第153回 Moon River
弟がいた記憶はかすかにある。たしか3歳くらいまでは一緒に暮らしていた。放蕩三昧の父親に嫌気がさした母親が、僕を連れてニュージャージーからフロリダに引っ越してからは1度も会っていない。前の父親とは比べ物にならないほど真面目な新しい父親に僕はすぐに馴染み、まるで本当の息子かのように僕は大事に育てられた。突然やってきた一家団らん。僕も母親も、割れた皿が散乱する生活のことなどいつの間にか忘れてしまった。
会社からリストラされて3ヶ月。なかなか次の仕事が決まらず腐っていた僕に届いたのは実の父親の訃報だった。葬式は明後日。「あたしは絶対に行かない」という母親の代わりに僕は40年ぶりにニュージャージーを訪れた。映画に出てくるような古い墓地に僕は少し遅れて到着した。最後の別れの挨拶をしているのは僕と同じような髪型で同じような眼鏡の男。弟だ。間違いない。
葬式の後、父親が通っていたジャズバーに連れて行ってもらった。金曜の夜だからか酒場は客で一杯。「なかなか良い所じゃないか」僕に続いて弟が店に入った途端、一気に酒場に動揺が走った。「もしかしてマックス?」「俺達のマックスが帰って来たぞ!」「マックスがここに来るなんて! なんて俺達はラッキーなんだ!」あちこちで弟が熱烈な歓迎を受けている。驚いた。どうやら弟は世界的に有名なトランぺッターになっていたようだ。僕は何も知らなかった。
弟が「今日は演奏するために来たんじゃないんだ」と言ってももちろん誰も納得してくれない。どこから調達したのか、弟の目の前にはあっという間にトランペットが2個も3個も集まって来た。皆の期待がひしひしと酒場全体に伝わる。「じゃあ1曲だけ」その言葉に観客は大歓声を上げた。そしてさっきまでの喧噪が嘘のように酒場は静寂に包まれる。弟が静かに吹き始めたのはMoon River。空気を一変させる音色が鳴り響く。本物だ。僕は例えようの無い寂しさに、そっと一人店を出た。そして歩き去る。トランペットが聞こえなくなるまで。
photo by normaratani