第168回 思い出の中に

「すみません、この席は空いてないんです」バーカウンターでの立ち話に疲れ、少しソファに座ろうと思った僕に彼女は言った。申し訳なさそうな、でも何だか嬉しそうでもある複雑な表情で。よく見ると隣のソファの下には誰も呑んでいないグラスがお供え物のように置いてある。お酒の力も手伝って僕は思い切って彼女に理由を尋ねた。

3年前の今日、彼とここで出会ったんです。酔って上機嫌だった彼は「君に似合うお酒だよ」って突然レッドアイを持って来て。つまらなそうにしていた私に強引にグラスを渡して乾杯しに来たんです。私が人見知りだなんて全然気にせずに。その時はその強引さがなんだか心地良くて。そのまま2人で朝まで色んな話をしたんです。花が好きなのって言った私のために、開店準備中の花屋さんに行って花束を買って来てくれたり。

彼女の声が段々小さくなっていく。「彼はもうこの世にいないんだ」と僕は感づいた。何か気の利いたことでも言わなきゃ。僕は意を決して「きっと彼はもうここに座ってるね、邪魔してごめん。どうぞゆっくり話していって」と言った。すると彼女はポカンとして僕を見上げた。遅刻した彼が店に入って来たのはちょうどその時だった。

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