争豚野郎」とでも訳すのだろうか。戦争に向かう政府に対する、強い反抗のメッセージだ。私は公安として、このメッセージを描き始めた人間を探している。見つけ出して捕まえなければならない。アートとして若者に入り込んだメッセージが、意識を持ち始めてしまったからだ。騙されない若者が1番厄介である。捜査を始めてから数ヶ月、正体を一切公表せずに次々と大胆な場所にメッセージを描き残して行く犯人は、今や空前のカリスマになっていた。
このままでは私の立つ瀬がない。捜査員を増員して、私はやっとのことで犯人が現れるという場所を突き止めた。そこは郊外のとある廃墟で、深夜になるとストレスや問題を抱えた若者達が集まる吹き溜まりだ。治安も悪い。そんな若者達が1番利用されやすいという事を犯人は知っているのだ。三日三晩、私は張り込みを続けた。目にする違法行為を全て見逃し、犯人逮捕にだけ集中した。そして諦めかけた四日目の早朝、遂に現れた。
鉄格子の向こうでスプレー缶を持つ人物は、目つきの悪い屈強な男では無く、意外にも背の小さい華奢な女性だった。君を捕まえなければならない、と伝えても彼女は無視してスプレー缶を振り始めた。甲高い音がコンクリートに響く。そして、丁寧にメッセージを描き始めた。数ヶ月この落書きを調べ上げた私にはわかる。間違いなく本人だ。何処かでこのメッセージに惹かれていた私は、彼女が描き終えるのをじっと見守ってしまった。透き通るほど真剣な彼女にかける言葉など私には無い。彼女はそんな私を見て微笑み、無言のまま去って行った。描かれたばかりのメッセージは普段見ていたものよりも鮮やかで力強い。私にはこれを消すことは出来なかった。誰かに見せなくてはならないものだ。私は報告書に書く内容に頭を悩ませながら帰路に着いた。高揚は隠せない。メッセージは私にも響いてしまったのだから。