第107回 一目惚れ

「ウチは居酒屋だから住み着かれると困るんだ」そんな苦情が来て、私は渋々現場に向かった。保健所で働き始めてもう15年以上経つが、野生動物管理の仕事は未だに慣れることが出来ない。同僚達も同じ気持ちだと思う。精神的に厳しい業務のため、全職員が順番に担当することになっている。私は半年振りだ。足取りは重い。
居酒屋店主はカンカンに怒っていた。私は「もしかしたら店主が動物達の可愛さに負けて飼ってくれるんじゃないか」と心のどこかで期待していて、実は何日かここに来ることを遅らせていたのだ。稀に成功することもある。でも今回は大失敗だった。「今すぐ連れて行け」との断固たる態度に、私は何も言い返すことは出来なかった。「わかりました」とドアから出ると、いた。猫しか入れないような狭い狭い隙間に2匹。きっと夫婦だろう。
持っていた餌を目の前で上下してみると、妻猫は目で追っているが後ろの夫猫はピクリともしない。目が見えないのだ。妻はそんな夫のためにこの場所を見つけ、餌を運び、夫を必死に守っている。私を見定めるその鋭くも真摯な視線に深いため息しか出ない。何度もこんな場面があった。それでも今までは保健所に連れて行った。でも今日は駄目だった。私が離婚したばかりなのも原因だと思う。この2匹を引き離すことは絶対に出来ない。
私は居酒屋の厨房にずかずかと入っていき、抜き打ちの衛生検査を始めた。そしていくつかの問題点を即座に見つけ出し、
店主に「このままだと営業停止になるかも知れない。猫の件は後回しにして改善をお願いします」と伝えた。
驚いて何も言えない店主に「1ヶ月後にまた来ますからね」と言い残し店を出る。持っていた餌を素早く猫夫婦に渡して私は家に帰った。自分の言動を反省しつつ、なんとなくペット可のマンションを探しつつ。