第144回 プラスとマイナス
会社が妻の愛人に乗っ取られてしまったことに気づき、急いで事務所から飛び出して私は車に轢かれた。減速することなく走り去る茶色いワゴンをなんとなく憶えている。目が覚めたのは病院のベッドの上。下半身は不随になっていた。退院後、妻の愛人の車が茶色のワゴンだと知った。自分しか信じなかった人生の末路。私は全てを失った。
妻が出て行った部屋には色鮮やかなものが一つも見当たらない。なんだか他人の家にいるようだ。ため息と共にまずは溜まりに溜まった郵便物から手をつける。どれもこれも私から何かを奪うための書類ばかり。私はそれらを全てゴミ箱に捨てた。するとたった一通の手紙だけが残った。それはタイからの手紙だった。経営者だった頃、私は長い間タイの子供達に寄付をしていた。子供が好きだったわけでもタイが好きだったわけでもない。多額の寄付によって優遇される、よくある税金対策だ。18歳になったという青年からの手紙にはこう書かれていた。
「初めてお手紙書きます。僕はあなたの寄付によって運営されていた施設で生まれ育ち、今年で18才になりました。ここから学校にも通って、今はこの施設で僕と同じような境遇の子供たちのために働いています。あなたからの寄付が無くなった今でも僕たちはきちんと生活しています。もう大丈夫です。僕たちは今までの寄付に本当に感謝しています。いつの日かあなたがここに来てくれることを楽しみにしています」つたない英語で書かれたその短い手紙を、私は何度も何度も読み返した。
空港に迎えに来てくれた女性は手紙をくれた青年だった。会話は上手く出来ないが、身振り手振りで私を歓迎してくれている。「早速向かいましょう、沢山の友人があなたを待っています」と彼女は言った。その言葉が心臓に重く響く。私は感謝されるような人間ではない。次々と他人を蹴落としていたような人間だ。しかし、もうここにしか私の居場所は無い。どこにも無いんだ。車イスを漕ぎながら、私はずっとそんなことを考えていた。