第64回 誘惑の先に
レストランの入り口に捜査員らしき男達の姿が見えた。目標が私である事は経験上何となくわかる。この状況で私だけ逃げきるのは容易いが、問題は彼女だ。もし連行されてしまったら、私の裏側を何も知らなくても、しばらく普通の生活には戻れないだろう。もしかしたら何日間も拘束されてしまうかもしれない。
彼女に初めて会ったのは1年前。この国で暮らし始めた頃にたまたま入った中華料理屋で出会った。漢字のメニューが読めずに苦労していた私を見て、隣の席から大声で色々教えてくれたのだ。お礼にデザートを彼女の席に注文すると、彼女はとても喜んでくれた。そのあまりの喜びっぷりに、長年警戒心で凝り固まっていた私の気持ちが久しぶりに癒された事を良く憶えている。
その日から私達は一緒に生活を始めた。あまりの年齢差に驚くかもしれないが、この国では珍しい事ではない。金さえ持っていれば、女も愛情も優越感も簡単に買えるのだ。トタン屋根で雨をしのぐ様な場所に住んでいた彼女にとって、私の部屋はまるで高級ホテルだったのだろう。毎日些細な事に幸せを感じている彼女を見るのが私は好きだった。下手な英語で話しかけて来るのも好きだった。金で手に入れた暮らしとはいえ、私は次第に彼女を愛するようになっていた。
一緒に逃げよう、私はそう決心した。説明する時間は無い。反対側の出口に向かうために彼女の腕を掴んだ。すると彼女は私の手を払いのけてこう言った。「出口にも捜査員は配備してあるわ。立証出来る証拠がやっと揃ったの。諦めなさい」私は一瞬聞き間違いかと思ったが、彼女が話した流暢な英語で全てを理解した。彼女は捜査員だったのだ。駆けつけた捜査員達はすぐそこまで来ている。私は観念した。逃げ続ける人生にもう疲れ切ってしまった。下を向いたまま黙っている彼女に今までありがとう、と言うと、彼女は首を横に振り「あなたを待ってる」とささやいた。それは私が好きだった下手な英語で、とても小さく、とても悲しげな声だった。