第110回 1人と1匹

僕が交通事故を起こし、両足とプロバスケットボールの選手生命を失ったのが半年前。厳しいリハビリを続け、やっと車椅子で出掛けるようになったばかりだ。本当はすぐにでもチームのメンバー達に謝りに行きたかった。しかし、僕の離脱のせいでアッという間に低迷してしまったチームからは、もう誰からも連絡が来なくなっていた。あれだけ熱狂していた大勢のファン達さえも僕のことは忘れてしまっているだろう。
バスケットボールしか出来なかった僕は、今では見事に何も出来ない。近所の公園や神社をうろつくだけの毎日だ。人と話す機会もほとんどなく、今僕はよく鹿に声をかけている。群れている鹿達には怪訝な顔をされるだけだが、1匹だけで離れて過ごしている鹿は、大体僕の話を聞いてくれる。親に捨てられたのもいれば、見るからに病気がちのもいる。同性愛がみんなに受け入れられなかった鹿までいた。鹿の世界も色々だ。
ある日、片目を失明した子鹿が僕に言った。「目が片方しか見えなくても出来ることは沢山有る。現に僕はたくましく生きてるよ。意外なことに仲間はいらないんだ。自分があればなんとかなる。結構世の中ってそんなものだ」僕にしばらくついて歩いてた子鹿は強がりつつそう言い切った。たった数センチの段差を越えられずに腐っていた僕に子鹿の言葉は重く響く。確かにそうかも知れない。僕は車椅子の手すりをいつもより強く掴んで家に戻った。まずはドリブルから始めてみるか。自分自身を取り戻すために。