第141回 声
私はこの数ヶ月間、毎日1時間かけてここに来ている。数100メートル向こう、360度見渡せるこの場所に。犬のバドも一緒だ。そして私はここで声を発する練習を始める。1日が始まって初めての声。誰にも私の声が聞こえないこの場所で、しばらくの間バドと会話をする。この30年間で私の声を聞いたことがあるのは犬のバドだけだ。
私は高校生の頃いじめられていた。ぶたれたりしたわけじゃないが、いつも皆にからかわれていた。それは数年続き、好きだった女の子にまでからかわれるようになった時、私は自分でも割れないほどの固い殻を作ってしまった。ある朝、ふと誰かが「もう喋るな」と言った。私はその日帰るまで一切喋らなかった。皆はそれを楽しんだ。次の日、私はまた喋らなかった。そしてその次の日も。皆が私を不気味に感じ始めた頃、いつの間にかいじめはなくなった。同時に私は人前で話せなくなってしまった。
この地に引っ越して来て8年。近所の人達は私のことを「口がきけない人」としてすごく優しく扱ってくれる。返事をしなくても毎日声をかけてくれるし、なんやかんやと世話を焼いてくれる。人と話せなくなってから随分時間が経ってしまったけど、段々と私はそんな人達と話がしてみたいと思うようになっていた。もうすぐ日が暮れる。そろそろ戻ろうか、と言うとバドが珍しく大きい声で吠えた。「きっともう大丈夫だよ」と励ましてくれるかのように。なんだか今日こそは話せる気がする。聞こえないほどの小さい声で「ありがとう」だけでも。
photo by normaratani