京都の『和久傳(わくでん)』といえば、美食家で知らない人はいない、京都の料亭だ。しかし、その歴史が明治3年創業の京丹後市の料理旅館『和久傳』に端を発することを知る人は少ないかもしれない。現在、会長を務める桑村綾氏は、地場産業である丹後ちりめんの衰退で危機的な状況にあった料理旅館を再建し、また、京都の中心地に料亭を開店した。お弁当やお菓子を販売する『紫野和久傳』をも立ち上げ、2007年には、植樹による『和久傳ノ森』づくりをはじめ、その森に工房や美術館、レストランをオープンするなど地域復興にも貢献。京都府が各分野で活躍する京都ゆかりの女性やグループに授与する京都・あけぼの賞を受賞している。京都を代表する料亭として君臨しながらも、いまなお積極的に事業を広げ、新たな取り組みを精力的に行なっている桑村氏の情熱やバイタリティの源に迫る。

京都を代表する料亭・和久傳。進化をやめない、その哲学とは? mondo190221-wakuden_kyoto-2-1200x799
▲和久傳会長の桑村綾氏(写真提供:紫野和久傳)

『和久傳』の名前を守りたい。京丹後から京都市内へ。女将の決断。

『和久傳』は、明治3年、京都北部の京丹後市に料理旅館として誕生した。桑村氏がその『和久傳』に嫁いだのは昭和39年のことだ。

丹後は江戸時代から絹織物、丹後ちりめんの交易地として栄えた場所だ。生糸を売りに来る商人や丹後ちりめんを買いに来る人たちが全国から集まり、賑わいを見せていた。商用でこの地を訪れる人たちの定宿として、また、会合の場としても用いられていたのが、ちりめん産業とともに、百年以上にわたって賑わいが続いた料理旅館『和久傳』だったのだ。

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▲料理旅館 和久傳(写真提供:紫野和久傳)

「私たちの旅館は、丹後ちりめんのおかげで成り立っていたようなものです」

しかし、昭和40年代に入り、社会構造の変化とともにちりめん産業が陰りを見せ始めると、旅館の経営も苦しくなる。なんとか『和久傳』の名を守りたいと、ご贔屓になっている地元のお客さま、銀行等に相談をもちかけたところ、「『和久傳』にはどうしても料理旅館として残ってほしいと、丹後地方全域の約200人の方々が、自発的に後援会を作って応援してくださったんです」

その応援を受け、町中にあった旅館を売却し、山側に移転。3000坪の敷地に料理部門を備えた数寄屋造りの本館、宿泊部門として別棟を構えた泊食分離の新しい丹後峰山の料理旅館を立ちあげた。新生『和久傳』は口伝えで評判が広まっていくが、昭和50年前半を近年の最盛期として、ちりめん産業は少しずつ、しかし、確実に衰退していく──。

「京丹後は産業あっての土地柄です。部屋数も少なく、このままでは、料亭として、また旅館としても経営が苦しくなっていくことは明らかで、『和久傳』を守るためには、どこかに進出しなければと考える日々が続きました。一番苦しかったのは、ずっと応援して下さる地元の後援会の方たちに対してどのように説明をすればよいのかということです。確たる結論が出ないまま、地元を捨てるのではない、このまま『和久傳』の名前で営業も続けながら進出もする、いつか地元に帰り恩返しができるように、必ず帰ってくると自分自身に納得させ、背水の陣で京都進出を決意しました」

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▲高台寺和久傳(写真提供:紫野和久傳)

「京都で誰もやっていないことをやる」それが、女将のこだわり。

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Text:長谷川あや