第136回 いつかの紅葉
「この人をよろしくね」そう言って妹の紅葉は旅立った。結婚式まであと数週間だったのに。それまで必死に明るく振る舞っていた紅葉の婚約者は、堤防が決壊したかのようにその場に泣き崩れた。その姿を見て、私も家族もお世話してくれてた看護師さん達も一緒に泣いた。それから数年後、私達は夫婦になった。なんだか紅葉の思惑通りに。
玄関の閉まる音が響く。「行ってくる」の言葉もなしに夫は仕事に行った。毎日夜遅くまで仕事をしている夫の笑顔が最近少なくなってしまっていることに気付いた私はこの日、勝手に田舎への移住を決めた。仕事も辞めることになるし、急すぎて大喧嘩するかもしれない。でも夫を救うにはこれしかなかった。金曜の夜遅くに帰って来た夫が、すっかり引っ越し準備が整った部屋を眺めて驚いている。明日の朝引っ越しだからね、と言うと夫は私に抱きつき、泣いて笑った。
引っ越して来た私達は、時間があると近くの公園を散歩する。とにかく広大なお気に入りの公園だ。私達はお互い小説を持って思い思いの場所に座る。夫が私の方を見て微笑んだ。良かった、私はようやくあの笑顔を取り戻せたんだ。「心配かけてごめんね」いつも小説に挟んで持ち歩いている紅葉を取り出して話しかけた。すると急に天気雨が降り出した。雨は優しく私達を包んですぐに止んだ。紅葉が機嫌を直してくれた、そんな気がした。
photo by kana tarumi