第195回 君の笑顔の理由

家庭を持つことに興味がないままもうすぐ50歳。運良く女に困ったことはないが、結婚する気のない俺と長く続く女はいなかった。仕事にも大して意欲はない。辞めさせられるほどの失態をしてないだけの万年平社員だ。俺にはそれくらいが丁度いい。生き方は子供の頃から変わらない。

俺は今フィリピンにいる。海外にきたのは大学の卒業旅行ぶりだから30年ぶりか。もう何にも覚えちゃいないが。惚れた女に「本気で私が欲しいならフィリピンを見てきて」と言われ、俺はすぐにチケットを買った。有給を申請する俺を事務の婆さんが不思議そうに見上げる。近所のフィリピンパブで安い酒を呑んでただけなのに、いつの間にかそこにいた彼女の笑顔が忘れられなくなり、俺は彼女に言われた通りにフィリピンに来て、ボロボロの飯屋で名前のわからない何かを食っている。

信号のない道をバイクが縦横無尽に走り回り、通りがかりの若者が「織田裕二」のモノマネを俺に披露して爆笑している。カメラを見つけた子供たちが「撮ってくれ」とポーズを決める。仕事中の作業員たちがいつまでも俺に話しかけてくる。もちろん言葉はわからない。俺はさっきから興奮している。何か腹から込み上げてくる。昔の日本を懐かしがってるだけだと誰もが思うだろう。去年の俺なら同じ意見だ。でも今は違う。

俺は彼女に電話をかけた。彼女の笑顔の理由がわかった気がしたからだ。何度か呼び出し音がなる間も知らない誰かが俺に笑顔を向ける。やっと彼女が起きて電話に出た。「どうしたの?」とまだ眠そうな彼女。俺はフィリピンにいる、君のことがもっと好きになったし、今度は君と一緒に来たいと一気に言った。「なんだか変。違う人みたい」と彼女は優しく笑った。

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