第122回 賛美歌が聴こえる

「人通りが少ない場所に車を移動してくれ」夫がイラついた声で言う。私は返事をしないまま言われた通りにする。裏通りに車を停めて辺りを見回し、誰もいないことを確認してエンジンを切った。夫はそれを合図におもむろにコカインを取り出し、慣れた手つきでラインを引く。カッカッと固い音が後部座席からし始めると、私はラジオをつける。彼がコカインを吸い込むときの音がとても嫌いだから。

夫は半年前に末期がんだと宣告された。あと3ヶ月の命と聞かされ、私は悔いを残さないように毎日懸命に看病した。日に日に痩せていく夫を元気づけ、病院からの帰りには必ず教会に寄り、夫がどうか安らかに逝けるように神様に祈った。すると奇跡が起きた。ある日夫の体からがん細胞が消えてなくなってしまったのだ。すでに痛み止めのモルヒネしか処方していなかった医者も「わけがわからない」と首をかしげていた。3日もすると食欲が戻り、1週間後には退院。私達はまた一緒に暮らし始めた。

けれども、突然やって来た幸せの絶頂はすぐに去っていった。医者に投与されたモルヒネが引き金を引いたのだろう、退院した夫は薬物中毒になってしまっていた。「またあの痛みが襲って来ると思うと怖いんだ」と夫は言う。生き返ってくれた夫に甘かった私も悪いのだ。ビクビクしながら初めて手にいれたコカインを夫に手渡したあの時に戻りたい。

後部座席で機嫌の良くなった夫が歌い始めた。それは私が通う教会でいつも歌われている賛美歌だった。この瞬間、奇跡をくれたのは神様だと私は知った。そして私がこれからどうするべきかも気付かせてくれた。私はクラクションを鳴らした。誰かが警察に通報するまで鳴らし続けた。路地裏に鳴り響くクラクションを聞いて、夫は更に声を張り上げて賛美歌を歌っている。後悔はしない。今度こそ私があなたを助ける。

photo by normaratani