「若けりゃ良いってもんじゃない」
27歳を超えたくらいから、何度頭をよぎったかしら。人間は皆平等に歳を取るもの。若さや可愛さだけでは、やっていけなくなるのがアラサー女子。若さと可愛さの代わりに何が必要かしら…

第七回

今日は渋谷の名曲喫茶に行く予定だった。
ショパンが聴きたかった。

梅雨だのに雨が降らない事に少し苛立っている。
今日は絶対に雨が降ると思ってそのつもりでいたのだ。
昨日は今日の雨の為に音楽や着る服を用意していたのに、聴こうと思っていた音楽も、着ようと思っていた洋服も、雨が降らないなら味気ないものになってしまう。
そんな自分の物の考え方をくだらないなと思うと同時に、明日てんきになーれ と 明日あめになーれ は、ほどんど一緒じゃないかとぼんやり思った。
 

〜アラサーのひとり遊戯〜第七回「嘘の毒と名曲喫茶《雨》」 1-700x525
 

低気圧のせいで少し疲れが出ているんだ。
「疲れていたら、可愛くないぞ☆」
誰が考えたキャッチコピーだか知らないけど、余計なお世話よ!という気持ちとは裏腹、実のところここ数年はチョコラBBが大親友なのです。ありがとう、エーザイ。

先日、作曲家との打ち合わせで懐かしい事を思い出した。
「なんでクラシック音楽を聴くようになったの?」という質問に、すぐに答えられなかったのは、自分でもすっかり忘れていた事だったからだ。
「中学の時に好きだった先輩の影響なんです。」

二つ上の上級生に初恋の様な気持ちを持ち始めて、どうやってその人と仲良くなるまでに至ったかはどうしても思い出せないのだけれど、私が中学一年生の時の生徒会長の趣味はクラシック音楽鑑賞だった。
身長も体重もきっと少し平均より下くらいで、どちらかといえば運動より勉強が得意なタイプといえば想像しやすいだろうか。生徒会長をすごく頑張っていて、運動会で柄にも無く率先して踊っている姿を、同じ学年の人から茶化されるのがイヤで隠れて見た記憶がある。
その先輩から貰ったMDに確かショパンの24の前奏曲集が入っていた。クラシック聴き始めるならこうゆうのからが良いと思う…と言って渡してくれた気がする。
 

PRELUDES 24 Op.28 No.15
変二長調《雨だれ》 ショパン

ある日、下校中に深く差した傘の端から少し視界を上に上げると、たまたまそのS先輩が5、6メートル先を歩いていた。当時の私は、この上ないラッキーに心踊らせただろう。雨の中、S先輩は立ち止まった。私は先輩に追いつくと挨拶をした。なんて事ない挨拶だっただろう。お疲れさまです。とかこんな時間まで生徒会ですか?とかすごい雨ですね。とか。
先輩は、「君が先に歩いてくれない?」と言った。もう暗いし人通りがないから、と。下級生への庇護の精神からだろうが嬉しかった。もしかしたら会話できただけで嬉しかったのかもしれない。
 

嘘をついている。

当時の私には下校中たまたま会った想い人に自分から挨拶をする勇気なんてなかった。
 

〜アラサーのひとり遊戯〜第七回「嘘の毒と名曲喫茶《雨》」 2-700x525
 

思い返してみると、S先輩はとんでもなく変な人だ。
一度先輩の家に遊びに行ったことがあったのだが、出されたお茶を飲もうとティーカップを手に持ち口へ運ぶ時、彼はまじまじとこちらを観察するように見ていた。私はなぜ見ているのかを尋ねた。
「普通ならティーカップの持ち手を右手で持ってお茶を飲む時、そのまま自分の方に向いている側に口をつけて飲むよね?君は今、持ち手が付いてる側と真逆の側で飲んだよね?珍しいと思うのだけど、何か意味はあるの?・・・いや、というのもね、実は僕もいつもそうやって飲むんだ。もし毒が盛られていたら、自分の方に向いている側に毒が塗られている可能性が一番高いだろうと思ってね。」
一瞬、私は彼が何を言っているかわからなかった。
その後すぐ、先輩が退室している間にやっと意味がわかって、もしかしたらこのティーカップには本当に毒が塗られているんじゃなかろうかと阿呆なことを思い、それからそのお茶に口をつけることはなかった。

いつだったか、先輩が受験で忙しくなった時だったか、僕に何かあっても家の固定電話の番号は変わらないからと、毎週木曜日にお互いの家の固定電話で話そうと言ってきた。僕に何かあってもって一体この人は何が起きると思っているんだろうかと、かなり不審に感じたが何度かそれは実行された。電話で何を話したかは覚えていない。

打ち合わせをしている渋谷の純喫茶の電話が鳴りハッと顔を上げると、作曲家はもう他の人と次の話題を話していた。
テーブルの上のティーカップに目をやるが、これには毒は盛られていないだろうなと思った。
 

〜アラサーのひとり遊戯〜第七回「嘘の毒と名曲喫茶《雨》」 3-700x525
 

嘘をついている。

先輩がくれたMDに入っていたのは、ショパンじゃなくてバッハ大全集だった。

加速と停滞はどちらも疲れる。
決して止まらないけど、走ったりもしない。それが一番良い気がしているけど、なかなかどうしてそれは難しいのだろう。
何が本当で何が嘘かなんてわからない。
 

〜アラサーのひとり遊戯〜第七回「嘘の毒と名曲喫茶《雨》」 4
 

明日は新宿の名曲喫茶に行こう。
バッハが聴きたい。

ザキ