青山礼満(アオヤマレマン)
CLUB OPUST代表
1993年3月15日
東京都世田谷区下北沢出身
親父は小2のときに消えた。覚えているのは歌舞伎町に事務所を構えていたことくらい。
祖父母の家に母と妹と住んでいて、小5までは四谷にある中華学校に通ってた。
日本語をしゃべったら罰金を取られるような学校。
勉強は嫌いだった。成績もよくなかった。学費がもったいないと家族に言われて小6で公立の学校に転入した。
中学はそのまま地元の公立の学校にいった。これが最後の学生生活。
ひたすら友達と遊んでたし、初めての彼女もできた。
相変わらず勉強は嫌いで、給食の時間と体育の授業くらしか記憶にない。
中3になって周りは受験ムード。
自分も高校に行くと思ってたけど、ある日じーちゃんと進路について話したら
「誰が高校のお金出すの?」って聞かれた。
じーちゃんは都内にパスタ屋を何店舗か経営していた。
「じーちゃんでしょ?」って言ったら「俺はださないよ」って言われた。
「じゃあどうすればいいの?」って言ったら
「お金を払って学ぶんじゃなくて、お金をもらって学びなさい」って。
「うちの店で働けよ」って。
今思えば、跡継ぎにしたかったんだと思う。
それから中3のうちは時給600円でじーちゃんの店でアルバイトとして働いて、中学卒業してから社員になった。
同じ中学で就職したのは自分だけ。高校行けばあと3年遊べたのにって思ったら寂しくなって、卒業式でめちゃめちゃ泣いた。
じーちゃんの会社の大久保のお店で働きはじめた。
週6で朝から終電くらいまで。お店には歌舞伎町のホストもきていて、いい人もいたけど横柄なヤツも多かった。
就職しても地元の友だちとは遊んでたけど、公園でタバコふかしてだべってるだけ。
つまらなくなってきて、仕事終わりに1人で渋谷に行って朝までバーやクラブで遊んでた。お酒はぜんぜん飲めないからコーラ。それでも自分だけのコミュニティがほしかった。
17歳のときに働いてるお店が渋谷に移転して、もっと遊ぶようになった。
18歳のくらいまではこんな感じの生活。渋谷で仲良くなった友達と未成年なのにバーでイベントを開いて、「ガキが酒のある場所でイベントやるな」って大人に怒られたのを覚えてる。
19歳のときに自分でお店を持ちたくなった。
仲良くなった友達がみんな夢を追っててかっこよかったから焦ったんだと思う。
だからじーちゃんの会社を辞めて、勉強も兼ねてカフェで働きはじめた。
20歳のとき、じーちゃんが持ってた地元のお店をたたむ話しを聞いて、そこをそのまま貸してもらった。それからカフェで働いていた仲間3人とお店をオープンした。
自分は接客担当。接客が好きなのは今も変わらない。
お店が好きで来てもらってるのはもちろんだけど、プラスアルファの付加価値を接客によって作るのが好きだった。自分に会いにきてくれるお客さんがたくさんいて、それに充実感ややりがいを感じてた。
昔から人を笑わせるのが好きで、人と話すのが好きだ。
お店の良さを伝えるのも大事だけど、単純に人に興味があったんだと思う。
みんながどんなことしてるのか、どんな生活をしてるのか。
15歳で社会人になってから、早い段階で接客は天職だと思ってた。
でも、一緒に始めたヤツらとは仲がいい分ぶつかることも多くて、2年後に辞めた。
2人にはかなり迷惑をかけたと思う。
2ヶ月間はなにもしなかった。じーちゃんの会社に戻ることは考えなかった。
ホストをやってる友達から「接客得意だし、ホストやってみない?」と誘われた。
で、ホストになった。
続きはまた今度。