「若けりゃ良いってもんじゃない」
27歳を超えたくらいから、何度頭をよぎったかしら。人間は皆平等に歳を取るもの。若さや可愛さだけでは、やっていけなくなるのがアラサー女子。若さと可愛さの代わりに何が必要かしら…
磯崎愛生/zaqi 第二回
女体盛りという言葉を知っているだろうか。もしくは女体盛りと聞いて猥雑な印象を覚えるかもしれない。
確かに女体盛りと言われれば、地方の温泉街のお座敷で金にモノを言わせる年配男性のスケベそうな顔や、箸で女性の肌を突く性道楽というイメージが頭をよぎるが…
そもそも、《女体》という名詞にも《盛る》という動詞にも猥雑さを持つ意味は含まれていない。しかし、その2つの単語が組み合わされると途端にムクムクとあんな事やそんな事、有る事無い事、人々の想像力の豊かさたるや!!
誰が初めにそういった言葉遊びを仕掛けたかはわからないが、今の時代、《女体》に《盛る》事が性的な道楽の為だけにあると言うのも古臭いではなかろうか。
私の友人の一人に、その“女体盛り”という言葉が持つイメージを変えようとしている女がいる。
NYOTAIMORI TOKYOの代表、この女の発想は面白かった。ポルノではない表現を女体盛りで出来ないだろうか…
今ここに書いているのは彼女から聞いた話ではなく、彼女の近くで過ごすうちに私が勝手に考えた事であるから、もし思う事があってもクレームなどはNYOTAIMORI TOKYOへではなく、私へお願いしたい。
NYOTAIMORI TOKYOは単に女性の裸体に料理を飾るだけでなく、空間や音楽、食材、モデル、メイクなど、あらゆる演出にこだわったエンターテイメントとして、表現の1つとして、ショーパフォーマンスのパッケージングを行う。固定のハコがある訳ではないのでアクティブにどこでもショーができる事が今のところの強みだ。
先にも書いたが、
《女体》も《盛る》もそもそもポルノじゃない。《人》そして《盛る》=《デコレーション》。ならばポルノではない女体盛りを作ることは可能だ。きっと彼女はそう思ったに違いない。
最近、こんな事があった。
その彼女が開いた、また別の趣旨のパーティーに招いた沢山の人達のうち、一人の知人男性が、ある事が原因で怒って帰ってしまった。出し物として催したショーでパフォーマー達が、カウンターの上に靴のまま乗った事がどうやら彼には許せなかったらしい。通常であれば、飲食物を用意する為にあるカウンターに土足で上がるとは何事かと。(無論、会場側はこの演出を受け入れていた)
この事について後になってから思った事は、彼は日頃から大変な美食家であったのだが、彼にとって食事とはある種の儀式であり、食べ物それ自体が神聖な物、もしくは神的な物だったのではないかと言う事だ。勿論きっと本当にそうであったとしても無意識のうちにそのようになったに違いない。しかし、そう考えれば、彼にとってカウンターは儀式の為の台座であり、靴のままその上に上がると言うことは侮辱に等しい行為であったのだろうと容易に推測できる。
そして、そういった無意識のうちの、食の神聖化は個人差はあれど誰のうちにも在るものなのではないかと思うようになった。
海外ではどうか知らないが、お米一粒には7人の神様が宿っていると言う日本人らしい考え方かもしれない。
ある美術関係の批評家の方がNYOTAIMORI TOKYOの記事に対して書いたコメントを見た。
〜そこに死體と葬送、人身御供、神人共食といった儀礼性が現れる〜
食物を贈与する女神、あるいは供犠をイメージしましたのは、女体盛りというと大気都比売(オオゲツヒメ)の神話を彷彿としてしまうからなのです。〜
大気都比売(オオゲツヒメ)とは、日本神話に登場する女神であり、食物神である。
以下、wikipediaからオオゲツヒメの項を参照する
高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。
引用元:Wikipedia
からだから出てきた物を調理していた、とあるが、自らの身体の一部を食べ物として贈与したと考える事もできる。この描写はなるほどNYOTAIMORI TOKYOのショーにおいてかなりオーバーラップされる。
神と食物と人が繋がる、息を飲むような一瞬がきっとあるのだ。
しかし、皿は皿である。
実際に女体盛りの皿を体験して私はそう感じた。皿は皿であるが、この儀式は皿が無ければ成り立たない。儀式においてとても重要な道具として大事に大事にされる。その時、人ではないものとして自分が存在しているように感じる。人権はないが、その場において人よりももっと、とても大事にされるという、不思議な感覚。
私の母は、私が初めて女体盛りのショーに出演した際、食べ物を体に乗せてから食べさせるなんてマナーがなってないと言った。
私はその時は上手く説明が出来なかったが、今なら言える。
改めて、食物と神と人と一つに繋げる。私にとってはそう言った意味の行為でもあった。そして私は海に囲まれた小さな島国で食べ物に対する感謝をより一層感じるようになった。
ここまで来ると、女体盛りはもうポルノではない。
先日、こんな記事を読んだ。
日本以外の先進国に比べ、日本では海外からの観光客に向けて、来日に繋がるような舞台系のエンターテイメントが少ないのだそうだ。
歌舞伎は人気があるそうだが、能は敷居が高すぎるらしい。私にもアメリカやヨーロッパには観に行きたい舞台やショーが思い付く。クレイジーホースのバーレスクを観にパリへ行きたいし、スリープノーモアを見るためにNYに行きたい。
NYOTAIMORI TOKYOの代表、あの女の発想は面白かった。
もし、彼女の野望が達成されれば、女体盛りが日本の新しいショービジネスの一つの形になる事もあるかもしれない。
磯崎愛生/zaqi
https://twitter.com/zaqizaqizaqi
NYOTAIMORI TOKYO公式サイト
http://www.nyotaimori.info/